番外編⑹❶「地区大会優勝祝い――高橋家へ帰る夜と、家族へ伝えた二つの未来」
地区大会決勝を九対八のサヨナラ勝ちで制し、ついに夏の甲子園出場を決めた高橋肇たち。
番外編⑹❶では、その地区大会優勝祝いとして、肇が恋人であり高校教師でもある東雲千鶴と一緒に高橋家の実家へ帰ります。
迎えてくれたのは、肇の父親と母・由紀子。
由紀子と千鶴は高校時代からの先輩後輩でもあり、二人の関係を以前から知っている大切な理解者です。
しかし今回の帰省は、ただ地区大会優勝を祝うためだけではありませんでした。
夕食の席で肇は、自分が考えている二つの未来を家族へ伝えます。
一つは――高校卒業後、大学へ進学せず、そのままプロ野球の世界へ挑戦すること。
そしてもう一つは――甲子園で優勝したら千鶴へプロポーズし、高校を卒業した後に正式に結婚を申し込むこと。
まだ甲子園は始まっていません。
ドラフトも、プロ入りも、その先の結婚も未来の話です。
それでも十八歳の肇が、自分自身で決めた将来を両親と千鶴の前で初めてはっきりと言葉にします。
夕食後は、父と息子、そして由紀子と千鶴の二組に分かれての時間へ。
父親は酒、肇はジンジャーエール。
二人でグラスを酌み交わしながら、野球とプロへの覚悟、そして千鶴との将来について語ります。
一方、リビングでは高校時代の先輩後輩である由紀子と千鶴が二人きりに。
そこで由紀子から千鶴へ伝えられる、
「肇のこと、よろしくお願いします」
という母親としての言葉。
甲子園へ向かう前に描かれる、高橋家の家族としての大切な一夜です。
地区大会決勝から数日後。
九対八。
九回裏。
二死一、二塁。
最後の打席に立った高橋肇がセンター前へのサヨナラヒットを放ち、地区大会優勝。
そして――甲子園出場決定。
あの日から、肇の周囲はずっと慌ただしかった。
学校へ行けば、
「高橋、甲子園おめでとう!」
「最後のサヨナラ凄かった!」
「全国でも打ってくれよ!」
と声を掛けられる。
野球部では甲子園へ向けた準備が本格的に始まり、吹奏楽部やチアリーディング部も全国大会へ向けた応援準備へ入っていた。
だが、この日の夕方。
肇はユニフォームではなく私服姿だった。
そして隣には――東雲千鶴。
学校では教師。
吹奏楽部顧問。
男子生徒たちから「高嶺の花」と呼ばれる美人教師。
しかし今、肇の隣を歩いている千鶴は学校の先生としてではない。
肇の恋人として、高橋家へ向かっていた。
「久しぶりね」
千鶴が言う。
「実家?」
「うん」
「最近はずっと二人の家だったものね」
「甲子園決まってから母さんから何回も連絡来てた」
「由紀子先輩らしい」
肇が笑う。
「『いつ帰ってくるの?』『千鶴も連れてきなさい』って」
「私まで指定されてるのね」
「母さん、千鶴のこと好きだから」
「昔からの後輩だからでしょう?」
「それだけじゃないと思うけど」
千鶴が横を見る。
「何?」
「俺の恋人だから」
「……外でそういうこと言わないの」
「誰も聞いてないよ」
「そういう問題じゃありません」
千鶴は少しだけ顔を赤くする。
肇は笑った。
今日は地区大会優勝祝い。
高橋家の両親が、甲子園出場を決めた息子を祝うために準備してくれている。
そして肇自身も――。
今日、両親へ改めて伝えなければならないことがあった。
高校卒業後の進路。
そして――千鶴との未来。
◇◇◇
高橋家。
インターホンを押す前に玄関が開いた。
「遅い!」
肇が驚く。
「まだ押してないんだけど」
出てきたのは母・由紀子。
四十歳。
千鶴の高校時代の先輩でもあり、肇と千鶴の関係を早い段階から知っている人物だった。
「車が見えたから」
「見張ってたの?」
「人聞き悪い」
そして由紀子は千鶴を見る。
「千鶴!」
「由紀子先輩、お久しぶりです」
「そんな堅い挨拶いいから、早く入って」
「はい」
「肇も」
「俺はついで?」
「主役でしょう?」
「だったらもう少し扱い良くしてよ」
「甲子園決めたくらいで調子乗らない」
「厳しいなぁ」
三人が笑う。
玄関へ入る。
奥から父親の声。
「肇、帰ったか?」
「ただいま」
父親もリビングから出てきた。
「おかえり」
そして千鶴へ頭を下げる。
「東雲先生も、今日はありがとうございます」
「こちらこそ、お招きいただいてありがとうございます」
由紀子がすぐ口を挟む。
「家でまで東雲先生じゃなくてもいいでしょう?」
千鶴が苦笑する。
「まだ少し緊張するんですよ」
「何回も来てるのに?」
「今日は優勝祝いですから」
父親が笑う。
「まあ、今日は家族だけです。ゆっくりしてください」
その「家族だけ」という言葉。
千鶴は少しだけ目を細めた。
肇も気づいていた。
まだ正式に結婚しているわけではない。
それでも高橋家は、千鶴をすでに特別な存在として迎えてくれている。
「ほら」
由紀子がリビングへ戻る。
「料理冷める前に食べるよ」
◇◇◇
食卓。
テーブルの上には何品もの料理が並んでいた。
唐揚げ。
刺身。
煮物。
サラダ。
だし巻き卵。
焼き魚。
肉料理。
さらに炊き込みご飯。
肇が目を丸くする。
「多くない?」
由紀子が答える。
「地区大会優勝祝いなんだから、これくらい普通」
「四人だよ?」
「余ったら明日食べればいい」
父親も笑う。
「母さん、朝から張り切ってたぞ」
「言わなくていいの!」
千鶴が料理を見る。
「全部由紀子先輩が?」
「半分くらい」
「残りは?」
「お父さん」
肇が父親を見る。
「父さんも作ったの?」
「焼き物と煮物」
「知らなかった」
「お前、家出てからほとんど俺の料理食べてないからな」
「確かに」
四人が席に着く。
由紀子がグラスを持つ。
父親にはビール。
由紀子にも少量のお酒。
千鶴は今日は飲まないことにした。
肇はジンジャーエール。
「それじゃあ」
由紀子が全員を見る。
「地区大会優勝」
父親が続ける。
「そして甲子園出場」
千鶴も笑う。
「おめでとう」
肇は少し照れながらグラスを上げた。
「ありがとう」
「乾杯!」
グラスが軽く触れ合う。
カチン。
肇がジンジャーエールを飲む。
由紀子が言った。
「まだ信じられない」
「何が?」
「甲子園」
「秋にも行ったじゃん」
「今回は夏でしょう?」
肇の表情が少し変わる。
確かに。
秋季大会を勝ち抜いて甲子園へ出場した経験はある。
だが、高校三年生最後の夏。
地区大会を制し、自分たちの手で掴んだ甲子園は、意味が違った。
父親も頷く。
「しかも最後はサヨナラ」
「うん」
「お前らしいな」
「そう?」
「最後まで目立つ」
「別に狙ってないよ」
千鶴が笑う。
「準決勝では二本ホームラン」
「……はい」
「しかも六十号」
由紀子も続ける。
「ニュースにも出てたよ」
肇が少し嫌そうな顔になる。
「恥ずかしいんだけど」
「何で?」
「高校通算六十本とか、サヨナラとか、ずっと映されるじゃん」
父親が言う。
「これからもっと増えるぞ」
「え?」
「甲子園」
一瞬、肇が黙る。
父親は続ける。
「全国大会だ。スカウトも増える。取材も増える」
肇は箸を置いた。
「……うん」
千鶴がその横顔を見る。
由紀子も気づいた。
「何か話ある?」
母親の勘は鋭い。
肇は少し笑った。
「ある」
「やっぱり」
父親がグラスを置く。
「野球の話か?」
「野球も」
肇は千鶴を見る。
千鶴も小さく頷いた。
今日、話す。
そのために二人で来たところもあった。
◇◇◇
「父さん、母さん」
肇が改めて姿勢を正す。
「うん」
「何?」
由紀子と父親が見る。
「俺、高校卒業後」
少しだけ間。
「大学には行かない」
父親の表情が変わる。
由紀子は驚かない。
すでにある程度予想していたのだろう。
「プロへ行くの?」
母が先に聞く。
「うん」
「ドラフトで指名されたら?」
「行く」
肇ははっきり言った。
「大学野球を経由しないで、高卒でプロ野球の世界に挑戦したい」
父親は黙って聞く。
「もちろん、指名されなかったら全部考え直す」
「でも今の第一希望は?」
「プロ」
「球団は?」
「まだ分からない」
「希望はあるのか?」
「あるけど、指名してもらえるだけでもありがたいと思ってる」
父親が腕を組む。
「覚悟は?」
「ある」
「高校野球とは比べものにならないぞ」
「分かってる」
「高校で四番だろうが、エースだろうが、プロへ行けば関係ない」
「それも神谷先輩から言われた」
「去年の先輩か」
「うん。高校からプロ行った先輩」
肇は続けた。
「プロに行ったら、高校でエースだった人とか四番だった人ばかりだって」
「それでも行く?」
由紀子が尋ねる。
肇は迷わなかった。
「行きたい」
千鶴が静かに肇を見る。
何度聞いても、その答えは変わらない。
「俺」
肇は少し笑った。
「野球が好きだから」
単純な答え。
でも、肇にとって一番大切な理由だった。
父親はしばらく黙った後――。
「分かった」
肇が顔を上げる。
「父さん」
「反対はしない」
「本当?」
「自分で決めたならな」
由紀子も頷く。
「私も」
「母さん」
「ただし」
由紀子が人差し指を立てる。
「ちゃんと卒業する」
肇が固まる。
千鶴が笑う。
「私も何度も言っています」
父親も。
「一条監督にも言われてるんじゃないか?」
「……言われてる」
全員が笑う。
「何でみんな同じこと言うの?」
由紀子が即答。
「高校生だから」
「はい」
◇◇◇
しかし――。
肇が話さなければならないことは、もう一つある。
むしろ、こちらの方が緊張していた。
「それと」
由紀子がすぐ反応する。
「千鶴の話?」
肇が止まる。
「何で分かるの?」
「分かるわよ」
「顔?」
「顔」
最近、何度言われただろう。
晃大にも。
和誠にも。
そして母親にも。
「そんなに分かりやすい?」
千鶴が小さく言う。
「かなり」
「千鶴まで?」
父親が笑う。
「それで?」
肇は一度深呼吸する。
「俺――」
千鶴を見る。
そして両親を見る。
「甲子園で優勝したら、千鶴にプロポーズする」
由紀子の表情が止まる。
父親も。
千鶴は分かっていたことなのに、やはり本人から家族へ言われると恥ずかしい。
頬が少し赤くなる。
「そして」
肇は続ける。
「高校を卒業したら、正式に結婚を申し込みたい」
由紀子が息を吐く。
「……本当に言った」
「何?」
「千鶴から少し聞いてた」
肇が千鶴を見る。
「話したの?」
「少しだけ」
「いつ?」
「前に」
「知らなかった」
「全部じゃないわよ」
父親が肇へ尋ねる。
「甲子園優勝が条件なのか?」
「条件っていうか」
肇は少し考える。
「自分で決めた目標」
「優勝しなかったら結婚しない?」
「違う!」
即答。
千鶴も思わず笑う。
「俺が勝手に決めてるだけ」
父親も笑った。
「そういうことか」
「うん」
「甲子園で優勝して」
「うん」
「千鶴先生にプロポーズ」
「うん」
「卒業後に結婚」
「そのつもり」
父親は千鶴を見る。
「東雲先生は?」
千鶴は一瞬だけ緊張する。
しかし逃げなかった。
「私も、肇君との将来を真剣に考えています」
由紀子が微笑む。
「千鶴」
「はい」
「今さらそんなに緊張しなくても」
「でも……」
「私たちは前から知ってるでしょう?」
「それでも、結婚の話となると」
「違う?」
由紀子が尋ねる。
千鶴は静かに首を横に振る。
「違いません」
そして肇を見る。
「私も、卒業後にきちんとした形で考えたいです」
肇の表情が少し柔らかくなる。
父親が頷いた。
「分かった」
「父さん?」
「お前たちが自分たちの責任で決めるなら、俺は止めない」
由紀子も。
「私も」
「母さん」
「ただし」
また人差し指。
肇が嫌な予感。
「何?」
「順番は守る」
「順番?」
「卒業」
「はい」
「進路」
「はい」
「それから正式に話」
「はい」
由紀子は千鶴を見る。
「千鶴も」
「はい」
「教師としての立場もあるから」
千鶴の表情が真剣になる。
「分かっています」
学校側にはすでに校長、教頭、一条監督へ報告している。
しかし、それですべて解決したわけではない。
在学中は教師と生徒。
その事実は変わらない。
だからこそ――。
将来の話は、高校卒業後に正式な形で進める。
それが二人の共通認識だった。
◇◇◇
夕食後。
「肇」
父親が呼ぶ。
「何?」
「少し付き合え」
「どこ?」
「居間」
肇は少し不思議そうに父親についていく。
由紀子が千鶴へ声を掛けた。
「千鶴はこっち」
「はい?」
「女同士で話しましょう」
千鶴は少し緊張しながら、
「分かりました」
と答えた。
こうして四人は、二組へ分かれた。
肇と父親。
由紀子と千鶴。
地区大会優勝祝いの夜は――それぞれの家族の話へ移っていった。
◇◇◇
居間。
父親は棚から酒を取り出した。
肇が見る。
「飲むの?」
「俺はな」
「俺は飲めないよ」
「分かってる」
父親は冷蔵庫からもう一本取り出した。
ジンジャーエール。
「ほら」
「ありがとう」
父親は小さなグラスへ酒を注ぐ。
肇はジンジャーエール。
「乾杯するか」
「何に?」
父親は少し考える。
「地区大会優勝」
「さっきしたじゃん」
「父と息子でだ」
肇が少し笑った。
「じゃあ」
二人がグラスを持つ。
「地区大会優勝」
「甲子園出場」
カチン。
父親は一口飲む。
肇もジンジャーエールを口にする。
少し沈黙。
「肇」
「何?」
「本当にプロ行くんだな」
「うん」
「小さい頃から言ってたな」
「覚えてる?」
「当たり前だろ」
父親は笑う。
「小学生の頃から『プロ野球選手になる』って」
「言ってたっけ」
「言ってた」
「恥ずかしい」
「何でだ?」
「そのままじゃん」
「いいじゃないか」
父親はグラスを見る。
「夢が変わらなかった」
肇は少し黙った。
「父さん」
「ん?」
「俺、プロで通用すると思う?」
父親はすぐには答えなかった。
「分からない」
肇が少し驚く。
「正直だな」
「父親だからって何でも『できる』とは言えない」
「うん」
「でも」
父親が肇を見る。
「挑戦する資格はあると思う」
肇の表情が変わる。
「高校通算六十本」
「地区大会優勝」
「甲子園出場」
「投手としてもエース」
父親は少し笑う。
「ここまでやって、それでも挑戦しない方が後悔するんじゃないか?」
肇はグラスを握る。
「すると思う」
「なら行け」
「……うん」
「ただし」
「また?」
「プロになっただけで満足するな」
「分かってる」
「一軍」
「うん」
「レギュラー」
「うん」
「そこから先」
肇が笑う。
「父さんの方が欲張りじゃん」
「親だからな」
二人が笑った。
◇◇◇
少しして。
父親は話題を変える。
「千鶴先生」
肇が顔を上げる。
「うん」
「本当に好きなんだな」
「……うん」
「高校一年から?」
「そう」
「長いな」
「告白したのも一年」
「聞いてる」
「母さんから?」
「いろいろ」
肇は苦笑する。
「全部筒抜けじゃん」
「親だぞ」
父親は続ける。
「お前が卒業して、正式に結婚することになったら」
「うん」
「俺は反対しない」
肇が父親を見る。
「本当に?」
「ああ」
「年齢差も?」
「今さらだろ」
二人の年齢差は二十歳。
世間から見れば大きい。
さらに千鶴は教師。
肇は生徒。
簡単な関係ではない。
「ただ」
父親は真剣な顔をする。
「相手の人生を背負うってことは、簡単じゃない」
肇も表情を変える。
「うん」
「好きだから一緒にいたい。それだけなら恋人でいい」
「……」
「結婚するなら、それより先のことを考えろ」
「仕事」
「生活」
「責任」
「全部だ」
肇は静かに頷いた。
「分かってる」
「プロ野球選手になるなら、生活も不規則になる」
「遠征もある」
「キャンプもある」
「結果が出なければ契約が終わる世界だ」
「うん」
「それでも千鶴先生と結婚したい?」
肇は一秒も迷わなかった。
「したい」
父親は少し笑った。
「じゃあ、その気持ち忘れるな」
「うん」
「甲子園で優勝してプロポーズ?」
「うん」
「頑張れ」
「ありがとう」
父親と息子。
酒とジンジャーエール。
二つのグラスがもう一度軽く触れた。
◇◇◇
一方。
リビング。
由紀子と千鶴。
二人の前には温かいお茶が置かれていた。
由紀子が先に口を開く。
「改めて」
「はい?」
「地区大会優勝、おめでとう」
千鶴が少し驚く。
「私に?」
「肇だけじゃなくて」
由紀子は笑う。
「千鶴もずっと応援してたでしょう?」
「……はい」
「吹奏楽部の顧問としても」
「そうですね」
「それ以外でも」
千鶴は少し照れる。
「由紀子先輩」
「何?」
「ずるいです」
「何が?」
「全部知ってるから」
由紀子は笑った。
「高校時代から千鶴のこと知ってるんだから仕方ないでしょう」
「まさか先輩の息子とこうなるなんて思いませんでした」
「私も」
二人は笑う。
少しして。
由紀子が真剣な表情になった。
「千鶴」
「はい」
「さっきの話」
「結婚ですか?」
「うん」
「……」
「本気?」
千鶴は少しだけ考える。
そして頷いた。
「本気です」
「肇が高校卒業したら?」
「はい」
「正式に?」
「はい」
由紀子は静かに聞く。
「肇、まだ十八よ?」
「分かっています」
「プロへ行ったら環境も全部変わる」
「はい」
「年齢もかなり違う」
「それも分かっています」
「教師と元生徒っていう関係も、簡単には消えない」
千鶴は視線を下げた。
「はい」
由紀子は責めているわけではない。
だからこそ、千鶴も逃げずに答える。
「それでも」
千鶴は顔を上げた。
「私は肇君のことを大切にしたいです」
由紀子は黙って聞いている。
「野球がうまくいっている時だけじゃなくて」
「怪我をした時も」
「試合に出られない時も」
「プロで結果が出ない時があっても」
「もちろん、嬉しい時も」
千鶴は少し笑う。
「できるだけ隣にいたいと思っています」
由紀子の表情が柔らかくなる。
「千鶴らしい」
「そうですか?」
「うん」
少し間。
そして由紀子が言った。
「じゃあ改めてお願いしていい?」
千鶴が姿勢を正す。
「はい」
由紀子は真っ直ぐ千鶴を見る。
「肇のこと、よろしくお願いします」
千鶴の目が少し大きくなる。
「由紀子先輩……」
「息子、無茶するでしょう?」
「かなり」
「負けず嫌いでしょう?」
「ものすごく」
「すぐ大丈夫って言うでしょう?」
「それが一番困ります」
二人が笑う。
由紀子も少し笑った後。
「でも」
「はい」
「いい子だと思ってる」
母親の言葉だった。
「親だからそう思ってる部分もあるけど」
「うん」
「千鶴に大事にしてもらえるなら」
由紀子は微笑む。
「私は嬉しい」
千鶴の目が潤む。
「……ありがとうございます」
「泣くの?」
「泣きません」
「顔が泣きそう」
「由紀子先輩のせいです」
「私?」
千鶴は少しだけ笑った。
そして改めて頭を下げる。
「私の方こそ」
「はい?」
「肇君のこと、よろしくお願いしますじゃなくて」
少し考えて。
「これからも、大切にします」
由紀子も静かに頷いた。
「お願い」
高校時代。
先輩と後輩だった二人。
年月が流れ。
今度は――。
一人の青年を大切に思う、母親と恋人として向かい合っている。
不思議な関係。
でも、由紀子にとって千鶴は昔から知っている後輩。
千鶴にとって由紀子は昔から頼れる先輩。
その信頼があったからこそ、今こうして話すことができた。
◇◇◇
しばらくして。
居間から肇と父親が戻ってくる。
肇はジンジャーエールのグラスを持ったまま。
由紀子が見る。
「男同士で何話してたの?」
父親が答える。
「秘密」
「親子で秘密?」
「たまにはいいだろ」
肇も笑う。
千鶴が肇を見る。
「何話したの?」
「秘密」
「私にも?」
「後で」
由紀子が千鶴へ小さく言う。
「こういうところ父親似」
「なるほど」
「聞こえてるよ」
また四人が笑った。
地区大会優勝祝い。
その夜、高橋家で交わされたのは、ただの祝福だけではなかった。
高校卒業後。
大学へ進まず、プロ野球の世界へ挑むこと。
そして――。
甲子園で優勝したら千鶴へプロポーズし、高校卒業後に正式な結婚を申し込むこと。
肇が思い描く二つの未来。
プロ野球。
そして千鶴との家庭。
父親からは、
「挑戦する資格はある」
と言われた。
由紀子から千鶴へは、
「肇のこと、よろしくお願いします」
という言葉が託された。
甲子園は、まだ始まってもいない。
全国制覇もまだ夢の途中。
ドラフトも。
プロ入りも。
結婚も。
すべて未来の話。
それでも――。
肇は今日、自分の未来を家族へ自分の言葉で伝えた。
そして両親も、その道を見守ると答えてくれた。
次に待っているのは。
高校最後の夏。
甲子園。
高橋肇が全国の舞台で、自分自身の夢へ挑む時間だった。
番外編⑹❶「地区大会優勝祝い――高橋家へ帰る夜と、家族へ伝えた二つの未来」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は地区大会優勝直後の高橋家を舞台に、試合から少し離れた「家族」と「将来」を中心とした物語となりました。
九対八。
九回裏。
肇自身のサヨナラヒットによって地区大会優勝を決め、ついに手にした夏の甲子園への切符。
しかし高校三年生の肇にとって、この夏は野球だけではありません。
卒業が近づくということは、自分の進路を決めなければならないということでもあります。
そこで今回、肇が両親へはっきり伝えたのが、
「高校卒業後は大学へ行かない」
「高卒でプロ野球の世界へ挑戦する」
という決意でした。
高校通算六十本塁打。
チームのエース。
四番打者。
地区大会優勝。
甲子園出場。
多くの実績を残していても、プロへ入れば高校時代の肩書きだけで活躍できるわけではありません。
肇自身もそれを理解しています。
それでも、
「野球が好きだから」
プロへ挑戦したい。
その息子の覚悟を聞いた父親が伝えた、
「挑戦する資格はあると思う」
「なら行け」
という言葉。
必ず成功すると無責任に断言するのではなく、挑戦する道そのものを認めてくれた父親だからこその言葉でした。
そしてもう一つ。
今回、肇が家族へ伝えた大きな未来があります。
甲子園で優勝したら――千鶴へプロポーズする。
そして高校卒業後、正式に結婚を申し込む。
この想いについても父親は、
「相手の人生を背負うってことは、簡単じゃない」
と肇へ伝えました。
好きだから一緒にいる恋人関係と、生活や仕事、その先の人生までともにする結婚は同じではありません。
さらに肇が目指しているのはプロ野球選手。
遠征、キャンプ、競争、怪我、成績、契約。
決して安定だけが約束された世界ではありません。
それでも、
「千鶴先生と結婚したい?」
と聞かれた肇は迷うことなく、
「したい」
と答えました。
父親と息子。
父親は酒。
十八歳の肇はジンジャーエール。
二人だけでグラスを酌み交わしながら、肇が一人の大人へ近づいていく時間にもなりました。
そして同じ頃、リビングでは由紀子と千鶴。
高校時代には先輩と後輩だった二人です。
そんな由紀子が今回、母親として千鶴へ伝えたのが、
「肇のこと、よろしくお願いします」
という言葉でした。
無茶をするところ。
負けず嫌いなところ。
苦しくてもすぐ「大丈夫」と言ってしまうところ。
それらをよく知っている母親だからこそ、昔から信頼している後輩の千鶴へ息子を託します。
それに対して千鶴も、
「これからも、大切にします」
と答えました。
もちろん、まだ肇は高校生です。
千鶴も教師という立場があります。
だから二人も家族も、今すぐ結婚を進めるのではなく、高校卒業後に改めて正式な形で将来へ進むことを確認しています。
地区大会優勝。
甲子園出場。
プロへの挑戦。
そして千鶴との将来。
十八歳の肇にとって、大きな節目がいくつも重なっていきます。
しかし、まず目の前にあるのは――甲子園。
以前の全国大会では三回戦で敗れました。
今度は高校最後の夏。
そして肇自身が千鶴へ約束した目標は、
「甲子園優勝」。
地区大会優勝はゴールではありません。
高橋肇の最後の夏は、ここから全国の舞台へ進んでいきます。




