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第16話「甲子園出場決定――学校中に広がる祝福と、全国への準備」


第16話では、地区大会決勝を九対八のサヨナラ勝ちで制し、夏の甲子園出場を決めた肇たちが、再び学校生活へ戻ってきます。


しかし――。


校門には、


『祝 野球部 夏の甲子園出場!』


という大きな横断幕。


校内を歩けば、一年生から三年生まで、多くの生徒たちから、


「甲子園おめでとう!」


「決勝のサヨナラ、見ました!」


「全国でも頑張ってください!」


と次々に声を掛けられます。


地区大会準決勝では二本塁打を放ち、高校通算六十本塁打に到達。


さらに決勝では九回裏に甲子園出場を決めるサヨナラヒット。


エースとしても四番打者としても注目される肇ですが、本人の視線はすでに地区大会ではなく、その先へ向いています。


「地区大会は終わった」


「次は全国で勝つ」


そして放課後。


一条昴監督のもとへ、野球部七十人とマネージャー十一人が再び集合します。


そこで一条監督から告げられるのは、


「地区大会優勝は、今日で忘れろ」


という言葉。


甲子園で本当に勝ち抜くため、肇だけに頼るチームではなく、黒崎蓮、早川慶介、久我直哉ら投手陣をはじめ、全員で戦えるチームへ。


一方、東雲千鶴が顧問を務める吹奏楽部三十人。


そして眞衣が所属するチアリーディング部も、甲子園での応援へ向けて動き始めます。


地区大会優勝はゴールではありません。


むしろ――。


甲子園という全国の舞台へ向かう、新しいスタートです。



地区大会決勝から数日後。


高橋肇は、いつもと同じ時間に学校へ向かっていた。


ただし――いつもと同じだったのは、時間だけだった。


「……すごいことになってるな」


校門が見えてきたところで、肇は思わず足を止める。


そこには、数日前までは存在しなかった巨大な横断幕が掲げられていた。


『祝 野球部 夏の甲子園出場!』


さらにその下には、


『地区大会優勝! 全国の頂点へ!』


という文字まで並んでいる。


「さすがに目立つな……」


肇が苦笑した、その時だった。


「おはよう、高橋!」


「おはようございます、高橋先輩!」


「甲子園おめでとうございます!」


「決勝見ました!」


次々と声を掛けられる。


「ありがとう」


「ありがとう」


一人一人に答えながら校門を通る。


ところが、これで終わらない。


「高橋先輩!」


一年生の男子生徒が駆け寄ってきた。


「決勝の最後、めちゃくちゃ格好良かったです!」


「ありがとう」


「九回裏のサヨナラですよ!?」


「うん」


「緊張しなかったんですか?」


「したよ」


「えっ、高橋先輩でも?」


「するって」


肇が笑う。


むしろ、あの打席は今大会でも特に緊張した。


九回裏。


八対八。


二死一、二塁。


そして相手投手は、最速152キロを誇るドラフト候補・崇道君彦。


あの瞬間だけは、球場中の音が遠くなったような感覚さえあった。


それでも最後は振り抜いた。


打球はセンター前へ。


二塁走者が生還。


九対八。


サヨナラ。


地区大会優勝。


甲子園出場。


何度思い返しても、現実とは思えない。


「甲子園でもホームランお願いします!」


「簡単に言うなよ」


「高校通算七十本まで行ってください!」


「今六十本だぞ?」


「あと十本です!」


「甲子園で十本は無茶だって」


周囲から笑い声が起こる。


すると今度は女子生徒。


「高橋君!」


「ん?」


「地区大会優勝おめでとう!」


「ありがとう」


「決勝、お父さんと見に行ったよ」


「本当に?」


「うん! 最後のサヨナラでお父さんまで叫んでた!」


「それは嬉しいな」


「甲子園も応援するから!」


「ありがとう」


廊下へ入ってからも状況は変わらない。


一年生。


二年生。


三年生。


普段ほとんど話したことのない生徒からまで声を掛けられる。


肇は改めて実感した。


――俺たち、本当に甲子園へ行くんだ。


◇◇◇


教室へ入った瞬間だった。


「来たぞ!」


「今日の主役!」


「甲子園球児!」


「やめろって!」


クラスメイトたちが一斉に肇を囲む。


「高橋、決勝のサヨナラもう一回説明して!」


「ニュースで何回も流れてるだろ」


「本人から聞きたい!」


「何考えてた?」


「打つこと」


「それだけ?」


「それだけ」


「絶対嘘!」


笑い声。


別の男子生徒が言う。


「それより準決勝だよ!」


「何が?」


「一試合二本塁打!」


「ああ」


「三ランと満塁だぞ!」


「高校通算六十号!」


「ニュースで『二刀流のドラフト候補』って紹介されてたぞ!」


肇が少し困ったように笑う。


「ドラフトはまだ先だって」


「でもプロ行くんだろ?」


その質問には少しだけ間を置いた。


「指名してもらえたらな」


教室の空気が少し変わる。


肇が高校卒業後、大学へ進学せずにプロ野球へ挑戦する意向を持っていることは、少しずつ周囲にも知られ始めている。


「すげえな……」


「同じクラスからプロ野球選手出るかもしれないんだぞ」


「まだ決まってないって」


「でも甲子園で活躍したらもっとスカウト来るんじゃない?」


肇は自分の席へ鞄を置いた。


「今はドラフトより甲子園」


「おお」


「地区大会は終わったから」


そして窓の外を見る。


遠くに野球部のグラウンドが見える。


「次は全国で勝つ」


一瞬だけ教室が静かになった。


すると。


「高橋らしいな」


誰かが笑った。


「甲子園優勝してこいよ!」


「任せとけ」


肇も笑った。


◇◇◇


その頃。


一年生の教室でも同じ話題で盛り上がっていた。


「真悠!」


「何?」


「お兄さん、すごかったね!」


真悠の周りには女子生徒が集まっている。


少し離れた別の場所では、眞衣も同じように質問攻めに遭っていた。


「眞衣ちゃん、決勝見に行ってたんでしょう?」


「もちろん」


「最後どうだった?」


「もう……心臓止まるかと思った」


「お兄さんが打った瞬間は?」


「叫んだ」


「やっぱり?」


「真悠も私も叫んだ」


眞衣は決勝の瞬間を思い出す。


九回裏。


兄が打席へ入った。


一球。


二球。


球場中が張り詰めていた。


そして――。


打った。


センター前。


「抜けた!」


真悠と眞衣が同時に立ち上がった。


走者がホームへ。


セーフ。


その瞬間、二人は抱き合った。


吹奏楽部。


チアリーディング部。


同級生。


卒業した先輩たち。


スタンド全体が揺れるような歓声だった。


「でもさ」


同級生が聞く。


「お兄さん、高校通算六十本なんでしょう?」


「うん」


「家でも野球ばっかり?」


眞衣は少し考える。


「昔から野球は好き」


「やっぱり」


「でも家では普通だよ」


「普通?」


「普通のお兄ちゃん」


「想像できない」


「何で?」


「学校だと高橋先輩って、すごく目立つから」


眞衣は笑った。


「家だと普通」


ただし――。


当然ながら話せないこともある。


学校一の高嶺の花。


美人教師として男子生徒から絶大な人気を集める東雲千鶴。


その千鶴と兄・肇が恋人同士であること。


しかも二人が同じ家で生活していること。


それだけは絶対に口にできない。


◇◇◇


一時間目。


二時間目。


三時間目。


授業はいつも通り進んだ。


学校生活そのものは変わらない。


甲子園出場を決めても、肇は高校三年生。


授業を受ける。


ノートを取る。


課題を提出する。


教師から指名されれば答える。


ただし休み時間になると――。


「高橋!」


「甲子園!」


「高橋先輩!」


また質問攻め。


そして昼休み。


肇は購買でパンと飲み物を買い、教室へ戻ろうとしていた。


その途中。


廊下の向こうから、一人の教師が歩いてくる。


東雲千鶴。


肇の足がほんの少しだけ止まりそうになる。


しかし学校。


周囲には生徒がいる。


千鶴も同じだった。


いつもの教師の表情。


二人の関係を知らない生徒から見れば、ただの教師と生徒。


すれ違う直前。


千鶴が声を掛けた。


「高橋君」


「はい、東雲先生」


「甲子園出場、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


それだけ。


千鶴は微笑む。


「吹奏楽部も応援の準備を始めています」


「はい」


「部員たちも楽しみにしていますよ」


「甲子園まで連れて行くって約束したので」


「ちゃんと果たしましたね」


「はい」


ほんの一瞬。


二人の視線が重なる。


肇には分かった。


教師としての「おめでとう」の奥に、別の気持ちがあることを。


地区大会が始まる前。


二人で話した。


必ず地区大会で優勝する。


千鶴を甲子園へ連れて行く。


そして――。


甲子園でも優勝する。


その約束の第一段階を、肇は果たした。


しかし今は学校。


「それでは、高橋君」


「はい」


「午後の授業に遅れないように」


「分かりました」


千鶴はそのまま歩いていく。


肇も振り返らない。


だが心の中では。


――次は全国だから。


そう呟いていた。


◇◇◇


放課後。


野球部専用グラウンド。


「集合!」


一条昴監督の声が響いた。


「はい!」


七十人の部員たちが一斉に集まる。


三年生。


二年生。


一年生。


その後方には十一人の女子マネージャーも並んでいた。


地区大会優勝。


甲子園出場。


だからといって浮かれている部員はいない。


いや。


嬉しくないわけではない。


むしろ全員嬉しい。


だが、ここから先は全国。


一条監督が全員を見る。


「まず」


少し間。


「地区大会優勝、おめでとう」


「ありがとうございます!」


七十人の声。


「そしてマネージャー」


十一人を見る。


「お前たちも、お疲れさま」


「ありがとうございます!」


マネージャーたちも頭を下げる。


一条は続けた。


「地区大会を振り返れば、いろいろあった」


初戦。


二回戦。


三回戦。


四回戦。


準々決勝。


準決勝。


決勝。


「高橋が三回戦で一試合三本塁打」


肇を見る。


「はい」


「準決勝で二本塁打」


「はい」


「高校通算六十本」


周囲から小さな拍手。


「そして決勝」


一条が全員を見る。


「九対八」


誰も喋らない。


「最後は高橋のサヨナラ」


肇が小さく頭を下げる。


「だが」


一条の声が強くなる。


「高橋一人で甲子園へ行くのか?」


「違います!」


鈴木和誠主将が最初に答えた。


「そうだ」


一条は頷く。


「七十人全員だ」


控え部員たちも監督を見る。


「ベンチに入った者だけじゃない」


「はい!」


「スタンドから声を出した者」


「はい!」


「打撃投手を務めた者」


「はい!」


「守備練習を手伝った者」


「はい!」


「スコアを取ったマネージャー」


「はい!」


「相手校を分析した者」


「はい!」


「全員で掴んだ甲子園だ」


「はい!」


一条監督は少し間を置いた。


そして。


「ただし」


全員の顔が引き締まる。


「地区大会優勝は、今日で忘れろ」


静寂。


「お前たちの目標は何だ?」


和誠が答える。


「全国制覇です!」


「聞こえない!」


「全国制覇です!」


今度は全員。


「全国制覇です!」


グラウンドへ大声が響いた。


◇◇◇


「ここから甲子園まで、練習内容を一段階上げる」


一条監督はホワイトボードを用意していた。


「まず投手陣」


肇。


黒崎蓮。


早川慶介。


久我直哉。


そして他の投手たちが前を見る。


「甲子園では高橋一人に投げさせない」


肇が頷く。


「黒崎」


「はい!」


「早川」


「はい!」


「久我」


「はい!」


「お前たちにも普通に先発してもらう可能性がある」


三人の表情が変わる。


「高橋」


「はい」


「嫌か?」


肇は即答した。


「全然」


「本当に?」


「はい」


少し笑って続ける。


「むしろお願いします」


黒崎たちが肇を見る。


「俺が全部投げる必要ないです」


一条は黙って聞く。


「地区大会で分かりました」


肇は続けた。


「俺が投げない試合でも勝てるチームじゃないと、全国では勝てないと思います」


一条が少し笑った。


「その通りだ」


そして黒崎を見る。


「聞いたな?」


「はい!」


「早川」


「はい!」


「久我」


「はい!」


「高橋からマウンド奪うつもりでやれ」


「はい!」


肇が笑う。


「簡単には渡さないけどな」


黒崎も笑う。


「奪ってやるよ」


早川も。


「甲子園で先発する」


久我も。


「俺もです」


投手陣の空気が変わる。


競争。


しかし敵ではない。


同じチーム。


互いに競いながら、全国制覇を目指す。


◇◇◇


次は捕手陣。


前薗晃大。


橘優成。


松岡亮平。


一条監督が言う。


「甲子園では相手のデータ量が増える」


「はい」


「打者一人一人の傾向を頭に入れろ」


前薗が頷く。


「分かりました」


「前薗」


「はい」


「高橋だけ見てるな」


前薗が一瞬止まる。


「黒崎、早川、久我。他の投手とも組め」


「はい」


肇が横から言う。


「晃大」


「何?」


「俺だけ特別扱いするなよ」


「するか」


「本当に?」


「お前が一番面倒くさい」


「何でだよ」


周囲が笑う。


一条監督も少し笑った。


「そのくらいでいい」


◇◇◇


続いて野手。


内野。


外野。


一条監督は一人一人に課題を伝えていく。


安西航。


西川陸斗。


大野蒼真。


森川駿。


そしてレギュラー陣。


「甲子園は球場の広さも違う」


「はい!」


「観客の数も違う」


「はい!」


「声が通らないこともある」


「はい!」


「だから普段以上に確認しろ」


そして。


「四番」


「はい」


肇が返事。


「お前は打撃」


「はい」


「六十本で満足してるか?」


「してません」


「次は?」


肇は少し笑う。


「六十一号」


一条も笑う。


「そうだ」


周囲も笑った。


「七十号じゃないんですか?」


誰かが言う。


肇が即答。


「一個ずつだよ」


「高橋らしい」


◇◇◇


練習開始。


まずランニング。


七十人がグラウンドを走る。


「声出せ!」


「はい!」


「甲子園行くんだろ!」


「はい!」


「地区大会優勝で満足してないだろ!」


「はい!」


肇も先頭集団を走る。


和誠が隣。


「肇」


「何?」


「実感ある?」


「何が?」


「甲子園」


肇は少し考えた。


「まだ半分くらい」


「俺も」


「でも学校の横断幕見たら少し実感した」


「でかかったな」


「でかすぎる」


二人が笑う。


和誠が前を見る。


「最後の夏だな」


肇も。


「うん」


「負けたら終わり」


「そうだな」


「だったら」


和誠が速度を上げる。


「最後まで勝つぞ!」


肇も追いかける。


「当たり前!」


◇◇◇


同じ頃。


音楽室。


「全員集合してください」


千鶴の声。


吹奏楽部三十人が集まる。


その中には真悠もいる。


「はい!」


「地区大会では、本当にお疲れさまでした」


千鶴が頭を下げる。


部員たちも拍手。


「そして」


千鶴は微笑む。


「野球部が約束を果たしてくれました」


真悠が少し嬉しそうに笑う。


以前。


肇。


捕手・前薗晃大。


主将・鈴木和誠。


三人がこの音楽室へ来た。


そして肇は、吹奏楽部三十人へ言った。


――まず地区大会で優勝して、必ず甲子園へ連れて行く。


その約束。


本当に果たした。


「今度は私たちの番です」


千鶴が言う。


「甲子園で」


部員たちを見る。


「野球部を全力で応援しましょう」


「はい!」


「一条監督から相談されていた新しい応援曲も、本格的に仕上げます」


部員たちが楽譜を見る。


「選手一人一人に合わせた曲」


「はい」


「今まで以上の演奏が必要です」


「はい!」


真悠も自分の楽器を握る。


兄が連れて行ってくれた場所。


今度は自分たちが音で背中を押す。


「お兄ちゃん……」


誰にも聞こえないほど小さな声。


「今度は私たちが応援するから」


◇◇◇


別の場所。


体育館。


「もっと腕伸ばして!」


「はい!」


チアリーディング部。


その中に眞衣。


「甲子園では今までより大勢の観客がいます!」


「はい!」


「野球部に届くくらい大きな応援を!」


「はい!」


眞衣は額の汗を拭く。


兄が打席へ入る。


その時。


スタンドから声を届ける。


地区大会決勝。


九回裏。


あのサヨナラの瞬間を思い出す。


「次も絶対勝ってよね」


小さく呟く。


そして再び練習へ戻った。


◇◇◇


夕方。


野球部グラウンド。


「ラスト十本!」


打撃練習。


肇が打席へ。


前薗が捕手。


マウンドには黒崎。


「行くぞ!」


「来い!」


一球目。


ストレート。


カキィィン!


鋭い打球が右中間へ。


「次!」


二球目。


ファウル。


三球目。


変化球。


空振り。


前薗が笑う。


「今の振る?」


「振った」


「完全に泳いでたぞ」


「うるさい」


黒崎も笑う。


「甲子園でそれ振ったら三振だぞ」


「もう一球!」


四球目。


黒崎が投げる。


肇が振る。


カァァン!


高く上がった打球。


全員が見上げる。


そのまま――。


フェンスの向こう。


「おお!」


「入った!」


「高橋!」


肇はバットを肩に乗せる。


「今のは良かった」


前薗が言う。


「自分で言うな」


一条監督は少し離れたところから見ている。


「高橋!」


「はい!」


「今ので終わり!」


「あと六本あります!」


「終わり!」


「えっ?」


「投げ込みもしただろ!」


「まだいけます!」


一条監督が睨む。


「高橋」


「……はい」


「休むのも練習だ」


肇は少し不満そう。


「分かりました」


周囲から笑い。


黒崎が言う。


「監督、正解です」


「黒崎!」


「お前絶対まだやるだろ」


「やる」


「ほら」


前薗も笑う。


「全国行く前に壊れたら意味ないぞ」


「分かってるって」


一条監督はそんな選手たちを見ながら、静かに息を吐いた。


甲子園。


そこへ連れて行くだけではない。


全国で戦える状態に仕上げる。


監督としての本当の仕事は、ここからだった。


◇◇◇


練習終了。


「ありがとうございました!」


七十人が一斉に頭を下げる。


マネージャー十一人も。


「ありがとうございました!」


空はすっかり夕焼け。


肇はグラウンドに残り、マウンドを見つめた。


前薗が隣へ来る。


「帰らないの?」


「帰る」


「じゃあ何見てる?」


「マウンド」


「毎日見てるだろ」


「そうだけど」


少し間。


「ここで投げるのも、あと少しなんだなって」


前薗が黙る。


三年間。


何度も投げた。


勝った。


負けた。


怒られた。


笑った。


そして今。


このグラウンドから甲子園へ行く。


「晃大」


「何?」


「甲子園でも頼む」


前薗が笑う。


「今さら?」


「一応」


「こっちの台詞」


「絶対逸らすなよ」


「お前が変な球投げなければな」


「捕れよ」


「捕るよ」


二人が笑った。


◇◇◇


その夜。


肇が家へ戻る。


玄関を開ける。


「ただいま」


「おかえりなさい」


千鶴の声。


学校とは違う。


東雲先生ではない。


二人だけの家。


リビングへ入る。


千鶴が夕食の準備をしていた。


「練習どうだった?」


「きつかった」


「当然でしょう」


「監督に途中で止められた」


千鶴が振り返る。


「何を?」


「打撃練習」


「どうして?」


「投げ込みもしたから」


千鶴はすぐに納得する。


「一条先生が正しいです」


「千鶴まで?」


「当たり前です」


「まだできたのに」


「肇君」


「はい」


「甲子園前に怪我をしたいんですか?」


「したくない」


「なら休んでください」


肇が苦笑する。


「父さんと監督と千鶴、みんな同じこと言う」


「みんな心配しているんです」


「分かってる」


千鶴は少しだけ表情を柔らかくする。


「それに」


「何?」


「地区大会優勝で終わりじゃないでしょう?」


肇は千鶴を見る。


「うん」


「私を甲子園へ連れて行くという最初の約束は」


千鶴が微笑む。


「ちゃんと守ってくれました」


肇も笑う。


「当然」


「でも」


千鶴は続ける。


「もう一つありますよね?」


肇は迷わず答えた。


「甲子園優勝」


「はい」


「覚えてるよ」


肇は窓の向こうを見る。


地区大会。


九対八。


サヨナラ。


あの瞬間は忘れない。


けれど。


もう次へ行かなければならない。


「今日、監督にも言われた」


「何を?」


「地区大会優勝は今日で忘れろって」


千鶴が少し笑う。


「一条先生らしいですね」


「俺もそう思う」


そして肇は千鶴を見る。


「次は全国」


「はい」


「俺だけじゃない」


前薗晃大。


鈴木和誠。


黒崎蓮。


早川慶介。


久我直哉。


橘優成。


松岡亮平。


安西航。


大野蒼真。


西川陸斗。


森川駿。


そして野球部七十人。


マネージャー十一人。


吹奏楽部三十人。


チアリーディング部。


学校。


家族。


卒業した先輩たち。


たくさんの人がいる。


「全員で行く」


肇は言った。


「甲子園」


千鶴は静かに頷く。


「はい」


そして。


「頑張ってください、高橋君」


肇が少し不満そうな顔をする。


「ここでも高橋君?」


千鶴が笑う。


「学校の癖です」


「家では肇でいいのに」


「じゃあ」


千鶴は少しだけ間を置いて。


「頑張って、肇」


「うん」


その言葉だけで十分だった。


地区大会優勝は、もう過去になろうとしている。


学校に掲げられた大きな横断幕。


祝福してくれる生徒たち。


全国を想定した野球部七十人の練習。


吹奏楽部三十人の新しい応援。


チアリーディング部の準備。


すべてが一つの場所へ向かって動き始めていた。


甲子園。


高校最後の夏。


高橋肇たちの地区大会は終わった。


だが――。


全国の頂点を目指す本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。



第16話「甲子園出場決定――学校中に広がる祝福と、全国への準備」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は地区大会優勝直後。


学校全体が「甲子園」という一つの目標へ向かって動き始める様子を中心に描きました。


地区大会決勝。


八対八で迎えた九回裏。


二死一、二塁。


そこで肇が放ったセンター前へのサヨナラヒット。


九対八。


地区大会優勝。


そして――夏の甲子園出場決定。


その結果を受け、久しぶりに学校へ登校した肇を待っていたのは、これまでとはまったく違う光景でした。


巨大な甲子園出場の横断幕。


同級生。


後輩。


先輩。


そして普段ほとんど話したことのない生徒たちからまで届く祝福。


高校通算六十本塁打。


地区大会準決勝での二本塁打。


決勝でのサヨナラ打。


さらに投手としてもチームのエース。


自然と肇へ注目が集まっていきます。


しかし本人が考えているのは、


「ドラフトでどう評価されるか」


でも、


「学校でどれだけ有名になったか」


でもありません。


今、一番大切なのは――甲子園で勝つこと。


そして今回、一条監督が野球部七十人へ改めて伝えたのが、


「高橋一人で甲子園へ行くのか?」


という問いでした。


答えはもちろん――違います。


高橋肇。


前薗晃大。


主将・鈴木和誠。


黒崎蓮。


早川慶介。


久我直哉。


そしてベンチメンバー。


スタンドから声を出した部員。


相手校を分析した部員。


打撃投手を務めた部員。


マネージャー十一人。


全員で地区大会を勝ち抜きました。


だから甲子園でも、


『全員で勝つ。』


その姿勢は変わりません。


特に今回、肇自身が、


「俺が全部投げる必要はない」


「俺が投げない試合でも勝てるチームじゃないと全国では勝てない」


と話したことは、大きな成長だったと思います。


以前なら、


「最後まで投げる」


「自分が抑える」


と考えていた肇。


しかし地区大会を通して、仲間を信じてマウンドを託すことを覚えました。


だからこそ黒崎、早川、久我には、


「高橋からマウンドを奪うつもりでやれ」


という一条監督からの言葉も。


甲子園では誰が先発するのか。


誰が試合終盤を任されるのか。


投手陣の競争も、ここからさらに激しくなっていきます。


そして野球部だけではありません。


吹奏楽部三十人。


真悠も所属するその部では、千鶴が顧問として甲子園応援の準備を開始。


地区大会前、肇が吹奏楽部三十人へ約束した、


「必ず地区大会で優勝して、甲子園へ連れていく」


という言葉。


その約束は、本当に果たされました。


だから今度は吹奏楽部が、


「甲子園で野球部を支える番」


となります。


さらに眞衣が所属するチアリーディング部も、全国の大舞台へ向けて練習を開始。


グラウンドでは野球部。


音楽室では吹奏楽部。


体育館ではチアリーディング部。


学校のさまざまな場所で、同じ「甲子園」へ向けた準備が進んでいます。


そして夜。


家へ戻った肇と千鶴。


学校ではあくまで、


「東雲先生」


「高橋君」


として接していた二人。


しかし家へ戻れば、二人だけの時間。


千鶴から改めて、


「私を甲子園へ連れて行くという約束は守ってくれました」


と伝えられました。


ただし、二人の約束はまだ終わっていません。


地区大会優勝。


甲子園出場。


ここまでは達成。


残るのは――。


『甲子園優勝』


そして、その先にある肇自身が決めた未来。


甲子園で優勝したら、千鶴へプロポーズする。


高校卒業後には大学へ進まず、ドラフト指名を受けてプロ野球へ挑戦する。


どれもまだ先の話です。


だから今は、一つずつ。


地区大会優勝という大きな喜びを胸に残しながらも、肇たちは新しい目標へ切り替えました。


次なる舞台は――全国。


高校最後の夏。


甲子園へ向けた準備期間は、まだ始まったばかりです。


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