番外編⑸❶「監督と教師――高橋肇を支える二人の大人」
今回の番外編⑸❶では、準々決勝を突破してベスト4進出を決めた翌日、野球部監督・一条昴と吹奏楽部顧問・東雲千鶴という、肇をそれぞれ異なる立場から支えている二人に焦点を当てました。
準々決勝では、肇が七回一失点。
そして二年生投手・久我直哉が残り二回を無失点で守り切り、強豪・私立東央学園を二対一で撃破。
甲子園まで、ついにあと二勝となりました。
しかし今回、一条監督と千鶴が話したのは、目の前の準決勝だけではありません。
高校通算五十八本塁打。
投手としてもチームのエース。
そして高校卒業後には、ドラフト指名を受けてプロ野球の世界へ進むことを目標としている肇。
そんな肇に対して、一条監督は「野球で支える」という役割を。
千鶴には「野球以外の場所で支えてほしい」という願いを伝えました。
教師と生徒という二人の関係については、これからも学校や両家を交え、慎重に向き合わなければなりません。
それでも一条監督は、肇が将来について本気で考えていることを少しずつ理解し始めています。
甲子園。
全国制覇。
プロ野球。
そして高校卒業後の未来。
そのすべてを目指す肇を支える二人の大人が、初めてじっくりと言葉を交わす番外編です。
準々決勝を二対一で突破した翌日の放課後。
野球部のグラウンドには、準決勝へ向けた練習の音が響いていた。
「高橋! 下半身使え!」
「はい!」
一条昴監督の声が飛ぶ。
マウンドでは肇が投球練習。
ホームベース後方では前薗晃大がミットを構えている。
少し離れた場所では、主将の鈴木和誠を中心に守備練習が続いていた。
一条監督は腕を組みながら、その様子をじっと見ていた。
準々決勝。
肇は七回一失点。
そして二年生の久我直哉が八、九回を無失点。
一人ではなく、チーム全員で勝ち上がった。
一条監督にとって、それは何より嬉しい成長だった。
「先生」
後ろから声を掛けられた。
振り返る。
東雲千鶴だった。
吹奏楽部の練習へ向かう途中らしく、手には楽譜のファイルを持っている。
「東雲先生」
「少しだけいいですか?」
「もちろん」
二人はグラウンドから少し離れた場所へ移動した。
とはいえ、肇たち野球部員の姿は十分に見える。
千鶴はしばらくマウンドを見つめた。
「昨日はありがとうございました」
一条監督が首を傾げる。
「何がです?」
「肇……いえ、高橋君のことです」
学校では名前で呼ばない。
先日の校長室での話し合い以降、千鶴は以前にも増してそこを意識するようになっていた。
一条監督は苦笑する。
「今、普通に肇って言いかけましたね」
「……聞かなかったことにしてください」
「無理でしょう」
「一条先生」
千鶴が少し困ったように笑う。
「冗談です」
一条監督も笑った。
しかし、すぐ真剣な表情へ戻る。
「昨日の高橋なら、俺はほとんど何もしていませんよ」
「でも七回で交代させてくれたでしょう?」
「あれは当然です」
「本人は最後まで投げたがっていたと思います」
「間違いなく」
一条監督は即答した。
「あいつは九回どころか、延長になっても投げるって言うタイプですから」
千鶴がため息をつく。
「やっぱり……」
「家でもそうですか?」
その言葉で千鶴が一瞬固まった。
今では一条監督も、二人が同じ家で暮らしていることを知っている。
「……はい」
「無理する?」
「します」
「やっぱり」
「大丈夫って言葉を信用できなくなってきました」
一条監督が笑う。
「それは俺も同じです」
二人はマウンドを見る。
肇が投げる。
バシィィン!
晃大のミットが鳴った。
「ナイスボール!」
練習とはいえ、相変わらず力強い球。
千鶴が言う。
「一条先生」
「はい」
「高橋君、本当にプロへ行けると思いますか?」
監督は少し黙った。
「行ける可能性はあります」
「可能性……」
「絶対とは言いません」
千鶴は監督を見る。
「厳しいんですね」
「プロの世界ですから」
一条監督は肇を見たまま続ける。
「高校通算五十八本。投手としてもここまで地区大会で結果を残してる。素材として見れば、当然スカウトが注目するでしょう」
「はい」
「でも、それとプロで活躍できるかは別です」
千鶴は静かに聞いている。
「高校では四番でエース。それでもプロへ行けば、周りは同じような奴ばかりです」
「……そうですよね」
「だから」
一条監督は千鶴を見る。
「本人がどこまで本気なのかが一番大事です」
千鶴は迷わず答えた。
「本気です」
一条監督が少し笑った。
「でしょうね」
「家でもずっと野球のことを考えています」
「それは学校でも同じです」
「練習ノートも毎日書いてます」
「知ってます」
「本当に?」
「監督ですから」
二人は少し笑った。
◇◇◇
しばらく沈黙。
そして一条監督が先に口を開いた。
「東雲先生」
「はい」
「この間の件なんですけど」
千鶴の表情が変わる。
「……私と高橋君のことですか?」
「はい」
校長室で話したこと。
教師と生徒の交際。
家族の了承。
同棲。
高校卒業後の結婚。
そして甲子園優勝後のプロポーズ。
簡単に扱える話ではない。
「正直に言っていいですか?」
「お願いします」
一条監督は少し言葉を選んだ。
「最初に高橋から聞いた時は、かなり驚きました」
「そうですよね」
「というか、何を言ってるんだこいつは、と思いました」
千鶴が苦笑する。
「すみません」
「東雲先生が謝ることじゃないです」
「でも……」
「もちろん、教師と生徒という関係については俺も簡単に賛成とは言えません」
千鶴は頷く。
「分かっています」
「学校側として考えるべきこともある」
「はい」
「でも」
一条監督はマウンドを見る。
肇は次の投球に入っている。
「高橋がふざけて言ってるわけじゃないのは分かりました」
千鶴が少し驚く。
「本気ですよ、あいつ」
「……はい」
「甲子園で優勝したらプロポーズするなんて、普通なら高校生が勢いで言ったように聞こえる」
「そうですね」
「でもあいつの場合」
一条監督は小さく笑う。
「本当にやろうとしてる」
千鶴も笑ってしまった。
「そうなんです」
「困った奴ですね」
「本当に」
二人は同時に同じことを言って、顔を見合わせた。
そして笑った。
◇◇◇
「そういえば」
一条監督が思い出したように言う。
「由紀子さんの件も驚きました」
「私の先輩だったことですか?」
「はい」
「一条先生も由紀子先輩をご存じだったんですよね?」
「昔、少しだけ」
「詳しくは聞いてませんでした」
「そこまで深い付き合いじゃないですよ。ただ名前と顔を知っている程度です」
千鶴は頷いた。
「高校時代の由紀子先輩、すごく面倒見が良かったんです」
「今もそんな感じじゃないですか?」
「変わってません」
「高橋の母親だと思うと納得します」
「どの辺が?」
「真っ直ぐなところ」
千鶴は思わず笑った。
「確かに」
「息子も真っ直ぐでしょう?」
「真っ直ぐすぎます」
「ですよね」
千鶴は少し遠い目をした。
高校時代。
由紀子の後輩だった自分。
まさか何年も経った後、その息子とこんな関係になるとは夢にも思わなかった。
「由紀子先輩から最初に言われたんです」
「何を?」
「肇のことをお願いって」
一条監督が少し驚く。
「そんなことを?」
「はい」
「高校一年の頃?」
「そうです」
千鶴は静かに頷く。
「その頃は、まさか今みたいになるなんて思ってませんでしたけど」
「でしょうね」
「教師として見守るつもりだったんです」
「それが今では」
一条監督が言いかけて止める。
千鶴が見る。
「何です?」
「いや」
「言ってください」
「……甲子園優勝したらプロポーズされる予定」
千鶴の顔が一気に赤くなった。
「一条先生!」
「すみません」
笑いながら謝る。
「本人が堂々と言うから」
「本当にもう……」
千鶴は恥ずかしそうにグラウンドを見る。
その先では肇が何も知らず練習を続けている。
◇◇◇
一条監督は少し真剣な表情へ戻った。
「東雲先生」
「はい」
「一つだけお願いがあります」
「何でしょう?」
「高橋に、野球以外の場所もちゃんと残しておいてください」
千鶴は少し驚いた。
「野球以外?」
「はい」
一条監督は続ける。
「あいつは今、野球のことしか見えてない」
「……」
「甲子園」
「全国制覇」
「ドラフト」
「プロ」
「全部野球です」
千鶴は静かに頷く。
「それが悪いとは思いません」
「はい」
「高校生がそこまで本気で何かを追いかけられるのは、むしろすごいことです」
「でも?」
「もしどこかで野球が上手くいかなくなった時」
一条監督は言葉を選ぶ。
「戻れる場所が必要です」
千鶴は何も言わなかった。
「怪我するかもしれない」
「指名されないかもしれない」
「プロへ行けても活躍できないかもしれない」
「そういう世界です」
「……はい」
「監督である俺は、あいつを野球で支えます」
一条監督が千鶴を見る。
「だから東雲先生には、それ以外のところで支えてほしい」
千鶴はしばらく黙っていた。
そして静かに頷いた。
「分かりました」
「すみません。偉そうに」
「いいえ」
千鶴は肇を見る。
「私も、それができたらと思っています」
一条監督が少し微笑む。
「なら安心です」
「でも一条先生」
「はい?」
「野球で何かあった時は、ちゃんと一条先生が責任持ってくださいね」
「もちろん」
「肩を壊すような投げ方をさせないでください」
「はい」
「連投も」
「はい」
「球数も」
「東雲先生」
「はい?」
「完全に保護者みたいですよ」
千鶴が一瞬止まる。
「……仕方ないでしょう」
一条監督が笑う。
「分かりました。任せてください」
◇◇◇
「監督!」
突然グラウンドから声が飛んできた。
肇だった。
「一条監督!」
「何だ!」
「準決勝の先発、俺ですよね!」
一条監督が額に手を当てる。
「まだ決めてない!」
「ええ!?」
「お前、昨日七回投げたばかりだろ!」
「大丈夫です!」
千鶴が横から小さく言う。
「ほら」
一条監督が笑った。
「本当に大丈夫って言いますね」
「だから信用できないんです」
「聞こえてるぞ!」
肇が遠くから叫ぶ。
千鶴が驚く。
「聞こえてたの?」
「聞こえてませんよ。たぶん勘です」
一条監督がグラウンドへ向かって叫ぶ。
「高橋!」
「はい!」
「走ってこい!」
「何でですか!?」
「監督に口答えしたからだ!」
「してません!」
「いいから走れ!」
「はい!」
肇がグラウンドの外周を走り始める。
晃大と和誠が笑っている。
千鶴も思わず笑った。
「本当に元気ですね」
「元気すぎます」
「でも」
千鶴は走っている肇を見る。
「楽しそう」
一条監督も頷く。
「野球やってる時の高橋は、本当に楽しそうですよ」
◇◇◇
少しして、千鶴は吹奏楽部へ戻る時間になった。
「そろそろ行きます」
「はい」
「一条先生」
「何でしょう?」
千鶴は一度立ち止まった。
「高橋君のこと、よろしくお願いします」
一条監督はすぐ答えた。
「任せてください」
「準決勝も」
「勝たせるつもりです」
「その次も」
「決勝?」
「はい」
一条監督が笑う。
「甲子園へ連れていけって?」
千鶴は少し照れたように笑った。
「本人と約束してるので」
「なるほど」
一条監督はマウンドへ戻っていく肇を見る。
「じゃあ俺も協力します」
「お願いします」
千鶴は頭を下げた。
そして音楽室へ向かって歩き始めた。
◇◇◇
練習終了後。
一条監督が一人でグラウンド整備を確認していると、肇が近づいてきた。
「監督」
「何だ?」
「さっき東雲先生と何話してたんですか?」
一条監督が肇を見る。
「気になるか?」
「少し」
「お前の悪口」
「嘘ですよね?」
「何で分かる?」
「千鶴が俺の悪口言わないから」
一条監督が眉を上げる。
「高橋」
「はい?」
「学校では?」
肇が固まる。
「……東雲先生」
「よし」
「すみません」
一条監督は少し笑った。
「お前の将来の話だよ」
肇の表情が変わる。
「プロ?」
「それも」
「他は?」
「秘密」
「何で?」
「大人同士の話だ」
「ずるい」
「高校生は早く帰れ」
「俺、十八です」
「高校生だろ」
肇は不満そうだった。
一条監督はそんな肇を見ながら言う。
「高橋」
「はい」
「準決勝」
「はい」
「勝ちたいか?」
肇は一瞬も迷わなかった。
「絶対勝ちたいです」
「決勝は?」
「勝ちます」
「甲子園は?」
「優勝します」
一条監督が笑った。
「全部言い切るな」
「約束しましたから」
「東雲先生と?」
「……はい」
肇は少し照れながら答える。
一条監督は、その顔を見て思った。
野球部のエース。
四番打者。
高校通算五十八本塁打。
プロを目指す十八歳。
だが、今ここにいるのは――まだ高校生でもある。
「高橋」
「はい」
「一個ずつ行け」
肇が笑った。
「千鶴と同じこと言う」
「だから学校では東雲先生!」
「すみません!」
二人の声が夕方のグラウンドへ響く。
甲子園まで――あと二勝。
その先に待っている未来がどうなるのかは、まだ誰にも分からない。
けれど肇には、野球を支えてくれる一条昴監督がいる。
そして野球以外の場所から見守る東雲千鶴がいる。
立場は違う。
役割も違う。
それでも二人が願っていることは、同じだった。
高橋肇が、自分で選んだ未来へ後悔なく進むこと。
そして今は――。
まず準決勝。
甲子園への残り二勝を、全員で掴みに行くことだった。
番外編⑸❶「監督と教師――高橋肇を支える二人の大人」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は一条昴監督と東雲千鶴。
二人だけの会話を中心に描きました。
一条監督が支えるのは、主に「野球選手としての高橋肇」。
千鶴が支えるのは、野球選手である以前の「一人の高橋肇」。
同じ人物を大切に思っていても、その立場と役割は大きく異なります。
だからこそ今回、一条監督が千鶴へ伝えた、
「監督である俺は、あいつを野球で支えます」
「だから東雲先生には、それ以外のところで支えてほしい」
という言葉は、二人の役割を象徴するものとなりました。
プロ野球を目指している以上、肇の未来が必ず思い描いた通りになる保証はありません。
怪我。
ドラフト。
プロ入り後の競争。
どれだけ高校野球で活躍していても、その先にはさらに厳しい世界があります。
だからこそ野球がうまくいっている時だけではなく、うまくいかなくなった時にも帰れる場所が必要になる。
一条監督は、その役割を千鶴へ託しました。
一方で千鶴から一条監督へ託したのは、肇の身体と野球人生。
無理な連投をさせないこと。
肩や肘を守ること。
一人ですべてを背負わせないこと。
二人が互いに違う方向から肇を支える関係が、今回から少しずつ生まれ始めています。
また、一条監督と肇の母・由紀子のつながり。
由紀子と千鶴が高校時代の先輩・後輩だったという関係についても、改めて二人の会話に登場しました。
そして、真面目な話ばかりではありません。
「甲子園で優勝したらプロポーズする」
という肇の宣言について一条監督から触れられ、思わず照れてしまう千鶴。
さらには練習中、
「準決勝の先発、俺ですよね!」
と遠くから確認する肇に対し、
「まだ決めてない!」
と返す一条監督。
そんなやり取りからも、監督とエースの信頼関係が少しずつ深まっていることが伝われば嬉しいです。
そして最後。
肇が一条監督へ答えた三つの言葉。
準決勝――絶対勝ちたい。
決勝――勝つ。
甲子園――優勝する。
相変わらず大きな目標を迷わず口にする肇ですが、一条監督も千鶴も伝えることは同じです。
「一個ずつ」
まずは準決勝。
地区大会優勝まで、あと二勝。
甲子園への切符を手にするその瞬間まで、高橋肇の最後の夏はまだまだ続きます。




