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婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


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第9話:夜の水位標

 水位というものは、昼より夜に動く。

 上流の山で昼に降った雨が、夜半にここへ届くからだ。だから私は新しく立てた水位標を、寝る前に見回ることにしていた。白い石灰で目盛りを塗った、私の秘蔵っ子たちである。

 夜の川辺は、昼とは別の生き物だ。

 葦のざわめき。蛙の合唱。水面を渡る風の湿り。そのぜんぶの底に、水の流れる低い音がある。目をつぶって耳だけで聞くと、川の機嫌は昼よりよほど正直に分かる。


 その晩、蛇行部の水位標には、先客がいた。

 黒い外套が、角灯も持たずに立っていた。


「あら。閣下も夜のお散歩ですの」

「……散歩ではない。見回りだ」


 閣下は目盛りから視線を外さずに言った。


「昼に北の尾根で雲が湧いた。ああいう日は、夜半にここが指二本上がる」

「まあ。正解ですわ、指二本」


 私は角灯を掲げて目盛りを照らした。ぴたり、指二本。

 思わず笑ってしまった。この人は測っていないのに、当てる。二十年ぶんの敗け戦で、体に水の暦が刻み込まれているのだ。


「閣下、毎晩ここへ?」

「…………」

「マルタさんに聞きましたの。雨の晩は、お眠りにならないと」


 沈黙が、川音より長く続いた。

 やがて閣下は、目盛りのいちばん上——古い洪水の高さに刻まれた、小さな傷を指でなぞった。


「……この傷は、わたくしの目盛りではありませんわね。どなたが?」

「俺だ。ここに標を立てる前から、この岸の柳に、水の高さを刻んでいた。柳が枯れたから、あんたの標に移した」


 いちばん上の傷。あの高さの水が、いつの水なのか。

 訊きかけて、やめた。指のなぞり方が、あまりに静かだったからだ。


「水位が上がる晩は、眠れん。眠っている間に、水が来る気がする」

「……ずっと、お一人で見張っていらしたのね」

「見張っていても、勝てんがな。水相手に、剣は抜けん」


 自嘲でも冗談でもない、ただの報告のような声だった。

 私は隣に並んで、同じ目盛りを見上げた。


「勝てますわ」

「……」

「剣では勝てません。でも、目で勝てます。閣下は水の癖を、この領の誰より知っていらっしゃる。それは二十年ぶんの観測記録ですのよ。——今夜からその記録、治水事業が高値で買い取りますわ」

「……買い取る、とはどういう」

「明日から、夜の見回りはわたくしもご一緒します。二人で見れば、観測は倍。閣下の夜番は、今夜から敗け戦ではなく仕事ですの」


 閣下は、変な音を立てて咳き込んだ。

 それから長い間、目盛りを睨み——ぽつりと言った。


「……そうか」


 この人の「そうか」には何通りもあるが、これは照れ隠しの「そうか」だった。半月も並んで働けば、それくらいは聞き分けられるようになる。


 *


 それから、夜の水位標は二人の持ち場になった。

 閣下は無口な観測仲間だったが、その口数の少なさが、夜の川辺にはちょうどよかった。

 風の湿り。石の音。目盛りの数字。ぽつり、ぽつりと交わす言葉は、たいてい水の話ばかり。

 一度だけ、水以外の話になった。


「……あんたは、なぜ水の技師なんかに」

「王都の令嬢が、ですの?」

「ああ。刺繍でも詩でも、いくらでもあったろう」

「そうですわねえ。——昔、守れなかった川があるんです。とても遠くに。悔しくて、悔しくて、それきり他のことが、ぜんぶどうでもよくなってしまいましたの」

「……遠く、とは」

「とても、遠くですわ」


 閣下はそれ以上訊かなかった。この人は、人の胸の水深を測るのが上手い。深いところは深いままにしておいてくれる。

 ある晩、夜露が下りて肩が冷えた。何か羽織るものをと思ったときには、黒い外套がもう肩に載っていた。


「……閣下が冷えますわ」

「俺は冷えん。慣れている」

「まあ、強がり」

「……そうか」


 これは、取り合う気のない「そうか」である。

 外套は特大で、火の入った竈みたいに暖かくて、かすかに鉄と革の匂いがした。水位標の白い目盛りが、月明かりの下でやけに眩しかったのを覚えている。

 観測記録に書くことではないので、書かないけれど。


 *


 王都から手紙が届いたのは、その数日後だった。

 差出人はリゼ。実家で私付きだった侍女で、除籍騒ぎの後も文をくれる、数少ない王都の味方である。

 手紙の前半は、他愛ない近況。私の除籍で暇を出されたリゼは、いまは下町の仕立屋で働いているという。達者な字で、達者に生きている様子が書いてあって、少しだけ胸の詰まりが取れた。

 後半に、気になることが二つ書いてあった。


 一つ。王都は長雨が続き、ヴェルガ上流域の水嵩が上がっていること。私が止めた東地区の水路改修は、あれきり誰も引き継いでいないこと。工事半ばで放り出された水路は、掘りかけの溝が土手の腹に口を開けたまま、雨のたび泥を溜めているという。

 半端に触った水は、触らない水より質が悪い。あの土手の下に、三百世帯。

 文字の上を、指でなぞる。私にできるのは、もう、それだけだった。


 二つ。——聖女ミレーヌ様が、このごろ足繁く水神教の大聖堂に通っておられること。


『お茶会よりも聖堂がお好きなご様子。信心深いことは結構なのですが、奥様(と、まだお呼びします)の嫁ぎ先がアルドナート領に決まった晩も、聖女様は真っ先に大聖堂へ馬車を出されたとか。妙な符合もあるものだと、厩の者が申しておりました』


 手紙を持つ指が、止まった。

 断罪の夜。「水の豊かな土地を、わたくしがお願いしたのです」と涙ぐんだ聖女様。

 その足で、水神教の大聖堂へ。


〈……わたくしをこの領へ寄越したがったのは、王家? それとも——教団?〉


 考えすぎかもしれない。ただ、原因の書かれていない変化を、技師は嫌う。

 私は手紙を文箱の底へしまい、帳面の「宿題」の頁に、一行書き足した。


 *


 その晩も、水位標の前に黒い外套はいた。

 けれどいつもと様子が違った。閣下は目盛りではなく、北の山の稜線をじっと見ていた。


「閣下?」

「……雪の消え方が、早すぎた。土が水を溜め込んだまま、夏に入る」


 琥珀色の目が、こちらを向いた。


「次の雨は、去年より大きい」


 二十年ものの観測記録が、そう言うのなら。


「……工程を、組み替えますわ。六号分水路は後回し。先に堤の弱いところを締めて、遊水地の口を広げます。溜める側を先に仕上げれば、掘り残しがあっても水は殺せますもの」

「人手はどうする」

「明日の朝礼で募ります。夜番を二交替にして——閣下、しばらく夜はわたくしと半分ずつですわよ。倒れられては困りますの、この領でいちばん高価な土嚢ですから」

「土嚢……?」

「こちらの話ですわ」


 私は角灯を掲げ、水位標の目盛りをあらためて目に焼き付けた。

 風はまだ、静かだった。静かすぎるくらいに。


観測記録、追記——閣下の外套は火の入った竈なみ。以上、観測です。

それから王都に、妙な符合がひとつ。……妙な符合を、技師は偶然と呼びません。

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