第6話「二回戦の奇策――四番・高橋肇、ファーストで始まる強豪校との一戦」
第6話では、強豪・私立明成学院との地区大会二回戦を描きました。
初戦ではエースとして最初からマウンドに立った高橋肇。
しかし今回は、誰も予想していなかった作戦に出ます。
「試合には最初から出たい。でも、ピッチャーではなく四番・ファーストで出してください」
一条昴監督へ自らそう申し出た肇。
序盤のマウンドを託されたのは、黒崎蓮と早川慶介でした。
そして六回以降、肇がマウンドへ向かうタイミングで宮坂大智が一塁へ入る――。
その交代について事前に伝えられた大智を除けば、スタンドで応援する真悠や眞衣、吹奏楽部三十人、チアリーディング部、クラスメイトや他学年の生徒たちにとっても予想外のスターティングメンバーとなりました。
もちろん千鶴にも詳しい作戦は知らされていません。
『四番、ファースト、高橋君』
場内アナウンスが告げた瞬間、球場に広がった大きなどよめき。
エース高橋肇を最初から投げさせないという大胆な作戦は、強豪・明成学院を相手にどのような結果を生んだのか。
そして、肇が初戦で学んだ「一人ではなく、全員で勝つ」という言葉が、本当の意味で形になっていきます。
二回戦当日の早朝。
対戦相手は、甲子園出場経験もある強豪・私立明成学院。
試合開始を数時間後に控えた野球部のミーティングルームには、いつもとは違う緊張感が漂っていた。
一条昴監督がホワイトボードの前に立っている。
その前には、今日の試合を戦う選手たち。
エースで四番の高橋肇。
正捕手の前薗晃大。
主将の鈴木和誠。
そして他のスターティングメンバーとベンチメンバー。
一条監督が口を開こうとした、その時だった。
「監督」
肇が手を上げた。
「何だ、高橋」
「今日の起用について、お願いがあります」
一条監督が眉を上げる。
「言ってみろ」
肇は立ち上がった。
「俺、最初から試合には出してください」
「……どういう意味だ?」
晃大も和誠も肇を見る。
肇は続けた。
「四番打者としては最初から出ます。でも――」
一度言葉を切る。
「ピッチャーではなく、ファーストで出してください」
「は?」
晃大が思わず声を上げた。
周囲もざわついた。
「お前、ファースト?」
「そう」
「じゃあ先発投手は?」
肇はベンチにいる二人を見た。
黒崎蓮。
早川慶介。
「五回まで、蓮と慶介に任せたいです」
今度は黒崎と早川が驚いた。
「俺たちに?」
黒崎が自分を指差す。
「うん」
一条監督は黙って肇を見ていた。
「理由は?」
「明成学院は、俺が先発すると思ってるはずです」
「だろうな」
「だったら、その予想を外したい」
肇は続ける。
「それに、ここから勝ち上がれば試合はまだ続きます。俺一人が最初から最後まで全部投げるより、蓮と慶介にも任せたいです」
一条監督は腕を組んだ。
「つまり、お前は六回以降から登板したいと?」
「はい」
「そこまで五回を二人に任せる」
「はい」
黒崎が肇を見る。
「簡単に言ってくれるな」
「できるだろ?」
「……まあな」
早川も笑う。
「五回まで守ればいいんだな?」
「頼む」
「エースにそこまで言われたら断れないな」
晃大が口を挟む。
「俺は?」
「もちろん捕手」
「当たり前だ」
和誠が笑った。
「面白いじゃん」
しかし一条監督は笑わなかった。
「高橋」
「はい」
「明成学院相手だぞ」
「分かっています」
「序盤で大量失点する可能性もある」
「それも分かっています」
「それでもか?」
肇は迷わない。
「俺たちは、俺一人で甲子園に行くチームじゃありません」
部屋が静かになった。
「黒崎も早川も、ずっと練習してきました」
黒崎と早川が肇を見る。
「だったら信じたいです」
一条監督はしばらく黙っていた。
そして――。
「分かった」
「監督!」
「ただし条件がある」
「はい」
「試合展開によっては予定を変更する」
「もちろんです」
「黒崎、早川」
「はい!」
二人が返事をする。
「高橋のわがままに付き合えるか?」
黒崎が笑った。
「五回までゼロで行きます」
早川も続く。
「俺も準備できています」
「よし」
一条監督が頷いた。
「それで行こう」
◇◇◇
その後。
肇は一塁手の宮坂大智だけを呼び出した。
「大智」
「何?」
「今日、最初は俺がファーストに入る」
「え?」
宮坂の目が大きくなる。
「俺は?」
「六回以降から出てもらう」
「待て待て待て」
宮坂が肇の肩を掴んだ。
「どういうこと?」
「六回から俺がマウンドに行く」
「ああ……」
ようやく理解する。
「それで俺がファーストに戻るのか」
「そう」
「監督は?」
「了承してくれた」
宮坂は少し考えた。
「分かった」
「悪い」
「謝るなよ」
宮坂は笑った。
「六回までベンチでしっかり見てる」
そして拳を肇へ向ける。
「お前がマウンドに行ったら、ファーストは俺に任せろ」
肇も拳を合わせた。
「頼む」
この交代構想について、詳しい内容を知っている者は限られていた。
観客にはもちろん知らされていない。
吹奏楽部にも。
チアリーディング部にも。
そして――千鶴にも。
◇◇◇
球場。
試合開始一時間前。
観客席は徐々に埋まり始めていた。
吹奏楽部三十人も応援席へ入る。
「楽器、確認して!」
千鶴が部員たちへ声を掛ける。
「はい!」
真悠も準備をしていた。
少し離れた場所ではチアリーディング部。
眞衣も仲間たちと応援の最終確認をしている。
さらに同じクラスの生徒たち。
一年生。
二年生。
三年生。
初戦を勝ったことで、応援に駆けつける生徒はさらに増えていた。
「今日、高橋先発だよな?」
「当然じゃない?」
「明成学院だぞ」
「エース温存なんてできないだろ」
誰もがそう思っていた。
千鶴も同じだった。
肇が先発する。
当然だと思っていた。
だからこそ、場内アナウンスが始まった瞬間――。
球場の空気が変わることになる。
◇◇◇
『それでは、本日のスターティングメンバーをご紹介します』
応援席が静かになる。
『一番、ショート、神谷君』
拍手。
『二番、セカンド、藤堂君』
拍手。
『三番、センター、鈴木君』
「和誠ー!」
野球部員から声が飛ぶ。
そして。
『四番――ファースト、高橋君』
一瞬。
球場が静まり返った。
次の瞬間――。
「えっ!?」
「ファースト!?」
「高橋、投げないの!?」
大きなどよめきが起きた。
真悠も目を丸くした。
「えっ……お兄ちゃん、ファースト!?」
隣の吹奏楽部員も驚いている。
「高橋君ってエースだよね?」
「そうだよ!」
「どういうこと!?」
千鶴も驚いていた。
「肇……?」
聞いていない。
昨夜も普通に話をした。
だが、そんな作戦について肇は一言も言わなかった。
反対側では眞衣も驚いていた。
「ええっ!?」
「眞衣、知ってた?」
チアリーディング部の先輩が尋ねる。
「知りません!」
「お兄さん、ファーストもできるの?」
「できますけど……でも普通はピッチャーで……」
眞衣も混乱していた。
さらに三年生の応援席。
肇と同じクラスの生徒たちもざわめく。
「高橋どうした!?」
「故障?」
「いや、普通に四番で出てるぞ!」
「じゃあ何で投げないんだ?」
他学年の生徒たちも同じだった。
誰も理由を知らない。
アナウンスは続く。
『五番、キャッチャー、前薗君』
『六番、サード、桐生君』
『七番、レフト、長谷川君』
『八番、ライト、相馬君』
『九番――ピッチャー、黒崎君』
再びざわめき。
「黒崎先発!?」
「マジか!」
千鶴はベンチを見る。
そこに一条監督がいる。
そして一塁側で準備する肇。
肇は応援席を見上げた。
驚いている真悠。
驚いている眞衣。
そして千鶴。
その反応を見て、肇は少しだけ笑った。
「完全にサプライズになったな」
隣で和誠が笑う。
「そりゃそうだろ」
晃大も防具を着けながら言った。
「東雲先生もめちゃくちゃ驚いてるぞ」
「……そうだな」
肇はそれ以上何も言わなかった。
◇◇◇
試合開始。
一回表。
明成学院の攻撃。
マウンドへ上がったのは黒崎蓮。
肇はファーストミットを手に、一塁へ向かった。
黒崎がマウンドから肇を見る。
「本当に俺なんだな」
肇が笑う。
「頼んだぞ、蓮!」
「任せろ!」
晃大が座る。
プレイボール。
初球。
ストレート。
バシンッ!
「ストライク!」
応援席から歓声が上がった。
「黒崎ー!」
「頑張れ!」
真悠たち吹奏楽部も演奏を始める。
千鶴はマウンドの黒崎と、一塁を守る肇を交互に見ていた。
「そういうことなのね……」
少しずつ意図が分かってきた。
肇を休ませながら、四番打者としては使う。
そして黒崎たちに序盤を託す。
「一条先生らしい……」
だが、それだけではない気もした。
おそらく肇自身も望んだのだろう。
◇◇◇
黒崎は強豪・明成学院を相手に堂々と投げた。
一番打者。
ショートゴロ。
神谷が捕球。
「肇!」
一塁へ送球。
「アウト!」
肇が捕った。
「ナイス、神谷!」
「ナイスファースト!」
二番打者。
ライトフライ。
二死。
しかし三番打者にセンター前ヒットを許す。
そして四番。
カキィィン!
強烈な打球。
一、二塁間。
「肇!」
肇が飛びつく。
ミットへ収める。
自分で一塁ベースを踏んだ。
「アウト!」
三アウト。
黒崎が拳を握る。
「よっしゃ!」
肇も声を掛ける。
「ナイスピッチ、蓮!」
黒崎は笑った。
「お前に言われると腹立つな!」
「なんでだよ!」
ベンチに笑いが起こった。
◇◇◇
一回裏。
一番・神谷。
二番・藤堂。
三番・和誠。
明成学院のエースを相手に、簡単には塁へ出られない。
二死一塁。
そして。
『四番、ファースト、高橋君』
球場が沸く。
「お兄ちゃん!」
真悠が叫ぶ。
眞衣も声を上げる。
「打ってー!」
吹奏楽部の応援曲が始まった。
肇は打席へ入る。
投手として先発しなくても、四番の仕事はある。
明成学院のエースが初球を投げる。
速い。
肇は見送った。
「ストライク!」
二球目。
低めの変化球。
「ボール!」
三球目。
外角。
ファウル。
一ボール二ストライク。
四球目。
落ちる球。
肇は振らない。
「ボール!」
五球目。
ストレート。
肇が振り抜いた。
カキィィィン!
鋭い打球が三遊間を抜ける。
「ヒット!」
和誠が二塁へ。
肇は一塁。
「よっしゃ!」
応援席が沸いた。
「投げなくても打つ!」
「さすが四番!」
しかし肇は冷静だった。
まだ試合は始まったばかり。
◇◇◇
二回。
黒崎は一死から二塁打を浴びた。
さらに送りバント。
二死三塁。
九番打者。
晃大がマウンドへ行く。
「蓮」
「分かってる」
「一点はまだやれる」
「いや」
黒崎が首を横に振る。
「ゼロで行く」
一塁から肇が声を飛ばす。
「蓮! 俺たちいるぞ!」
黒崎が振り返る。
「分かってる!」
晃大が戻る。
二球目。
打った。
ファースト方向へのゴロ。
肇が前へ出る。
捕球。
黒崎が一塁カバーへ。
「蓮!」
トス。
黒崎がベースを踏む。
「アウト!」
無失点。
黒崎と肇が拳を合わせる。
「ナイス!」
「ありがとう!」
◇◇◇
三回裏。
試合が動いた。
神谷がヒット。
藤堂が送りバント。
和誠が四球。
一死一、二塁。
四番・肇。
「高橋ー!」
大歓声。
千鶴も息を呑む。
明成学院のエースが投げる。
初球。
ボール。
二球目。
ストライク。
三球目。
肇が捉えた。
カキィィン!
打球は右中間へ。
「抜けた!」
神谷がホームへ。
和誠も三塁を回る。
「回れ!」
和誠も生還。
肇は二塁へ。
二点タイムリーツーベース。
二対〇。
「よっしゃあああ!」
肇が二塁上で拳を握った。
真悠たち吹奏楽部の音が球場に響く。
眞衣たちチアリーディング部も歓声を上げる。
千鶴は拍手をしながら微笑んだ。
「ちゃんと四番の仕事してるじゃない……」
◇◇◇
四回。
黒崎が明成学院の上位打線につかまった。
連続ヒット。
犠牲フライ。
二対一。
さらに一死二塁。
一条監督がベンチを出る。
「タイム!」
マウンドへ。
黒崎が帽子を取る。
「すみません」
「謝るな」
一条監督は言った。
「よく投げた」
そしてベンチへ手を上げる。
「早川!」
「はい!」
早川慶介が走ってくる。
投手交代。
黒崎がマウンドを降りる。
肇が近づいた。
「蓮」
「五回まで行けなかった」
「十分だ」
「でも……」
「一点しか取られてない」
肇は拳を出す。
「ありがとう」
黒崎は少し悔しそうにしながらも拳を合わせた。
「後は頼んだ」
「まだ俺じゃない」
「そうだった」
二人が笑う。
◇◇◇
早川は四回のピンチを切り抜けた。
五回。
明成学院の攻撃。
早川がテンポよく投げる。
ショートゴロ。
三振。
センターフライ。
三者凡退。
スコアは二対一。
五回終了。
一条監督が時計を見る。
そして肇を見る。
「高橋」
「はい」
「予定通りだ」
肇の表情が変わった。
「行けるな?」
「もちろんです」
宮坂大智も立ち上がった。
「ようやく俺の出番か」
肇が笑う。
「待たせた」
「長かったぞ」
宮坂はファーストミットを手にする。
「ファーストは任せろ」
「頼んだ」
早川がベンチへ戻ってくる。
「高橋」
「慶介」
「一点差で渡したぞ」
肇は早川の肩を叩いた。
「最高だ」
「勝てよ」
「勝つ」
◇◇◇
六回表。
守備交代が告げられる。
『選手の交代をお知らせします』
球場が静かになる。
『ファースト、高橋君がピッチャー』
ざわっ――。
次の瞬間、大歓声が起こった。
「来た!」
「高橋だ!」
「エース登板!」
真悠が立ち上がる。
「お兄ちゃん!」
眞衣も叫んだ。
「やっぱりこれだったんだ!」
『ピッチャーに代わりまして、ファーストに宮坂君』
宮坂が一塁へ。
そして――。
背番号一、高橋肇。
ゆっくりとマウンドへ歩いていく。
吹奏楽部の演奏が始まった。
スタンドの空気が一気に変わる。
千鶴は、その姿をじっと見つめた。
「六回から……」
ようやく全てがつながった。
序盤は黒崎。
途中から早川。
そして六回から肇。
肇はマウンドの土を踏む。
晃大がボールを持って近づいてきた。
「予定通りだな」
「二対一」
「黒崎と早川がつないでくれた」
「絶対守るぞ」
肇が頷く。
「一人じゃない」
晃大が笑った。
「やっと分かったか」
「うるさい」
二人が拳を合わせる。
◇◇◇
明成学院の三番打者。
肇の初球。
ストレート。
バシィィィン!
「ストライク!」
球場が沸く。
二球目。
ファウル。
三球目。
スライダー。
空振り。
「ストライク! バッターアウト!」
「よっしゃ!」
一死。
四番打者。
フルカウント。
六球目。
低めのストレート。
打った。
センターへ。
「和誠!」
和誠が走る。
捕球。
二死。
五番。
初球を打った。
ファーストゴロ。
宮坂が捕る。
「肇!」
肇が一塁カバーへ走る。
宮坂からトス。
肇がベースを踏む。
「アウト!」
三者凡退。
肇と宮坂が拳を合わせた。
「ナイス、大智!」
「だからファースト任せろって言っただろ!」
◇◇◇
七回。
肇は明成打線を無失点。
八回。
先頭打者にヒットを許したものの、晃大との配球で後続を断った。
そして八回裏。
和誠がヒット。
肇が打席へ。
「高橋!」
一条監督が声を掛ける。
「はい!」
「追加点だ!」
「はい!」
初球。
変化球。
見送る。
二球目。
ストレート。
肇が振り抜く。
カキィィィン!
打球は左中間。
和誠が走る。
三塁を回る。
ホームイン。
三対一。
肇は二塁へ。
今日三打点。
「よっしゃ!」
応援席から大歓声。
真悠が演奏しながら笑っている。
眞衣も飛び跳ねるように応援していた。
千鶴も大きく拍手した。
◇◇◇
九回表。
三対一。
あと三つ。
肇がマウンドへ。
明成学院の応援もさらに大きくなる。
先頭打者。
三振。
一死。
次打者。
セカンドゴロ。
藤堂が処理。
二死。
あと一人。
明成学院の九番打者。
晃大がマウンドへ。
「肇」
「うん」
「あと一人」
「分かってる」
「力むなよ」
「分かってるって」
「甲子園はまだ先だ」
肇が笑った。
「それも分かってる」
晃大が戻る。
スタンドから吹奏楽部の演奏が響く。
真悠。
眞衣。
同じクラスの仲間たち。
他学年の生徒たち。
そして千鶴。
初球。
ストライク。
二球目。
ファウル。
追い込んだ。
晃大が最後のサインを出す。
肇が頷く。
振りかぶる。
投げた。
バシィィィン!
「ストライク! バッターアウト!」
ゲームセット。
三対一。
強豪・明成学院撃破。
「よっしゃああああ!」
肇が拳を握る。
晃大がマウンドへ走る。
宮坂。
和誠。
神谷。
藤堂。
桐生。
長谷川。
相馬。
全員が集まった。
黒崎と早川もベンチから飛び出してくる。
「蓮!」
肇が黒崎を呼ぶ。
「慶介も!」
二人が来る。
「ありがとう!」
黒崎が笑った。
「最後は持っていきやがって!」
早川も肇の頭を軽く叩く。
「俺たちの勝ちだろ!」
肇は大きく頷いた。
「そうだ」
そして全員を見る。
「全員で勝った!」
和誠が叫ぶ。
「二回戦突破だ!」
「おおおおお!」
◇◇◇
試合後。
応援席の前。
野球部全員が並んだ。
和誠が帽子を取る。
「応援ありがとうございました!」
全員が頭を下げる。
「ありがとうございました!」
吹奏楽部三十人から拍手。
チアリーディング部から歓声。
同じクラスの生徒たち。
他学年の生徒たち。
真悠は兄を見て笑った。
眞衣も大きく手を振る。
肇も小さく手を上げる。
そして千鶴。
目が合った。
千鶴は少し呆れたような顔をした。
――聞いてなかった。
そんな表情に見えた。
肇は苦笑する。
その直後、千鶴は優しく頷いた。
――おめでとう。
今度はそう見えた。
◇◇◇
その夜。
家へ帰った肇を待っていた千鶴の第一声は――。
「肇」
「はい」
「どうして教えてくれなかったの?」
やっぱりそれだった。
「サプライズ」
「私まで驚かせる必要ある?」
「観客全員へのサプライズだから」
「もう……」
千鶴は呆れながらも笑った。
「最初、故障したのかと思ったのよ」
「ごめん」
「でも、ちゃんと理由があったのね」
「うん」
肇はソファへ座った。
「蓮と慶介にも投げてもらいたかった」
「黒崎君と早川君?」
「二人ともずっと練習してきたから」
肇は今日の試合を思い返す。
「俺だけで勝つんじゃないって、初戦で分かったから」
千鶴は静かに聞いていた。
「蓮が四回途中まで一点」
「うん」
「慶介がそこから五回まで抑えてくれた」
「うん」
「だから六回から俺が投げられた」
千鶴は微笑んだ。
「いいチームね」
「最高だよ」
「宮坂君も?」
「大智には先に伝えた。六回からファースト頼むって」
「だから準備できていたのね」
「うん」
肇は練習ノートを取り出した。
開く。
『甲子園』
『全国制覇』
『初戦突破 ○』
『二回戦突破』
肇はペンを持った。
そして――。
『二回戦突破』
その横へ、大きな丸をつける。
千鶴が隣から見ていた。
「二つ目ね」
「うん」
「次は?」
肇は新しい行へ書いた。
『三回戦突破』
「また一つずつ?」
千鶴が尋ねる。
肇は頷いた。
「一つずつ」
まだ甲子園ではない。
地区大会優勝までは、さらに勝たなければならない。
しかし今日。
高橋肇は四番・一塁手として試合を開始し、黒崎蓮と早川慶介へマウンドを託した。
そして六回からエースとして登板。
黒崎。
早川。
高橋。
三人の投手がつないだ一試合。
三対一。
強豪・私立明成学院撃破。
甲子園への二つ目の関門を、野球部全員の力で突破した。
最後の夏は――まだ続く。
第6話「二回戦の奇策――四番・高橋肇、ファーストで始まる強豪校との一戦」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
結果は――三対一。
肇たちは甲子園出場経験もある強豪・私立明成学院を破り、二回戦突破を決めました。
今回の大きなポイントは、何といっても肇の起用方法です。
普通ならエースである肇が先発すると思われた試合。
ところが発表されたのは、
『四番、ファースト、高橋君』
という誰も予想していなかった名前でした。
真悠も眞衣も驚き、クラスメイトや他学年の生徒たちも騒然。
千鶴でさえ最初は肇が故障したのではないかと心配するほどのサプライズとなりました。
しかし、そこには明確な理由がありました。
序盤を託された黒崎蓮。
その黒崎からマウンドを引き継いだ早川慶介。
そして六回から満を持して登板した高橋肇。
「エース一人で甲子園へ行くのではない」
初戦を経験した肇が学んだことを、二回戦では実際の試合で形にしました。
黒崎と早川が五回まで試合を作ったからこそ、肇は六回以降を全力で投げることができました。
そして、肇がマウンドへ移った後の一塁を守った宮坂大智。
試合前から交代の意図を伝えられていた大智も、自分の出番を信じて準備を続け、終盤の守備を支えました。
もちろん攻撃でも、四番・肇は大きな役割を果たします。
三回には二点タイムリーツーベース。
八回には貴重な追加点となるタイムリー。
投手としてだけではなく、四番打者としてもチームを勝利へ導きました。
しかし今回の勝利は、肇自身が言った通りです。
「全員で勝った」
黒崎が投げた。
早川がつないだ。
晃大が三人の投手をリードした。
和誠が主将として仲間をまとめた。
大智をはじめとする野手陣が守った。
ベンチメンバーと十一人の女子マネージャーが支えた。
そしてスタンドでは、真悠たち吹奏楽部三十人と眞衣たちチアリーディング部、クラスメイトや他学年の生徒たちが声援を送りました。
その中には、吹奏楽部顧問として肇を見守る千鶴の姿もありました。
そして帰宅後。
肇の練習ノートに書かれていた、
『初戦突破 ○』
に続いて、
『二回戦突破 ○』
二つ目の大きな丸が刻まれました。
その下に新しく書かれた目標は――
『三回戦突破』
まだ甲子園は遠い。
地区大会優勝という最初の大きな目標にも届いていません。
だからこそ、これからも一試合ずつ。
一つずつ勝利を積み重ねていく。
高橋肇、高校三年生。
最後の夏は、まだ終わりません。
次なる三回戦へ――。
甲子園へ続く道は、さらに熱くなっていきます。




