番外編⑸❸終「監督と教師――高橋肇を支える二人の大人」
番外編⑸❸終では、準決勝を目前に控えた土曜日の学校を舞台に、野球部、吹奏楽部、そして肇を支える大人たちの一日を描きました。
グラウンドでは、一条昴監督のもとで野球部七十人が準決勝へ向けた調整。
そして校長先生と教頭先生もその練習を見学し、七十人の部員たちが揃って挨拶をする場面から始まります。
一方、音楽室では東雲千鶴が顧問を務める吹奏楽部三十人が、準決勝から始まる新しい応援曲を秘密裏に練習。
そこへ一条監督も加わり、選手一人一人のために用意された新しい曲を確認していきます。
もちろん、高橋肇をはじめとする野球部員たちには秘密。
特に肇のために用意された新しい応援曲は、妹の真悠も参加しながら三十人全員で仕上げた特別な一曲です。
そして、そんな秘密の準備を知らないまま帰宅した肇。
夜、何気なく千鶴へ尋ねたのは、
「俺の好きなところって、十個言える?」
という質問でした。
前日の夜、一条監督からまったく同じ質問をされていたことを肇は知りません。
千鶴が語る肇の好きなところ十個。
そして今度は、肇自身が千鶴の好きなところを十個答えることになります。
学校一の高嶺の花と呼ばれる美人教師・東雲千鶴。
そんな彼女を高校一年生の頃から好きだった肇が、誰にも言えない秘密の気持ちを改めて振り返る番外編⑸、その完結編です。
土曜日の朝。
平日とは違い、校舎は静かだった。
しかし、グラウンドだけは別だった。
「集合!」
一条昴監督の声が響く。
「はい!」
野球部員たちが一斉に集まってくる。
準決勝を控えた野球部は、ベンチ入りメンバーだけでなく、全部員が練習に参加していた。
その人数――七十人。
高橋肇。
前薗晃大。
主将・鈴木和誠。
宮坂大智。
黒崎蓮。
早川慶介。
久我直哉。
橘優成。
安西航。
大野蒼真。
西川陸斗。
森川駿。
松岡亮平。
そして、スタンドから仲間を支えてきた部員たち。
誰もが同じ目標を見ている。
地区大会優勝。
そして――甲子園。
「今日は午前を中心に調整する」
一条監督が全員を見渡した。
「準決勝が近いからといって、焦って練習量を増やす必要はない」
肇が聞いている。
「特に投手陣」
「はい!」
「高橋」
「はい!」
「昨日も言ったが、投げすぎるな」
「分かっています」
「本当に?」
「……分かっています」
晃大が横から笑う。
「間があったぞ」
「うるさい」
一条監督は続ける。
「久我、黒崎、早川も同じだ。準決勝だけ勝てばいいわけじゃない」
「はい!」
「俺たちが目指しているのは?」
七十人から声が上がった。
「甲子園です!」
「その通り。じゃあ始めろ!」
「はい!」
七十人がグラウンドへ散っていった。
◇◇◇
ランニングが始まってしばらくした頃だった。
校舎側から二人の人物が歩いてきた。
肇が最初に気づく。
「校長先生?」
隣には教頭もいる。
主将の和誠がすぐに反応した。
「監督!」
一条も二人に気づいた。
「一度集合!」
七十人が走って戻ってくる。
校長と教頭の前に整列。
和誠が号令を掛けた。
「気をつけ!」
七十人が姿勢を正す。
「礼!」
「おはようございます!」
七十人が一斉に頭を下げた。
校長も教頭も、その迫力に少し驚く。
「おはようございます」
校長が笑った。
「土曜日の朝から元気ですね」
「はい!」
教頭もグラウンドを見渡した。
「七十人が一斉に挨拶すると、さすがにすごいですね」
一条が頭を下げる。
「今日はどうされたんですか?」
「準決勝前ですからね」
校長が答えた。
「野球部と吹奏楽部の様子を見ておこうと思いまして」
「ありがとうございます」
校長の視線が肇へ向く。
先日の校長室で話をしたばかりだった。
肇の父親は校長の大学時代の先輩。
しかし、学校ではその関係を特別扱いしない。
校長はいつも通り、
「高橋君」
と呼んだ。
「はい」
「準々決勝、見事でした」
「ありがとうございます」
「七回一失点でしたね」
「はい」
「ただし」
校長が少し笑う。
「一条先生の指示はきちんと聞くように」
部員たちが笑う。
「聞いてますよ!」
肇が答える。
一条がすぐ、
「昨日、投げ込みを減らせと言ったら不満そうでしたけどね」
「監督!」
さらに笑いが広がった。
校長も笑う。
「元気なのはいいことです。しかし身体を守るのも選手の役目です」
「はい!」
今度は肇もしっかり返事をした。
◇◇◇
その後、校長と教頭はバックネット付近から練習を見学した。
キャッチボール。
内野ノック。
外野ノック。
バント練習。
走塁。
打撃。
そして投手陣は軽めの調整。
肇は晃大を相手にブルペンへ入ったものの、球数は抑えられていた。
「もっと投げたい」
「駄目」
晃大が即答する。
「あと十球」
「駄目」
「五球」
「駄目」
「三球」
「買い物の値引き交渉じゃないんだから」
「じゃあ一球」
晃大が呆れる。
そこへ一条監督。
「終了」
「監督!」
「高橋、今日は終わり」
「まだ全然投げてません!」
「それでいい」
「でも――」
一条が肇を見る。
「準決勝で投げたいんだろ?」
「当然です」
「だったら今日は抑えろ」
肇は少し黙ってから、
「……はい」
と答えた。
その様子を見ていた校長が教頭へ小さく言う。
「一条先生も大変ですね」
教頭が苦笑する。
「高橋君の場合、止めることも監督の仕事ですね」
◇◇◇
午前十一時過ぎ。
一条監督は和誠を呼んだ。
「鈴木」
「はい」
「ここから少し外す」
「分かりました」
「メニュー通り進めておいてくれ」
「はい!」
肇が聞いていた。
「監督、どこ行くんですか?」
「仕事」
「何の?」
「お前には関係ない」
「怪しい」
「高橋」
「はい?」
「走る本数増やすぞ」
「すみません」
一条はグラウンドを離れた。
向かった先は――音楽室だった。
◇◇◇
音楽室。
そこには東雲千鶴と、真悠を含む吹奏楽部三十人が揃っていた。
昨日から進めている秘密の計画。
準決勝から、野球部の選手一人一人に新しい応援曲を用意する。
もちろん野球部には秘密。
肇にも秘密。
「一条先生、来ましたね」
千鶴が言った。
「遅くなりました」
「野球部は?」
「鈴木に任せています」
真悠が尋ねる。
「兄ちゃんは?」
「何も知りません」
「よかった」
「高橋さん」
千鶴が言う。
「あなたも家で言ってないでしょうね?」
「言ってません!」
「本当に?」
「昨日、何度か言いそうになりましたけど」
「危ないじゃない」
部員たちが笑った。
「でも絶対秘密です」
「お願いします」
一条が前へ立つ。
「昨日はありがとうございました」
「いえ!」
「今日は実際の演奏を聞かせてください」
三十人の表情が変わる。
「はい!」
◇◇◇
最初は主将・鈴木和誠を想定した曲。
千鶴が指揮棒を構える。
「準備」
三十人が楽器を構えた。
「始めます」
演奏開始。
力強いリズム。
主将らしい堂々とした曲調。
一条は腕を組んで聞く。
演奏終了。
「どうですか?」
千鶴が尋ねた。
「いいですね」
「本当ですか?」
「鈴木っぽい」
部員たちが嬉しそうに笑う。
続いて前薗晃大。
宮坂大智。
そして他の選手たち。
一人ずつイメージを変えていく。
一条監督から選手の性格を聞き、吹奏楽部員たちが音へ変える。
「次」
千鶴が楽譜を見る。
「高橋肇君」
真悠がトロンボーンを構える。
一条監督も少し身を乗り出した。
「これは楽しみだな」
「昨日、一番時間を使いましたから」
千鶴が言う。
「高橋君はエースで四番。打席に立った瞬間にスタンドの空気を変えたい」
「お願いします」
千鶴が指揮棒を上げる。
静寂。
そして――。
演奏が始まった。
序盤は力強さを抑える。
しかし徐々に音が重なっていく。
トランペット。
トロンボーン。
サックス。
クラリネット。
打楽器。
そして後半、一気に盛り上がる。
一条監督の表情が変わった。
「……すごい」
演奏終了。
三十人が一条を見る。
「どうですか?」
真悠が尋ねた。
一条は大きく頷いた。
「これで行きましょう」
「やった!」
部員たちが喜ぶ。
「ただ」
一条は笑う。
「高橋、打席で驚くだろうな」
真悠も笑う。
「絶対こっち見ると思います」
「だろうね」
千鶴も微笑んだ。
準決勝当日。
肇が打席へ入った瞬間。
この曲が初めて流れる。
本人は何も知らない。
◇◇◇
その頃。
校長と教頭も音楽室の近くまで来ていた。
「聞こえますね」
「かなり本格的ですね」
二人が中へ入る。
千鶴が気づいた。
「皆さん、一度止めて」
三十人が演奏を止める。
「校長先生、教頭先生」
一条も振り返った。
「こちらにも来られたんですね」
「野球部だけ見て帰るわけにはいきませんから」
千鶴が部員たちを見る。
「皆さん」
三十人が立ち上がる。
「礼」
「こんにちは!」
一斉に頭を下げた。
校長と教頭も頭を下げる。
「こんにちは」
校長は楽譜を見た。
「準決勝へ向けた練習ですか?」
千鶴が答える。
「はい。それと――少し新しい試みを」
一条監督が説明する。
選手ごとに新しい応援曲を用意していること。
準決勝当日まで野球部には秘密であること。
校長は驚いた。
「なるほど。だから一条先生がこちらに?」
「はい」
教頭が笑う。
「高橋君たちは知っているんですか?」
三十人が揃って首を横に振った。
真悠まで大きく振る。
「兄ちゃんも知りません」
校長が笑った。
「それは楽しみですね」
「校長先生」
千鶴が念を押す。
「野球部には」
「言いませんよ」
教頭も、
「もちろんです」
と答えた。
これで秘密を共有する人物が少し増えた。
◇◇◇
校長は音楽室を見渡した。
「野球部は七十人」
そして吹奏楽部を見る。
「こちらは三十人」
「はい」
「合わせて百人ですね」
千鶴が頷く。
「はい」
「さらにチアリーディング部や応援する生徒もいる」
一条監督も黙って聞く。
「甲子園を目指しているのは、グラウンドに立つ選手だけではないということですね」
「はい」
一条が答えた。
「昨日、東雲先生にも同じようなことを言われました」
校長が笑う。
「なら一条先生も、監督として甲子園へ連れていかなければいけませんね」
一条も笑う。
「責任重大ですね」
「お願いしますよ」
「はい」
◇◇◇
午後。
野球部の練習が終了した。
七十人がグラウンド整備を行う。
一条監督も戻ってきていた。
「集合!」
七十人が整列。
「今日はここまで」
「ありがとうございました!」
「明日は完全休養とは言わないが、身体を休めることも考えろ」
「はい!」
「高橋」
「はい!」
「特にお前」
「何で俺だけ……」
「分かるだろ」
笑いが起こる。
「解散!」
「ありがとうございました!」
七十人が一礼する。
その中で肇は一条監督を見る。
午前中、しばらくいなかった。
「監督」
「何だ?」
「午前中、どこ行ってたんですか?」
「仕事」
「昨日もそう言ってましたよね?」
「仕事は仕事だ」
「怪しいなぁ」
「高橋」
「はい」
「余計な詮索する暇があったら準決勝の相手を研究しろ」
「それはもうしてます」
「なら休め」
「はい」
肇はまだ納得していなかった。
だが、まさか自分の応援曲を吹奏楽部三十人が練習していたとは想像もしなかった。
◇◇◇
夜。
家へ戻った肇と千鶴。
夕食を終え、二人はリビングでゆっくりしていた。
肇は準決勝の資料を読んでいる。
千鶴は吹奏楽部の楽譜を確認していた。
当然、肇から見えないように。
「千鶴」
「何?」
「今日、学校で何してた?」
千鶴の手が一瞬止まる。
「吹奏楽部の練習」
「それだけ?」
「それだけです」
「怪しい」
「何が?」
「一条監督も午前中いなくなったんだよ」
千鶴は平静を装う。
「先生同士なんだから仕事の話くらいするでしょう?」
「ふーん」
「何?」
「いや」
危ない。
千鶴は心の中で思った。
真悠だけではない。
自分まで秘密を漏らしてはいけない。
肇はしばらく資料を読んでいた。
そして突然、
「千鶴」
「今度は何?」
「俺の好きなところって十個言える?」
千鶴が固まった。
「……え?」
「だから、俺の好きなところ」
「どうして急に?」
「何となく気になった」
千鶴は驚いた。
昨夜、一条監督からまったく同じ質問をされた。
もちろん肇は知らない。
「十個?」
「うん」
「本当に聞きたいの?」
「聞きたい」
千鶴は少し恥ずかしくなる。
昨夜は一条監督へ答えた。
しかし本人へ直接言うとなると、まったく違う。
「笑わない?」
「笑わない」
「途中で恥ずかしいとか言わない?」
「言わない」
「じゃあ……」
千鶴は肇を見る。
「一つ目。野球に本気なところ」
肇が静かに聞く。
「二つ目。家族を大事にするところ」
「うん」
「三つ目。真悠さんと眞衣さんを大切にしているところ」
肇が少し笑う。
「四つ目。負けず嫌いだけど、ちゃんと仲間を認められるところ」
「それ最近だな」
「そうね」
「五つ目は?」
「約束を忘れないところ」
甲子園へ連れていく。
全国制覇。
そして、その先。
肇が何度も口にしてきた約束。
「六つ目。自分の夢をちゃんと言葉にできるところ」
「プロ?」
「それも」
「七つ目」
千鶴が笑う。
「料理ができるところ」
「そこ入るんだ」
「助かってますから」
「よかった」
「八つ目。私が疲れている時に気づいてくれるところ」
肇は少し照れた。
「九つ目。真っ直ぐなところ」
そして――。
千鶴は少し間を置いた。
「十個目」
肇が待つ。
「私のことを、本気で大切にしてくれるところ」
肇は何も言わなかった。
「……肇?」
次の瞬間。
肇は千鶴へ近づき、その身体をぎゅっと抱きしめた。
「ちょっと……急にどうしたの?」
「嬉しかった」
「十個聞きたいって言ったのは肇でしょう?」
「そうだけど」
「だったら最後まで普通に聞いてよ」
「無理だった」
千鶴も少し笑い、肇の背中へ腕を回した。
豊かな胸元に抱かれる形になった肇は、しばらく何も言わず、その温もりの中で千鶴の言葉を噛みしめていた。
学校では誰も知らない。
高嶺の花。
美人教師。
多くの男子生徒から憧れられている東雲千鶴。
そんな千鶴が、自分の好きなところを十個も迷わず挙げてくれた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
千鶴は肇の頭を優しく撫でた。
◇◇◇
少しして二人は離れた。
今度は千鶴が言う。
「じゃあ肇」
「何?」
「私も聞いていい?」
「いいよ」
「私の好きなところ、十個」
「言える」
即答だった。
「早いわね」
「ずっと好きだったから」
「じゃあお願いします」
肇は指を一本立てる。
「一つ目」
「はい」
「優しいところ」
「普通ね」
「まだ一個目だから」
二本目。
「二つ目。生徒一人一人をちゃんと見てるところ」
千鶴が少し驚く。
「見てたの?」
「高校一年から」
「……そうだったわね」
三本目。
「三つ目。吹奏楽部に本気なところ」
高校時代にはトロンボーンを演奏していた千鶴。
今では顧問として三十人を支えている。
「四つ目。仕事に真面目なところ」
「うん」
「五つ目」
肇が笑う。
「料理が上手いところ」
「お互い入るのね」
「大事だから」
「そう?」
「かなり」
六つ目。
「俺が野球で落ち込んでも、変に励ましすぎないところ」
千鶴が少し驚いた。
「そうなの?」
「うん。『次頑張ればいい』って普通に言ってくれるから」
七つ目。
「俺が無茶したら止めてくれるところ」
「それは一条先生にもお願いしてあります」
「やっぱり!」
「当然です」
肇が苦笑する。
「八つ目」
少し考える。
「俺の家族も大切にしてくれるところ」
真悠。
眞衣。
由紀子。
父親。
千鶴は肇だけではなく、高橋家そのものと長く関わってきた。
「九つ目」
肇は千鶴を真っ直ぐ見る。
「俺の夢を笑わないところ」
「笑うわけないでしょう?」
「甲子園優勝も」
「うん」
「プロも」
「うん」
「全部?」
「全部」
肇が笑った。
そして十個目。
少しだけ時間を置いて答えた。
「高校一年の俺が好きだって言った時から、ちゃんと俺自身を見てくれたところ」
千鶴は何も言えなくなった。
「これで十個」
「……反則」
「何が?」
「最後だけ重い」
「千鶴もだったじゃん」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇◇◇
肇はソファへ深く座った。
そして天井を見ながら呟く。
「学校のみんなは知らないんだよな」
「何を?」
「俺たちのこと」
千鶴は黙って聞く。
「みんなは千鶴が俺と付き合ってることすら知らない」
学校では東雲千鶴。
三十八歳。
学校一の高嶺の花と呼ばれる美人教師。
男子生徒たちから憧れの存在として見られている。
肇自身も――最初はその一人だった。
「高校一年の時から東雲先生が好きだったなんて、他の生徒には言えないよ」
千鶴が少し笑う。
「学校ではちゃんと東雲先生って言えるのね」
「今は学校の話だから」
「よろしい」
「男子なんて、ほぼ全員一回くらい千鶴のこと綺麗って言ってるんじゃない?」
「大袈裟」
「本当だって」
「知らないわよ」
「俺は聞いてたから」
肇は高校一年生だった頃を思い出す。
廊下を歩くだけで視線を集める千鶴。
授業を担当していない生徒からも名前を知られていた。
高嶺の花。
美人教師。
そんな言葉を何度も耳にした。
「俺も最初は、みんなと同じだったんだよ」
「そうなの?」
「綺麗な先生だなって」
「そこから告白まで行く?」
「好きになったから」
「行動力がおかしいのよ」
「褒めてる?」
「半分くらい」
肇が笑う。
そして――。
「母さんの高校時代の後輩だって知った時は、本当に驚いた」
「私もよ」
「最初から知ってたんじゃないの?」
「あなたが由紀子先輩の息子だと意識したのは後から」
「世間狭すぎ」
「本当にね」
肇の母・由紀子。
千鶴の高校時代の先輩。
それを知った時、肇自身も信じられなかった。
自分が高校一年生から好きだった教師。
その人が、自分の母親と高校時代からつながっていた。
「何か不思議だな」
「何が?」
「高校一年の時の俺に教えてやりたい」
「何を?」
肇が笑う。
「お前が今見てる高嶺の花の先生と、数年後にはこんな話してるぞって」
「絶対信じないでしょうね」
「俺もそう思う」
二人は笑った。
◇◇◇
その頃。
学校の音楽室では、今日使われた楽譜が綺麗に片づけられていた。
準決勝から始まる新しい応援。
野球部員一人一人のための曲。
まだ本人たちは誰も知らない。
そしてグラウンドには、七十人の部員が整備した跡が残っている。
野球部七十人。
吹奏楽部三十人。
校長。
教頭。
一条昴監督。
東雲千鶴。
それぞれ立場は違う。
しかし、目指している場所は同じだった。
甲子園。
◇◇◇
夜。
肇は練習ノートを開いた。
『初戦突破 ○』
『二回戦突破 ○』
『三回戦突破 ○』
『四回戦突破 ○』
『準々決勝突破 ○』
そして――。
『準決勝突破』
まだ丸はない。
さらにその下。
『決勝突破――甲子園』
肇がペンを置く。
千鶴が横から見る。
「書かないの?」
「何を?」
「準決勝突破の丸」
「まだ勝ってないから」
「そうね」
「でも」
肇はその文字を指でなぞった。
「次、絶対ここに丸つける」
千鶴が頷く。
「うん」
「その次も」
『決勝突破――甲子園』
「うん」
「そして甲子園でも勝つ」
「一個ずつでしょう?」
「分かってる」
肇が笑った。
千鶴も微笑む。
学校では誰も知らない二人の秘密。
一条監督、校長、教頭、そして家族など、ごく限られた者だけが知り始めた二人の関係。
一方で肇がまだ知らない秘密もある。
準決勝。
打席へ入った瞬間に流れる、新しい応援曲。
一条監督。
千鶴。
真悠。
そして吹奏楽部三十人が準備したサプライズ。
土曜日の学校で進められた秘密の準備は、すべて整った。
番外編⑸で描かれた、監督と教師。
二人がそれぞれの立場から支えているのは――同じ一人の高校生。
高橋肇。
高校三年生。
野球部のエース。
四番打者。
高校通算五十八本塁打。
そして最後の夏。
次はいよいよ――準決勝。
甲子園まで、あと二勝。
グラウンドの仲間たちと。
スタンドから支える仲間たちと。
そして肇を見守る人々とともに。
高橋肇の甲子園への挑戦は、いよいよ最後の二試合へ進んでいく。
番外編⑸❸終「監督と教師――高橋肇を支える二人の大人」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回で、全三編にわたって描いてきた番外編⑸は完結となります。
今回の土曜日では、まず野球部七十人と吹奏楽部三十人、それぞれの準決勝へ向けた準備を描きました。
グラウンドでは野球部七十人が一条監督のもとで練習。
校長先生と教頭先生が訪れると、主将・鈴木和誠の号令に合わせ、七十人全員が揃って頭を下げます。
そして一条監督がグラウンドを離れて向かった先は――吹奏楽部。
そこでは千鶴と真悠を含む三十人の部員たちが、前日の金曜日から準備していた「選手一人一人の新しい応援曲」を実際に演奏しました。
主将・鈴木和誠。
正捕手・前薗晃大。
そしてほかの野球部員たち。
さらにエース兼四番・高橋肇。
それぞれの性格やプレースタイルをイメージした曲が用意されています。
当然、肇本人は何も知りません。
準決勝当日。
肇が打席へ向かい、初めてその新しい曲を耳にした時にどんな反応をするのか。
一条監督、千鶴、真悠、そして吹奏楽部三十人だけが知る、大きなサプライズとなりました。
そして夜。
肇から千鶴へ突然投げかけられた、
「俺の好きなところ、十個言える?」
という質問。
千鶴が答えたのは、
野球に本気なところ。
家族を大切にするところ。
真悠と眞衣を兄として大切にしているところ。
仲間を認め、頼れるようになったところ。
約束を忘れないところ。
自分の夢を堂々と言えるところ。
料理ができるところ。
千鶴が疲れている時に気づいてくれるところ。
真っ直ぐなところ。
そして最後は――
「私のことを、本気で大切にしてくれるところ」
その十個目を聞いた瞬間、肇は思わず千鶴を抱きしめました。
そして今度は、肇から千鶴へ。
優しいところ。
生徒一人一人を見ているところ。
吹奏楽部に本気で向き合っているところ。
教師の仕事に真面目なところ。
料理が上手なところ。
肇が落ち込んだ時に自然に支えてくれるところ。
無茶をした時に止めてくれるところ。
高橋家の家族も大切にしてくれるところ。
肇の夢を笑わないところ。
そして――
「高校一年の俺が好きだって言った時から、ちゃんと俺自身を見てくれたところ」
二人とも、相手の好きなところを十個きちんと言葉にすることができました。
学校では誰も知らない二人の関係。
男子生徒たちから「高嶺の花」と呼ばれ、憧れの的になっている東雲千鶴。
肇自身も高校一年生の頃、そんな千鶴に惹かれた一人でした。
しかも後になって分かったのは、千鶴が肇の母・由紀子の高校時代の後輩だったという意外な縁。
高校一年生だった頃の肇が今の自分を見たとしても、おそらく簡単には信じられないでしょう。
そして、この三部作を通して一条監督と千鶴の役割もよりはっきりしました。
一条監督は、野球選手としての肇を支える。
千鶴は、一人の人間としての肇を支える。
校長、教頭、家族、野球部七十人、吹奏楽部三十人、チアリーディング部――。
多くの人たちに支えられながら、肇はいよいよ高校最後の夏、その大一番へ向かいます。
練習ノートには、
『初戦突破 ○』
『二回戦突破 ○』
『三回戦突破 ○』
『四回戦突破 ○』
『準々決勝突破 ○』
そして、まだ丸のついていない――
『準決勝突破』
『決勝突破――甲子園』
甲子園まで、あと二勝。
さらに準決勝では、肇たちがまだ知らない新しい応援曲も初披露されます。
番外編⑸で描いた「支える側」の準備は、すべて整いました。
次はいよいよ――地区大会準決勝。
高橋肇、高校三年生。
甲子園を懸けた最後の二試合へ向かいます。




