第1話 婚約破棄と求愛宣言
「アフロティーナ・ヴェルシェ侯爵令嬢、この時をもって、お前との婚約を破棄する!」
その言葉は、華やかな舞踏会に静寂を生み出すには十分だった。
王立学園が主催する舞踏会は、貴族子女が集う社交の場。国内外の関係者も顔を揃える、学園でも重要な一大行事である。
そんな舞踏会は今、突如として異質な空気に包まれた。
優雅な音楽は止まっていない。しかし奏でられる旋律はもはや誰の耳にも届かず、全ての関心は一点に集まっていた。
その先にいるのは、婚約破棄を宣言したアルトバル王国第二王子、アロン・フォン・ディーテ・アルバトス。そしてその婚約者、アフロティーナ・ヴェルシェの二人が対峙していた。
本来なら舞踏会の主役とも言える二人が、まさかこんな場で婚約破棄をするなんて。一体何がどうなっているのか。
そんな周囲から突き刺さる好奇の目と、アロンから鋭い眼差しを受けるアフロティーナは一度目を瞬かせると、口元を扇子で隠しながら目を落とした。
「……婚約、破棄」
言葉の意味を確かめるように小さく呟く。そんなアフロティーナに、アロンは畳み掛けるように続けた。
「傲慢なお前には、常々飽き飽きしていた!」
「……」
「選ばれた王子であるこの俺の隣に立つ者として、お前は相応しくない!」
「……」
次々と責め立てる言葉を投げつけられるも、アフロティーナは無言のまま微動だにしない。
そんな自分の言葉など歯牙にもかけない態度に苛立ったのか、アロンはギリッと歯を食いしばった。
「……俺を見ていないその目が気に入らないッ」
「アロン殿下」
澄んだ声が、波紋のように広がる。遂に反応を示したアフロティーナに、舞踏会は緊張に包まれた。
次はどんな言葉を出すのか。
嘆きか。
怒りか。
どちらにしろ、ろくな結果にはならないだろう。
そう、誰もが思っていた。
「わたくしも、常々思っておりました」
扇子を閉じて現れた口元は、ゆっくりと弧を描き──
「あらゆる神々が何千年もの間試行錯誤を繰り返しながら創り上げた最高傑作としか思えない絶対的な美しさを持つわたくしに、殿下では相応しくないと」
一息に言い切った。
『……え?』
舞踏会に先ほどとは違う意味で静寂が生まれた。それまで辛うじて続いていた音楽もついに途切れ、指揮者ですらその手を止める。会場にいる全員が、アフロティーナの言葉に自分の耳を疑った。
さらなる困惑の種を蒔いたアフロティーナは、周りの様子など気にも留めずただ堂々とその場に佇んでいる。その毅然とした態度は、先ほどの発言に嘘偽りはないと雄弁に語っていた。
沈黙は数拍続き、やがてざわめきへと変わる。
同じく固まっていたアロンは我に返り、言葉の意味を理解すると顔を赤くし、先ほどよりも声を荒げた。
「自らを美しいとぬかすその態度が傲慢だというのだ!」
「まぁ。わたくしが美しいことはこの世の真理ですのに」
「なに世迷言をっ」
「まさか殿下にはこの美しさが分からないと? ……それはお気の毒ですわね」
二人の応酬を尻目に、会場の端では息を潜めた囁きが波のように広がっていた。
「今のはさすがに不敬すぎるんじゃ……」
「いやでも、アフロティーナ嬢の言うことも否定できないのがなぁ……」
「あぁ。だってあの人──」
『──とんっっっでもなく、美人なんだよな』
アフロティーナ・ヴェルシェ。
彼女は、自他ともに認める美しすぎる侯爵令嬢だった。
曰く、宮廷絵師が肖像画を描こうとして、その美しさを表現できず筆を折ったとか。
曰く、他国の王女があまりの美しさに感服して、女神のように崇めているとか。
曰く、その顔を一度見た者は、しばらく他の人の顔がぼやけて見えるとか。
様々な噂が尾ひれをつけて語られていた。
もちろん、そんなものは誇張だ、大袈裟だと、笑い飛ばす者もいる。しかし、実際にその姿を見た者は必ず同じ結論にたどり着いたのだ。
──この美しさはそれでは足りない、と。
そんな周りの評価に対し、本人はというと。
「美しいわたくしですもの。そのように言われても仕方ありませんわ」
否定や謙遜をするどころか、当たり前のこととして受け止めていたのだった。
「あの自己肯定感、高いとかの次元じゃないだろ」
「まぁ実際その通りだから、反論のしようがないんだけどな」
「どうしてアロン殿下は婚約破棄なんてするんでしょうね、もったいないわ」
王族相手だろうと一歩も引かない堂々としたアフロティーナの姿勢に、次第に会場の空気に変化が訪れる。
──この婚約破棄、どちらの言い分に大義があるのか。
誰もがその答えに気づき始め、アロンに向かって増え始める冷ややかな視線。分が悪くなったと察してか、不穏な空気をかき消すような怒声が響いた。
「王族である俺に対してのその態度、不敬が過ぎるぞ!」
「不敬?」
アフロティーナは小首を傾げ、ほんの少しその瞳に鋭さが増す。
「見世物のように婚約破棄をなさる、その美しくない行動の方が不敬……いいえ──」
閉じた扇子の先を、ピシッとアロンの鼻先へと突きつけた。
「──わたくしへの冒涜ですわ」
強い言葉で言い切られ、アロンは何も言い返せず悔しさを滲ませた。
アフロティーナはふぅと小さく息を吐きながら、扇子をゆっくりと口元に当てる。
──そして。
次の瞬間、ぞっとするほどの妖艶な微笑みを浮かべた。
「──ですが、好都合です」
「……は?」
「これで、全ての枷は外れましたもの」
すっとアロンから外れた視線は、会場の壁際を射抜く。アフロティーナはそこにある姿を見て笑みを深めた。
──絶対に逃しませんわ。
ほんの一瞬、獲物をとらえた捕食者のようにアフロティーナの瞳の色が濃く変わる。名残惜しげに視線を戻したアフロティーナの目に、アロンの絶望に歪んだ顔が映った。
「……な、なんで、その目……何で、その目を俺に──」
「アロン・フォン・ディーテ・アルバトス第二王子殿下」
その声に色はない。向けた微笑みは、アフロティーナなりの餞別だ。
「アフロティーナ・ヴェルシェ。この婚約破棄、喜んでお受けいたしますわ」
優雅な淑女の礼を一つ。その声色に、一切の迷いはない。
こんな状況でなければ、まるで絵画に描かれるような美しい光景だっただろう。
「それでは、ごきげんよう」
「お、おい待て! まだ話は──」
縋るようなアロンの声に、踵を返したアフロティーナが振り返ることはなかった。
こうして、一つの婚約が幕を閉じたのだった。
──しかし、この舞踏会の波乱はここでは終わらない。
衝撃的な婚約破棄の現場を、会場の壁際で他人事のように眺めている男が一人。
「……面白いものって、まさかこのことを言ってたのか?」
男の名はカイラス・リッツバーグ。リッツバーグ子爵家の次男で、数日前に四年間の留学生活を終え、帰国したばかりだった。
本当なら舞踏会に参加するつもりはなかったのに、「面白いものが見られるかもしれないぞ」と誘う腐れ縁へ引きずられ、気が付けばこの場にいる。──なお、その腐れ縁は主催側だからと早々といなくなったが。
誰かと話す気にもなれず、壁際で気配を消しグラスを傾けていたところ、件の騒ぎが起こったのだ。
「弟がこんな騒ぎを起こしたっていうのに、あの人は何やってるんだ」
何もかも見透かしたような笑みを浮かべる腐れ縁が脳裏によぎる。どうせこの騒ぎもお見通しで、高みの見物でもしてるのだろうと、カイラスは小さく溜息をついた。
(そういえば、さっき目が合った気がしたが……)
何となく騒ぎの方向を見ていた時に一瞬感じた、射抜くような強い視線。その色を見た時、ぞわりと背筋が冷えた気がしたのだが。
「ま、気のせいだな」
きっと自分の勘違いだろう。そう思っていた──この時までは。
「……ん?」
そろそろ帰るかと、カイラスが一歩踏み出そうとした時、突如周囲がざわりと揺れる。
ふっと前を見ると、そこにはつい先ほど王子と婚約破棄の騒動を繰り広げた令嬢、アフロティーナがこちらへと近づいてきているのに気がついた。
なぜ自分の方へ向かってきていると分かるのか。とてつもなくギラついた強い眼差しで、カイラスを凝視しているからだ。
(……待て、ちょっと待てっ)
優雅な歩き方ではあるが、その迫力たるや。周りの人たちは自然と道を開けるように、左右に分かれていく。
その道は、真っ直ぐカイラスへと続いていた。
(おいっなんであんたら避けるんだよ!)
必死に近くの人に視線を送るも、関わりたくないとばかりにサッと目を逸らされる。背後は壁、左右にも人がいて逃げ場がない。頭に腐れ縁の顔が浮かぶが、絶対に助けてくれないとすぐにその姿を頭からかき消した。
──カツン。
やけにはっきりと、その音だけが耳に届く。
──カツン。
一歩。
──カツン。
また、一歩。
距離が縮まるごとに大きくなるヒールの音に、カイラスの喉がゴクリと鳴る。逃げ場のない現実に、何がどうしてこうなったと頭をフル回転させるが答えが出ることはない。
──カツン。
最後の音が鳴る。
ついにカイラスの目の前に、アフロティーナが立ちはだかった。
「──ッ」
アフロティーナの姿を正面から見たカイラスは息を呑む。その存在は、暴力的なまでに美しい造形をしていた。
シャンデリアに照らされ眩しく光る白金色の髪。
ルビーのように煌めく情熱的な赤い瞳。
パールのように輝く肌、しなやかでありながら目を奪う曲線を描く体つき。彼女を形成する全てが、常識という枠から逸脱していた。
──あぁ。確かにこれは、『美しい』という言葉では足りない。
思わず見惚れるカイラスの視線を受けるアフロティーナは、はぁと熱を孕んだ吐息を漏らした。そして、恍惚とした表情で告げる。
「──やっと、見つけましたわ」
「……は?」
脈絡のないその言葉に、間の抜けた声が出たのは仕方ないだろう。
見つけた、とは。
(あぁ、なるほど。人違いか)
きっと別の誰かと間違えて、自分のもとへ来たのだと結論づけた。なぜなら帰国したばかりの自分が、彼女に探される理由がない。昔会ったことはあるが、親しい間柄でもなかったのだから。
そうと分かれば話が早い。いい加減、この目立ち過ぎている状況から脱却しなければと。そう、思っていたのだが。
「えーっと、ヴェルシェ嬢。誰かとお間違いを」
「カイラス様」
しっかりと名指しされ逃げ道は消えた。
しかも、その声にはとろりとした甘さが含まれ、その瞳はカイラスを焦がさんばかりに力強く見つめてくる。
(なんだこれ……こんなの、まるで、)
ありえない想像に辿り着きそうになるのを、そんなわけないと理性が訴える。
でもなぜ、自分の名をそんなに愛おしそうに呼ぶのだろうか。彼女とは、留学前にパーティーやお茶会で少し会っていた程度。親しいどころか、最後に会った時なんて──
「覚悟なさいませ」
「…………は?」
その瞳は、ギラリと鮮烈な色を乗せる。
そして美しい表情、美しい仕草、美しい角度。己が最も美しく映える完璧な姿で、カイラスへと宣誓した。
「必ずあなたに──わたくしを選ばせますわ!」
ついに舞踏会は、完全に沈黙した。
誰もが目を見開き、耳を疑い、言葉を忘れた。
アフロティーナの宣誓は、愛の告白のようでありながらも、獲物へ向けられた宣戦布告のようでもあったからだ。
そんな宣誓を真正面から受けたカイラスはというと。
「………………は?」
ただただ、思考が止まっていた。
婚約破棄直後の侯爵令嬢が。
一直線に向かってきたかと思えば。
勝手にわけの分からない宣誓をしてきた。
なんでだ。意味分からない。しかも、周囲から突き刺さる視線が、あまりにも痛い。
何一つ状況が飲み込めない。だが、自分がとんでもないことに巻き込まれたことだけは理解できた。
凍りついたような沈黙の中。正面で美しい笑顔を向けてくる元凶に、カイラスはようやく引き攣った顔で口を開いた。
「…………何で俺なんだよ⁉︎」
そんな悲痛な叫びに、アフロティーナはふふっと愛らしい少女のような笑顔を見せた。
この日一つの婚約が終わり──そして、一つの求愛劇が幕を開ける。




