番外編⑹❷「父親と教師、そして校長――喫茶店で語られる肇の未来と、三人の大人たち」
番外編⑹❷では、地区大会優勝と甲子園出場を決めた後、高橋肇の父親が息子の通う学校を訪れます。
今回の中心となるのは、肇本人ではなく――その周囲にいる大人たち。
肇の父親。
野球部監督・一条昴。
東雲千鶴。
そして校長先生。
まず学校を訪れた肇の父親は、グラウンドで一条監督と顔を合わせます。
そこで判明した意外なつながり。
二人は直接親しい間柄ではありませんでしたが、なんと共通する親友・森崎修司を通じて、以前から互いの存在を聞いていた顔見知りに近い関係でした。
「高校野球の監督をしている一条という友人がいる」
「高校野球をしている息子がいる友人がいる」
互いに聞いていた話の人物が、まさか高橋家と一条監督だったとは――。
思いがけない縁が明らかになります。
そして校長室では、大学時代の先輩・後輩でもある肇の父親と校長先生が久しぶりに二人で話すことに。
話題となるのは当然、甲子園へ進む肇の進路。
高校卒業後は大学へ進学せず、ドラフトで指名されれば直接プロ野球の世界へ挑戦するという決意。
そしてもう一つ――東雲千鶴との将来。
甲子園で優勝したらプロポーズする。
高校卒業後には正式に結婚を申し込む。
そんな肇の未来について、保護者、教師、校長、それぞれの立場から改めて考える時間となりました。
さらに学校近くの喫茶店では、肇の父親と千鶴が二人きりで向き合います。
「本当に私でいいんですか?」
そう問いかける千鶴に、肇の父親が伝える答えとは――。
甲子園を前に、肇を支える大人たちの関係が、また一つ深まる番外編です。
地区大会決勝を九対八のサヨナラ勝ちで制し、夏の甲子園出場を決めてから数日。
高橋肇を取り巻く環境は、これまで以上に慌ただしくなっていた。
学校では甲子園出場を知らせる横断幕が掲げられ、野球部は全国大会へ向けた練習を開始。
吹奏楽部も応援曲の調整に入り、チアリーディング部も甲子園での応援へ向けて練習を重ねていた。
当然ながら、肇も朝から野球部の練習。
エース。
四番。
高校通算六十本塁打。
そして地区大会決勝では、九回裏に甲子園出場を決めるサヨナラヒット。
学校中の注目を集めている。
しかし――。
その日。
肇本人が知らないところで、三人の大人が彼について話すことになっていた。
一人目は、肇の父親。
二人目は、肇の恋人でありながら、学校では教師として接している東雲千鶴。
そして三人目は――。
肇たちが通う高校の校長だった。
◇◇◇
午前十時過ぎ。
学校の正門前に、一人の男性が立っていた。
肇の父親だった。
今日は仕事が休み。
先日の地区大会優勝祝いでは、息子と二人きりになり、自分は酒、十八歳の肇にはジンジャーエールを用意してグラスを酌み交わした。
そこで聞いた。
高校卒業後は大学へ進学せず、ドラフトで指名されたなら高卒でプロ野球へ挑戦すること。
そしてもう一つ。
甲子園で優勝したら東雲千鶴へプロポーズし、高校卒業後に正式に結婚を申し込みたいこと。
父親として驚きがないわけではなかった。
だが、肇が思いつきで言っているわけではないことも分かっていた。
だからこそ今日は――。
父親自身が学校へ足を運んだ。
「久しぶりだな……」
校舎を見上げる。
自分の母校というわけではない。
しかし、今では息子だけでなく、双子の娘である真悠と眞衣も通っている学校。
父親にとっても縁の深い場所になっていた。
受付で名前と用件を告げる。
「高橋肇の父です。本日、校長先生とお約束しておりまして」
受付の職員が確認する。
「高橋様ですね。伺っております」
「よろしくお願いします」
来客用の名札を受け取り、校舎へ。
その途中だった。
グラウンドから大きな声が聞こえてくる。
「もう一本!」
「はい!」
「足止めるな!」
「はい!」
野球部。
父親は自然と足を止めた。
ネット越しに見る。
七十人ほどの部員たちが、甲子園へ向けて練習をしている。
そして、その中央。
「高橋! 次ブルペン!」
「はい!」
聞き慣れた息子の声。
父親は少し笑った。
「家とは全然違う顔してるな」
学校では野球部のエース。
四番。
後輩からも頼られる三年生。
家で見る息子とは違う。
すると。
「高橋さんですか?」
突然、後ろから声がした。
父親が振り返る。
そこには野球部のユニフォーム姿の男性が立っていた。
一条昴監督。
「あ……」
一条も少し驚く。
「高橋肇の?」
「父です」
「やっぱり」
二人が軽く頭を下げる。
「一条昴です。野球部監督をしています」
「もちろん存じています。いつも息子がお世話になっています」
「こちらこそ。高橋には随分助けられています」
握手。
ただ――。
二人とも、どこか不思議そうな顔をした。
初対面に近い。
なのに、完全な初対面という感じがしない。
父親が先に口を開いた。
「一条……昴さん」
「はい」
「もしかして、森崎修司をご存じですか?」
一条の目が大きくなる。
「森崎さん?」
「はい」
「知っています。というか……」
一条が驚いた。
「私の昔からの親友です」
父親が思わず笑う。
「やっぱり」
「どうして森崎を?」
「私も友人なんです」
「え?」
一条がさらに驚く。
二人を直接結びつける関係ではない。
しかし――。
共通する親友がいた。
森崎修司。
肇の父親にとっても長年付き合いのある友人。
そして一条昴にとっても、野球を通して知り合い、長く交流してきた親友だった。
「森崎から聞いたことがありますよ」
父親が言った。
「高校野球の監督をしている一条っていう友人がいるって」
一条も笑う。
「私もです。森崎が以前、『高校野球やってる息子がいる友達がいる』って」
二人が同時に黙る。
そして。
「それ、高橋のことだったんですね」
「一条監督のことだったんですね」
二人とも笑ってしまった。
「世間狭いですね」
「本当に」
一条がグラウンドを見る。
「まさか森崎の友人の息子を、私が三年間指導していたとは」
「私も驚きました」
「直接会ったことは?」
「たぶんありません」
「ですよね。私も顔はどこかで見たような気がする程度でした」
「森崎の写真か何かかもしれませんね」
「ありそうですね」
二人が再び笑う。
◇◇◇
その時。
グラウンドから肇の声。
「監督!」
「おう!」
「ブルペン入ります!」
「前薗と?」
「はい!」
一条が手を上げる。
「今日は七割程度にしておけ!」
「分かりました!」
父親は息子を見る。
「ちゃんと監督の言うこと聞いてます?」
一条が少し考える。
「最近は」
「最近?」
「以前は投げたがりました」
「やっぱり」
「『まだ行けます』『大丈夫です』って」
父親が頭を押さえる。
「家でもそうなんです」
「でしょうね」
「怪我しても大丈夫って言うタイプです」
「完全に一致しました」
二人が苦笑する。
一条は少し真剣な顔になる。
「でも、地区大会で成長しましたよ」
「そうですか?」
「はい」
一条は決勝を思い出す。
「決勝では六回途中で私が交代を告げました」
父親が頷く。
「見ていました」
「以前の高橋なら、もう一回だけとか、最後まで投げたいとか言ったと思います」
「はい」
「でもあの日は『はい』と」
父親が少し笑う。
「そうでしたね」
「後ろを信じられるようになったんでしょう」
黒崎蓮。
早川慶介。
久我直哉。
控え投手たち。
そして前薗晃大をはじめとする仲間。
一人で勝つのではない。
チーム全員で勝つ。
地区大会を通して、肇自身もそれを理解していった。
「甲子園でも」
一条は言う。
「高橋一人に背負わせるつもりはありません」
父親が監督を見る。
「お願いします」
「もちろんです」
「息子を」
父親は深く頭を下げる。
「よろしくお願いします」
一条も頭を下げた。
「お預かりします」
◇◇◇
その後。
父親は校長室へ向かった。
コンコン。
「どうぞ」
「失礼します」
扉を開く。
校長が立ち上がった。
「お久しぶりです」
父親も笑う。
「久しぶり」
この二人は、ただの保護者と校長ではない。
大学時代からの先輩後輩。
先輩が肇の父親。
後輩が現在の校長。
卒業後はそれぞれ別々の道へ進んだものの、完全に交流が途絶えたわけではなかった。
校長が応接用の席を示す。
「どうぞ」
「ありがとう」
二人が座る。
最初は学校らしく。
「まずは」
校長が言う。
「地区大会優勝、そして甲子園出場、おめでとうございます」
父親が頭を下げる。
「ありがとうございます」
「決勝、すごい試合でした」
「九対八ですからね」
「しかも最後が肇君」
「親として心臓に悪かったですよ」
校長が笑う。
「私もですよ」
「校長が?」
「当然でしょう。学校代表ですよ」
「なるほど」
「九回裏、二死一、二塁。高橋君が打席に入った時は……」
校長が胸に手を当てる。
「もう見ていられませんでした」
父親が笑う。
「私は立ってました」
「座っていられなかった?」
「そう」
「同じですね」
二人が笑う。
そして校長が少し表情を変えた。
「先輩」
学校ではまず使わない呼び方。
父親も表情を柔らかくする。
「久しぶりにそう呼ばれたな」
「今日は保護者面談だけじゃありませんから」
「そうだな」
「肇君のことですよね」
「うん」
校長はすでに分かっていた。
野球の進路。
そして――千鶴との関係。
父親がゆっくり話し始める。
「先日、家で優勝祝いをした」
「はい」
「千鶴先生も一緒に」
「そうでしたか」
「そこで肇から聞いた」
校長は黙って聞く。
「大学には行かない」
「……プロですね」
「そう」
「やはり」
「学校でも?」
「一条監督からある程度は聞いています」
「そうか」
「本人とも進路について話す必要がありますから」
父親は頷いた。
「ドラフトで指名されたら、高卒でそのままプロへ行きたいそうだ」
「私はいいと思います」
父親が少し驚く。
「即答だな」
「もちろん、指名されればという前提ですが」
「うん」
「高橋君には挑戦できるだけの実績があります」
「高校通算六十本」
「それだけではありません」
校長は言う。
「投手としても評価されています」
「そうなのか?」
「はい。一条監督から聞いています。複数の関係者が高橋君を見ています」
父親は少し黙る。
息子本人は、あまりそういう話を家庭ではしない。
「本人、何も言わないんだよ」
「高橋君らしいですね」
「そうなのか?」
「学校でも自分から『スカウトが来た』なんて話すタイプではありません」
「確かに」
「でも」
校長は微笑む。
「周りの生徒が全部知っています」
父親が笑う。
「ニュースにもなってるからな」
「地区大会決勝以降、さらに注目されています」
◇◇◇
少しして。
父親が本題を変える。
「もう一つ」
校長の表情が真剣になる。
「東雲先生ですね」
「うん」
父親は驚かなかった。
校長、教頭、一条監督。
すでに学校側の一部は二人の関係を知っている。
「本人から聞いた」
「はい」
「甲子園で優勝したら千鶴先生にプロポーズするそうだ」
校長は少しだけ目を見開いた。
「そこまで決めましたか」
「聞いてない?」
「交際と将来については聞いています。ただ、甲子園優勝後にプロポーズするところまでは詳しく聞いていませんでした」
「卒業後に正式に結婚を申し込むらしい」
校長は腕を組む。
しばらく考える。
「先輩は?」
「俺?」
「どう思っています?」
父親は即答しなかった。
窓の向こう。
遠くにグラウンドが見える。
そのどこかに息子がいる。
「簡単な話じゃないと思ってる」
「そうですね」
「年齢差もある」
「はい」
「それ以上に、今は教師と生徒だ」
校長は頷く。
「そこが学校としては一番重要です」
「分かってる」
父親も真剣になる。
「だから俺も肇には言った。順番を守れって」
「卒業後に?」
「そう」
「それなら私も同じ考えです」
校長は続ける。
「私が二人の個人的な将来そのものを決める立場ではありません」
「うん」
「ですが、肇君が本校の生徒である間、東雲先生には教師としての責任があります」
「当然だ」
「学校内では教師と生徒」
「うん」
「成績、進路、部活動、学校生活において特別扱いをしない」
「それも分かってる」
「そして卒業までは、学校側として必要な線引きをする」
父親は頷いた。
「それでいい」
校長が少し驚く。
「先輩」
「何?」
「もっと父親として何か言われるかと思っていました」
「例えば?」
「二人を認めてほしいとか」
父親は小さく笑う。
「それは違うだろ」
校長が見る。
「俺は父親」
「うん」
「君は校長」
「はい」
「立場が違う」
校長は少し黙った。
父親は続ける。
「俺が家で二人を認めてるからって、学校のルールまで変えてくれとは言えない」
「……」
「学校では学校の判断をしてくれ」
校長は静かに頷く。
「ありがとうございます」
「ただ」
「はい」
「卒業した後は」
父親が少し笑う。
「一人の大人同士として、本人たちに決めさせてやってほしい」
校長も微笑んだ。
「もちろんです」
◇◇◇
コンコン。
校長室の扉。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは――千鶴だった。
「東雲先生」
「校長先生」
そして。
「高橋さん」
父親が立ち上がる。
「千鶴先生」
「今日は学校へ来られていたんですね」
「校長先生と話があって」
校長が言う。
「東雲先生にも同席していただこうと思って呼びました」
「はい」
千鶴は少し緊張した表情で座る。
父親。
校長。
千鶴。
三人。
普段なら、なかなか実現しない組み合わせだった。
校長が最初に言う。
「東雲先生」
「はい」
「高橋さんから、先日のご家庭での話を聞きました」
千鶴は一瞬、父親を見る。
「プロ入りと……」
「結婚についてです」
千鶴の表情が少し変わる。
「はい」
「まず確認します」
校長はあくまで校長として話す。
「肇君が高校を卒業するまでは、あなたは本校の教師です」
「はい」
「肇君は生徒です」
「はい」
「ここは変わりません」
「承知しています」
「学校内で特別な扱いをしない」
「もちろんです」
「進路についても、一条監督や進路担当、保護者を含めて通常の手順で進める」
「はい」
「そして将来について正式に動くのであれば、卒業後」
千鶴はしっかり頷く。
「そのつもりです」
校長は父親を見る。
「高橋さんも同じ認識です」
千鶴が父親を見る。
「ありがとうございます」
父親は首を横に振る。
「千鶴先生が謝ったり、お礼を言ったりする話じゃありません」
「でも……」
「俺も肇には言っています」
「順番を守れ、と」
千鶴は少し安心したように頷いた。
「はい」
◇◇◇
校長が少し柔らかい表情になる。
「ここからは校長としてというより、少し個人的な話になります」
千鶴が見る。
「はい」
「東雲先生」
「はい」
「高橋君のどこがそんなに好きなんですか?」
「えっ?」
千鶴の顔が一瞬で赤くなる。
父親まで驚いた。
「おい」
「何です?」
「校長が聞く質問か?」
「今は個人的な話と言ったでしょう」
「それでもだ」
千鶴は完全に困っていた。
「校長先生……」
「以前、一条監督から聞いたんです」
「何をですか?」
「一条監督が東雲先生に、高橋君の好きなところを十個聞いたと」
千鶴が固まる。
「一条先生……!」
父親が笑い出す。
「十個?」
「はい」
「答えたんですか?」
千鶴は赤面したまま、
「……答えました」
「全部?」
「十個」
父親がさらに笑う。
「肇が聞いたら喜びそうだ」
千鶴が小さな声で、
「もう本人にも聞かれました……」
「聞いたのか」
「はい」
校長まで笑う。
緊張していた校長室の空気が少し柔らかくなった。
◇◇◇
父親は改めて千鶴を見る。
「千鶴先生」
「はい」
「昨日、由紀子とも話しましたよね」
「はい」
「何を話したかは詳しく聞いてません」
千鶴が少し微笑む。
「由紀子先輩から、肇君のことをよろしくお願いします、と言われました」
父親が静かに頷く。
「そうですか」
「はい」
「じゃあ俺からも」
千鶴の表情が変わる。
父親は深く頭を下げるわけではない。
ただ、父親として真っ直ぐ千鶴を見る。
「息子をよろしくお願いします」
千鶴は驚いた。
「高橋さん……」
「ただし」
父親は続ける。
「今すぐ、という意味じゃありません」
「はい」
「学校では先生として」
「はい」
「卒業した後、本当に二人が同じ気持ちなら」
少し間。
「その時は肇のことをよろしくお願いします」
千鶴は静かに頭を下げた。
「はい」
「私も」
言葉を選ぶ。
「肇君のことを大切にします」
父親が頷く。
校長は二人のやり取りを黙って見ていた。
◇◇◇
校長室での話が終わった後。
父親が立ち上がる。
「では、そろそろ」
千鶴も。
「私も授業の準備に戻ります」
校長が二人を見る。
「高橋さん」
「何?」
「少し時間あります?」
「まだ大丈夫だけど」
「久しぶりに話したいことがあります」
父親が笑う。
「大学時代の?」
「それも」
千鶴が言う。
「でしたら私は――」
すると父親が、
「千鶴先生」
と呼び止めた。
「はい?」
「この後、時間あります?」
「今日は午前の仕事が一段落していますので、お昼までなら」
「じゃあ」
父親が少し考える。
「学校の近くに喫茶店ありますよね」
千鶴が驚く。
「ありますけど」
「少し話しませんか?」
「私と?」
「はい」
校長がニヤッとする。
「未来のお義父さんとの面談ですね」
「校長先生!」
千鶴が真っ赤になる。
父親も苦笑する。
「まだ早い」
「でも可能性はあるでしょう?」
「肇が甲子園優勝してからだそうだ」
「条件が大きいですね」
「本人が勝手に決めてるだけだけどな」
三人が笑った。
◇◇◇
学校から徒歩数分。
昔から地域で営業している小さな喫茶店。
昼前ということもあり、店内には数人の客しかいなかった。
父親と千鶴は、奥の席へ座る。
「何にします?」
「私はブレンドコーヒーで」
「私も同じものにします」
注文を終える。
少しだけ沈黙。
学校の校長室とは違う。
今度は――。
肇の父親。
そして肇の恋人。
二人だけ。
千鶴が少し緊張している。
父親が気づく。
「緊張してます?」
「少し」
「昨日も家で会ったばかりなのに」
「二人きりは、あまりありませんから」
「確かに」
コーヒーが運ばれてくる。
二人が一口飲む。
父親が先に話した。
「千鶴先生」
「はい」
「一つ聞いてもいいですか?」
「はい」
「肇がプロに行くこと」
千鶴はカップを置いた。
「はい」
「どう思っています?」
千鶴は少し考える。
「心配です」
父親が少し意外そうな顔。
「反対ではなく?」
「反対ではありません」
「じゃあ何が?」
「怪我です」
「なるほど」
「高校野球でも投手として投げて、四番として打って」
「はい」
「プロへ行けば、もっと厳しい環境になると思います」
「そうですね」
「肇君は無理をしても大丈夫と言うので」
父親が笑う。
「さっき一条監督とも同じ話をしました」
「やっぱりですか」
「家でも学校でも同じらしい」
千鶴も笑う。
「だから心配なんです」
「でも行ってほしい?」
「はい」
迷わなかった。
「肇君がずっと目指してきた場所ですから」
「うん」
「私が心配だからという理由で諦めてほしくありません」
父親は静かに頷く。
「その言葉、聞けてよかった」
「どうしてですか?」
「プロへ行くって、本人だけの問題じゃなくなるからです」
千鶴は黙って聞く。
「もし二人が将来結婚するなら」
「はい」
「千鶴先生の生活も変わる」
「そうですね」
「どこの球団に行くか分からない」
「はい」
「一軍に定着できるかも分からない」
「はい」
「遠征もある」
「キャンプもある」
「結果が出なければ二軍もある」
「怪我もある」
「戦力外だってある世界です」
千鶴の表情は変わらない。
「分かっています」
「それでも?」
「はい」
千鶴は答える。
「それでも、肇君に挑戦してほしいです」
◇◇◇
父親がコーヒーを一口飲む。
「由紀子から聞きました」
「何をですか?」
「千鶴先生が、高校時代はトロンボーンを吹いていたこと」
千鶴が少し驚く。
「そんな話まで?」
「由紀子と先輩後輩なんでしょう?」
「はい」
「昔から真面目だったって」
千鶴が苦笑する。
「由紀子先輩は何でも話しますね」
「肇の性格、母親似かもしれない」
「確かに少し似ています」
「そこ認めるんですね」
二人が笑う。
父親は続ける。
「吹奏楽部の顧問として甲子園に行くんですよね」
「はい」
「不思議ですね」
「何がです?」
「学校では吹奏楽部顧問として肇を応援する」
「はい」
「でも心の中では恋人としても応援してる」
千鶴の頬が少し赤くなる。
「……そうですね」
「大変だ」
「本当に」
「声に出して『肇』とは呼べない」
「学校では高橋君です」
「家では?」
「……」
「肇?」
千鶴はさらに赤くなる。
「高橋さんまで聞かないでください」
父親が笑った。
「すみません」
◇◇◇
少しして。
父親の表情が真剣になる。
「千鶴先生」
「はい」
「俺は二人を責めたいわけじゃない」
「はい」
「でも父親として、言っておきたいことがあります」
千鶴は姿勢を正す。
「お願いします」
「肇は十八です」
「はい」
「自分では大人のつもりでも、まだ知らないことがたくさんある」
「はい」
「プロの世界も知らない」
「結婚生活も知らない」
「社会人として生活した経験もない」
千鶴は静かに聞く。
「だから」
父親は言う。
「全部、肇の言う通りにしなくていいです」
千鶴が少し驚く。
「え?」
「甲子園で優勝したら結婚」
「プロに入ったらこうする」
「肇は目標を決めると一直線でしょう?」
千鶴が笑う。
「はい」
「でも人生は野球のスコアみたいに予定通りにはいかない」
「……そうですね」
「だから、もし肇が焦っていたら止めてください」
「はい」
「間違っていたら叱ってください」
「はい」
「無茶してたら」
千鶴はすぐ答える。
「止めます」
「お願いします」
父親が笑う。
「そこは安心しました」
千鶴も笑う。
「何度も止めていますから」
「やっぱり」
◇◇◇
そして千鶴からも聞いた。
「私からも一ついいですか?」
「もちろん」
「高橋さんは」
少し迷う。
「本当に私でいいんですか?」
父親は一瞬、意味を理解できなかった。
「どういう意味です?」
「肇君とは二十歳違います」
「はい」
「私は教師です」
「はい」
「周囲から見れば、簡単に理解される関係ではありません」
「そうでしょうね」
「肇君がプロへ進めば、もっと多くの人から注目されます」
「うん」
「いつか私との関係が知られる可能性もあります」
父親は黙っている。
千鶴は続ける。
「その時、肇君に負担をかけるかもしれません」
「……」
「だから」
父親が静かに言う。
「千鶴先生」
「はい」
「一つだけ」
「はい」
「俺が決めることじゃないですよ」
千鶴が目を見開く。
「え?」
「肇が誰を好きになるか」
「誰と結婚したいか」
「それは俺が決めることじゃない」
父親は続ける。
「もちろん、親として心配はします」
「はい」
「相手がどんな人なのかも気になる」
「はい」
「でも」
少し笑う。
「千鶴先生のことは、由紀子が昔から知ってる」
千鶴が聞く。
「由紀子先輩が?」
「かなり信頼してますよ」
「……」
「昨日、二人で話した後の由紀子の顔を見れば分かります」
千鶴の目が少し潤む。
「それに」
父親が続ける。
「肇が好きだと言っている」
「……はい」
「千鶴先生も肇を大切にすると言ってくれている」
「はい」
「だったら卒業後は、二人で決めればいい」
千鶴は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
◇◇◇
その頃。
学校。
ブルペン。
「バシィィン!」
前薗晃大のミットへ、肇のストレートが入る。
「ナイスボール!」
「何キロ?」
「今日は測ってない」
「測ろうよ」
「七割って監督に言われただろ」
「分かってる」
「本当に?」
「みんな同じこと言うな」
晃大が笑う。
「お前が信用ないから」
「ひどい」
そこへ一条監督。
「高橋!」
「はい!」
「あと五球!」
「はい!」
肇はボールを握る。
自分の父親が学校へ来ていたこと。
一条監督と父親が共通の親友を通じて以前から互いの話を聞いていたこと。
そして今――。
父親と千鶴が二人で喫茶店にいること。
何も知らない。
ただ甲子園へ向けて、一球ずつ投げ込んでいた。
◇◇◇
喫茶店。
時計を見ると、そろそろ千鶴が学校へ戻る時間だった。
「長く話してしまいましたね」
父親が言う。
「いえ」
千鶴は首を横に振る。
「話せてよかったです」
「俺もです」
二人が立ち上がる。
会計を済ませ、店の外へ。
学校へ戻る道。
少し歩いたところで、父親が立ち止まる。
「千鶴先生」
「はい?」
「甲子園」
「はい」
「肇のことお願いします」
千鶴は笑った。
「学校の先生として?」
父親も笑う。
「それも」
「吹奏楽部顧問として?」
「それも」
「では、もう一つは?」
父親は少し考えて。
「それは言わなくても分かるでしょう」
千鶴は少し頬を赤くしながらも、しっかり頷いた。
「はい」
「分かっています」
◇◇◇
学校へ戻る。
ちょうど野球部が午前練習を終えようとしていた。
「集合!」
一条監督の声。
七十人の部員が集まる。
肇も帽子を取って汗を拭く。
そこで。
「あれ?」
正門近くに父親。
そして千鶴。
肇が目を細める。
「父さん?」
晃大が見る。
「お前の親父さん?」
「うん」
「何で東雲先生と一緒?」
「……知らない」
和誠も近づく。
「何か話してたんじゃない?」
肇が少し嫌な予感。
「まさか……」
練習終了。
「ありがとうございました!」
七十人が一斉に頭を下げる。
その後。
肇が父親のところへ。
「父さん!」
「おう」
「何で学校にいるの?」
「校長先生と話」
「校長先生?」
「大学の後輩だからな」
「ああ……」
そして肇が千鶴を見る。
学校なので。
「東雲先生も?」
千鶴は教師の顔。
「校長先生に呼ばれました」
「何の話?」
父親が笑う。
「秘密」
肇が嫌そうな顔。
「また?」
「親にも秘密くらいある」
「俺の話でしょう?」
「まあな」
「だったら教えてよ」
千鶴も少し笑う。
「高橋君」
「はい」
「甲子園へ向けて練習してください」
完全に教師としての口調。
肇も周囲を確認する。
部員たちがいる。
「……はい、東雲先生」
父親はそのやり取りを見ていた。
学校では教師と生徒。
二人はきちんと切り替えている。
「肇」
「何?」
「甲子園」
父親が言う。
「楽しんでこい」
肇が少し驚く。
一条監督と同じ言葉。
「うん」
「勝つことだけ考えて固くなるな」
「分かった」
「あと」
「何?」
「プロの話」
肇の表情が変わる。
「父さん」
「自分の力、全部出してこい」
「……うん」
「スカウトに見せるためじゃない」
「分かってる」
「高校最後の夏だから」
肇は大きく頷いた。
「うん」
◇◇◇
そこへ一条監督が歩いてくる。
「高橋さん」
「一条監督」
肇が二人を見る。
「父さん、監督と知り合いなの?」
父親と一条が顔を見合わせる。
「今日分かった」
「何が?」
一条が説明する。
「私とお父さん、共通の友人がいた」
「誰?」
「森崎修司さん」
肇が驚く。
「森崎のおじさん!?」
「知ってるのか?」
「小さい頃から何回も会ってるよ!」
今度は一条が驚く。
「本当に?」
「父さんの友達だから」
父親が笑う。
「世間狭いだろ」
肇も笑う。
「監督と森崎のおじさんが親友なの?」
「そうだ」
「全然知らなかった」
「俺も今日知った」
一条監督が肇を見る。
「ということは、高橋」
「はい」
「お前が小さい頃の話、森崎から聞けるな」
肇の顔が変わる。
「やめてください!」
父親が笑う。
「いっぱいあるぞ」
「父さん!」
千鶴も思わず笑う。
「私も少し聞いてみたいですね」
肇が千鶴を見る。
「東雲先生まで!?」
学校なので名前では呼べない。
千鶴は教師の顔を保ちながら笑った。
◇◇◇
その後。
父親と校長は、もう一度だけ校長室で二人になった。
今度は完全に大学時代の先輩後輩として。
「先輩」
「何?」
「肇君、大きくなりましたね」
父親が笑う。
「小さい頃知ってたっけ?」
「写真では何度か」
「そうだったな」
校長は窓からグラウンドを見る。
「まさか先輩の息子が、うちの学校のエースになるとは思いませんでした」
「俺も」
「しかも甲子園」
「うん」
「高校通算六十本」
「それは出来すぎだな」
「そして東雲先生」
父親が苦笑する。
「そこまで含める?」
「重要でしょう」
「まあな」
校長が少し真剣になる。
「先輩」
「うん」
「私は校長として、卒業までは二人をきちんと見ます」
「頼む」
「東雲先生にも教師として接してもらいます」
「それでいい」
「肇君にも生徒として学校生活を最後まで送ってもらいます」
「うん」
「そして」
校長は少し笑う。
「卒業式が終わったら」
父親が見る。
「その後は?」
「私は校長としてではなく」
少し間。
「先輩の後輩として、二人の未来を見守りますよ」
父親は少し笑った。
「ありがとう」
「まだ結婚決まったわけじゃありませんけどね」
「肇の中ではほぼ決まってるらしい」
「甲子園優勝してプロポーズ」
「そう」
「大変ですね」
「何が?」
「全国制覇しないとプロポーズできない」
父親が笑う。
「本人が勝手に条件つけたんだ」
「高橋君らしい」
「目標を立てると一直線だからな」
「東雲先生も大変だ」
「由紀子も同じこと言ってる」
二人が笑う。
◇◇◇
帰り際。
父親はもう一度だけグラウンドを見た。
午後練習へ向けて、野球部員たちが再び動き始めている。
その中央に肇。
「前薗!」
「おう!」
「キャッチボール!」
「投げすぎるなよ!」
「分かってる!」
「その言葉信用できない!」
周囲の部員が笑っている。
一条監督が遠くから叫ぶ。
「高橋! 午後は投げ込みなし!」
「ええ!?」
「返事!」
「はい!」
また笑い。
父親も思わず笑った。
十八歳。
まだ高校生。
それでも自分の未来を決め始めている。
プロ野球選手になる。
甲子園で優勝する。
そして卒業後――。
大切な人へ正式に将来を申し込む。
父親は思う。
全部うまくいく保証などない。
甲子園で負けるかもしれない。
ドラフトで希望通りにならないかもしれない。
プロへ入って苦しむかもしれない。
人生は、九回裏のサヨナラヒットのように毎回劇的に成功するわけではない。
それでも。
挑戦する前から止める必要はない。
父親は小さく呟いた。
「頑張れよ、肇」
その声は息子には届かなかった。
だが、それでよかった。
グラウンドでは一条昴監督。
学校では校長。
そして教師としての東雲千鶴。
家では由紀子。
多くの大人たちが、それぞれ違う立場から肇を見守っている。
父親もまた、その一人だった。
甲子園まで、もう時間は多くない。
地区大会優勝という大きな喜びを胸に。
高橋肇の高校最後の夏は――全国という、さらに大きな舞台へ向かって進み始めていた。
番外編⑹❷「父親と教師、そして校長――喫茶店で語られる肇の未来と、三人の大人たち」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は高橋肇本人の野球ではなく、その未来を見守る大人たちに焦点を当てた一話となりました。
まず驚きの事実となったのが、肇の父親と一条昴監督のつながりです。
二人が直接の親友だったわけではありません。
しかし共通の親友――森崎修司。
森崎を通じて、一条監督は以前から「高校野球をしている息子がいる友人」の話を聞き、肇の父親も「高校野球の監督をしている一条」という人物の話を聞いていました。
それがまさか、
自分の息子を三年間指導してきた監督。
自分が三年間指導してきたエースの父親。
だったとは。
肇本人も知らなかった意外な縁でした。
そして一条監督から父親へ語られた、地区大会を通しての肇の成長。
以前の肇なら、
「まだ投げられます」
「大丈夫です」
と最後までマウンドへ残ろうとしていたでしょう。
しかし決勝では、一条監督から六回途中で交代を告げられると素直にボールを仲間へ託しました。
黒崎蓮。
早川慶介。
久我直哉。
そして正捕手・前薗晃大。
自分一人だけで勝つのではなく、仲間を信じて勝つ。
そんな肇の変化を父親も知ることになります。
また今回は、肇の父親と校長先生の関係にも改めて触れました。
大学時代は、
先輩――肇の父親。
後輩――現在の校長先生。
しかし学校では、あくまで保護者と校長。
だからこそ父親が伝えた、
「俺が家で二人を認めているからって、学校のルールまで変えてくれとは言えない」
という言葉には大きな意味があります。
肇と千鶴の将来を家族として認めること。
そして在学中は学校として必要な線引きをすること。
この二つは別です。
高校を卒業するまでは教師と生徒。
学校では特別扱いをしない。
正式な将来の話は卒業後。
家族側と学校側が同じ認識を持つことで、二人の未来についても少しずつ整理されていきました。
そして今回の中心の一つとなったのが、学校近くの喫茶店での肇の父親と千鶴の二人きりの会話です。
肇が高校卒業後、そのままプロ野球へ挑戦することについて、千鶴が最初に口にしたのは、
「心配です」
という言葉でした。
しかしそれは反対という意味ではありません。
怪我。
二軍。
遠征。
キャンプ。
成績。
契約。
戦力外。
プロ野球という厳しい世界へ進めば、肇の人生は高校時代とは大きく変わります。
それでも、
「私が心配だからという理由で諦めてほしくありません」
と答えた千鶴。
肇が本当に進みたい道だからこそ、その挑戦を応援する覚悟があります。
一方、父親から千鶴へ伝えられたのは、
「全部、肇の言う通りにしなくていい」
という言葉でした。
目標を決めると一直線になる肇。
甲子園優勝。
プロ入り。
プロポーズ。
結婚。
一つ決めれば、そこへ全力で向かっていく。
だからこそ、焦った時は止める。
間違った時は叱る。
無茶をした時は支える。
父親が千鶴へ望んだのは、ただ肇についていく存在ではなく、必要な時には肇を止めることのできる存在でした。
そして千鶴から出た、
「本当に私でいいんですか?」
という問い。
二十歳の年齢差。
教師と生徒という現在の立場。
これから肇がプロ野球選手として注目されれば、二人の関係についてさまざまな目を向けられる可能性もあります。
それでも父親が返した答えは、
「俺が決めることじゃない」
でした。
肇が誰を好きになるのか。
誰と将来を歩きたいのか。
そして千鶴が肇をどう思っているのか。
卒業後、その答えを決めるのは二人自身です。
由紀子が昔から知っている高校時代の後輩・千鶴。
肇が高校一年生から想い続けてきた女性。
そして今、父親からも、
「卒業後、本当に二人が同じ気持ちなら、肇のことをよろしくお願いします」
という言葉が改めて託されました。
さらに最後には、父親と校長先生が再び大学時代の先輩・後輩として二人きりに。
校長としては卒業まで二人をきちんと見守る。
そして卒業式が終われば――今度は昔からの後輩として二人の未来を見守る。
そんな約束も交わされました。
甲子園。
全国制覇。
ドラフト。
プロ野球。
千鶴へのプロポーズ。
高校卒業。
そして結婚。
肇の前には、まだたくさんの未来があります。
けれど、そのすべてを一人だけで背負う必要はありません。
一条昴監督。
校長先生。
父親。
母・由紀子。
そして東雲千鶴。
それぞれ立場は違っても、高橋肇が自分で選んだ未来へ進めるように見守っている大人たちがいます。
地区大会は終わりました。
次はいよいよ――甲子園。
高校最後の夏、その全国舞台が少しずつ近づいています。




