第29話 お茶会と危険な香り2
お茶会が穏やかな空気に戻ってからしばらく、ゲラトが「あぁ、そういえば」と何かを思い出したように、ぽんと手を打った。
「先ほど珍しい茶葉を差し入れてもらっていてな。せっかくだ、この場で皆にも振る舞おう」
「珍しい茶葉ですか?」
「東方経由で手に入った品らしい。私もまだ飲んだことがなくてな」
生徒たちから期待の声が上がったのを見て、ゲラトは満足そうに頷く。そして合図を送ると、脇で待機していた給仕人がすっと進み出てきた。
「それでは一度カップをお下げします。新しい茶器をご用意いたしますので、少々お待ちください」
給仕人たちが静かに動き始め、空になったカップを一つずつ回収していく。ほどなくして、新しい茶器が各席へ運ばれ、淡い琥珀色のお茶が丁寧に注がれていった。
参加者たちが楽しそうに注がれるお茶へ興味を向ける中、カイラスは小さく息を吐くと、改めて気を引き締めるように周囲へ視線を巡らせた。
(こういう気の抜けた瞬間に、何かが起こるんだよな)
夜会から数日。何も起こらない平穏な時間が続いているせいか、張り詰めていた意識も少しずつ薄れかけている。もしかすると、ここ数日抱いていた警戒心は杞憂だったのではないか──そんな考えまで、脳裏をよぎるほどに。
こういう時こそ油断は禁物だ。そう自分に言い聞かせながら給仕人たちを眺めていると、不意に一人の姿が目に留まった。
(……ん?)
それは、給仕服に身を包んだ若い女性。
女性にしてはやや高めの身長。すらりとした細身の体格。茶を注ぐたびに「失礼いたします」と告げる、少しかすれた低めの声。
どれも珍しい特徴ではない。それなのに、頭の奥で小さな違和感が音を立てた。
(この女性、どこかで……)
何かが引っ掛かる。だが、あと一歩のところが思い出せない。
既視感、としか言いようのない感覚。姿そのものに見覚えがあるのか、それとも別の何かが記憶に触れているのか。カイラスは無意識に目を細め、もう一度その姿を追った。
その時──給仕人が身体の向きを変え、横顔が陽光に照らされる。
長い前髪の隙間、その右目の下。
そこにあった小さな泣きぼくろに、カイラスは息を呑んだ。
(っ、まさかこいつ、夜会の時の給仕人か……⁉︎)
記憶に残っていた背格好と声が、一気に目の前の女と重なった。
(くそっ、あの時は男装していたのか……!)
夜会では髪を隠し、男物の給仕服を纏っていたとは。これなら、いくら捜しても見つからなかったわけだ。カイラスも、クレオスでさえ、あの給仕人を男だと思い込んでいた。最初から探す相手を取り違えていたのだ。
だが、この場で騒ぎ立てるわけにはいかない。
相手は公爵の目を欺き、近衛の捜索からも逃げおおせた手練れ。ただの給仕人でないことは明らかだ。そんな相手を、何の備えもなく一人で問い詰めるのは危険すぎる。
何より、騒ぎにならないように内密に片付けたことを、こんな場で蒸し返すわけにもいかない。
カイラスは表情一つ変えず、静かに、そして注意深く相手の一挙手一投足を観察する。しかし夜会の時と同じく、給仕人の動きには不審な点はない。何事もない様子で一人ひとりへ茶を配り終え、最後にアフロティーナの前にカップを置く。
「失礼いたします」
「ありがとうございます」
アフロティーナは柔らかく微笑み、小さく礼を述べた。
給仕人は一切の乱れもない手つきで真新しいカップへ琥珀色の茶を注ぎ落とす。注がれたお茶は、陽光を受けて綺麗にきらめいていた。
用を終えた給仕人が一礼して静かに引き下がるのと入れ替わりに、注ぎ立ての湯気がふわりと風に乗って流れてくる。
それを何気なく吸い込んだ瞬間── 微かに漂った香りに、カイラスの心臓が嫌な音を立てた。
紅茶とも、薬草とも違う。甘ったるく、それでいて鼻腔の奥へまとわりつくような、不快感のある香り。
記憶の奥底で、その匂いを知っている自分がいた。
『殿下、何ですかこれ?』
それは幼い日の記憶。王宮の自室で資料を広げたゼノスが、小さな瓶を机へ置いた。
『これは違法薬物を押収した際に使われたものだよ。中身はもう処分済みだけれど、今後のために匂いだけでも覚えてもらおうと思ってね』
『匂いだけで分かるものなんですか?』
『種類にもよるけれど、これは比較的分かりやすいかな』
『へぇ……』
『ちなみにこの薬物。使うのはもちろん、所持しているだけでも最悪極刑だからね』
『こっわ!』
『ははっ。そう、とても怖いものなんだ。だから、この匂いがした時は警戒するんだよ』
瓶の蓋が開いた瞬間、甘ったるい鼻にへばりつくような不快な匂いに思わず顔をしかめた、かつての記憶。
忘れないよう記憶の底に刻みつけたそれと、今漂っている香りがあまりにも重なり、平静を装ったカイラスの顔が強張った。
(……似ている)
でも、そんなはずはない。こんな場所で、王立学園の教師が主催するお茶会で。所持すら禁じられるほどの違法薬物が使われるなど、あっていいはずがない。
(……茶葉か薬草の香りが偶然似ていただけか?)
そう言い聞かせながら、自分の前に置かれたカップを口元へ近づけ、立ち上る湯気を静かに吸い込む。
(……違う)
独特な香りではあるが、あの甘くまとわりつくような匂いはしない。
さりげなく反対隣の生徒のカップに意識を向けても、そこから漂うのも自分のカップと同じ香り。かつて覚えさせられた薬物と同じ匂いがするのは、アフロティーナの前に置かれたカップだけだった。
「……変わった香りがしますのね?」
アフロティーナが不思議そうに小さく首を傾げ、カップへ視線を落とした。その言葉に、カイラスの背中を冷たい汗が伝う。周囲の生徒たちは各々のお茶に夢中で、その呟きを気に留める様子はない。少し離れた席で座るゲラトも、匂いにまでは気づけていないようだった。
「はは、珍しい茶葉だから嗅ぎ慣れないのだろう。東方のものは、独特な香りがするものが多いんだ」
「ふふ、そうですのね」
アフロティーナは納得したように頷いて、微笑みを浮かべる。
(俺の思い違いか……? それとも──)
断言できるほどの確証がない。
でも、もし本当に違法薬物だったとしたら。一口でも飲ませてしまえば、取り返しのつかない事態になってしまう。
だが、自分の勘違いで動いた場合。お茶会が台無しになるだけでなく、アフロティーナや最悪ゼノスの評判までも落とす可能性だってある。
葛藤で動けないでいると、アフロティーナの華奢な指先が取っ手に掛けられた。
考える時間が足りないと焦るカイラスの視界の端で、給仕人が静かに一礼し、踵を返そうとしていた。
その去り際。
給仕人の口角が──ほんの僅かに上がる。
「──ッ!」
思考より先に体が動いていた。
──ガシッ。
カップの縁がアフロティーナの唇に触れる寸前。カイラスはその細い手首を強く掴み、動きを止めた。
「……カ、イラス様?」
あまりにも突然の行動に、アフロティーナは目を丸くして固まる。弾みで揺れたカップの中身は、相変わらず不快な匂いを漂わせていた。
戸惑いの交じる声に答えず、カイラスは無言のままアフロティーナの手からカップを取ると、静かにソーサーへと戻した。
カチャン、と陶器の重なる小さな音が響く。
「どうかしたのか?」
異変に気づいたゲラトが、不思議そうに声をかけてきた。生徒たちの視線も一斉に集まる中、背中を駆け上がる焦燥感を殺し、カイラスは深く息を吐いて平静を装う。何事もなかったかのように口元へ微かな笑みを浮かべて見せた。
「スー先生。申し訳ございませんが、少々急ぎの用事を思い出したため私たちはこれで失礼させていただきます」
声色は驚くほど落ち着いている。しかし、どこか有無を言わせぬ迫力を秘めていた。
「そ、そうか。気をつけてな」
「はい。アフロティーナ嬢、行こう」
いつものアフロティーナなら、カイラスから触れられ、さらには名を呼ばれたことに、隠しきれないほどの喜びを見せていただろう。けれど、カイラスのただならぬ様子を前にして、浮ついた気持ちはたちまち消え失せた。
手首を掴む力は、これまで感じたことがないほど強い。何より、カイラスの瞳に宿る真剣な光が、普段とは明らかに違っている。
「……」
何が起きているのかは分からない。
それでも、ただならぬことが起こっているのだと、アフロティーナは直感した。
本当なら、嬉しくて頬を緩めてしまいそうなほど近くにいるのに。今は、その胸の奥に浮かんだ喜びさえそっと押し込める。カイラスが何も言わないのなら、今は尋ねるべきではない。そう判断したアフロティーナは静かに顔を見上げ、その眼差しに宿る緊迫感を確かめるように一瞬だけ視線を重ねると、小さく頷く。
「……はい、分かりましたわ」
いつものような弾んだ声ではなかった。
ただ、カイラスを信じて従う──そんな意思だけが、静かな声音に滲んでいた。
カイラスは細い手首を掴んだまま、自分の背後に庇うようにして歩き出す。庭園にいた生徒たちは「急用だろうか」と顔を見合わせるが、大きく騒ぎ立てる者はいない。
視線を浴びながら数歩進んだところで、カイラスはふと思い出したように足を止めた。
「……あぁ、そうでした」
そこはゲラトの席の傍。カイラスはすっと身を屈めると、他の誰にも聞こえないように、その耳元で低く囁いた。
「──アフロティーナ嬢が使っていた茶器は、絶対に誰にも触らせないでください」
ゲラトの表情が僅かに強張るが、構わず続ける。
「この後おそらく殿下の近衛が参りますので、それまではそのままに」
言葉の意味を瞬時に理解したゲラトが息を呑む。しかしすぐに教師としての仮面を被り直し、小さく頷いた。
「……分かった。こちらは任せなさい」
「お願いします」
短く告げると、カイラスは今度こそ迷うことなく庭園の出口へと足を向ける。
アフロティーナは何度か不安げに口を開きかけるも、結局何も尋ねることはなく、前を歩く背をただ追いかけた。
そして花壇の小道を抜け、庭園から出ようとしたその瞬間──
ぞくり、と首筋を撫でるような悪寒が走った。
まるで鋭い刃を突きつけられたかのような冷たい視線が、確かに背中へ突き刺さる。
(……見られている)
その視線には、苛立ちと焦燥、そして隠そうともしない憎悪が滲んでいた。粘りつくような悪意は、いつまでも背中から離れない。
「……?」
背後を歩くアフロティーナもその異様な視線を感じ取ったのか、ふと足を止めて振り返ろうとした。
その瞬間──カイラスは握っていた彼女の手首をぐっと引き寄せる。
「……っ」
制するように手首を強く引かれ、アフロティーナは息を呑んだ。
カイラスは前を向いたまま、唇だけをわずかに動かす。
「……振り向くな」
それは囁きというより、息に紛れるほど小さな声。だが、その一言に込められた張り詰めた緊迫感だけは、痛いほど伝わった。
アフロティーナは震えそうになる唇を引き結ぶ。そして何も尋ねることなく、導かれるままに歩き続けた。
庭園を出るその瞬間まで、背中へ突き刺さる冷たい視線は一度として途切れることがなかった。




