第10話:水神の裁きと、ただの水
大司祭オズウェルド師の行列は、街道の埃まで青く染めて来た。
青い天蓋の馬車が一両。供の僧が二十人。聖歌を唱えながら進む行列に、道端の村人たちは、逆らいようもなく膝を折った。三十年ぶん、二十年ぶんの死者の名前を吊るした膝は、青い法衣の前で勝手に折れるのだ。
そして馬車から降り立った大司祭は、コルネオ師を五回りほど上等にした人物だった。
銀糸の法衣。彫像のような立ち姿。豊かな白髭の奥で、常に微笑んでいる口元。膝を折った村人ひとりひとりに目を合わせ、老婆の手を取り、子どもの頭に手を置く。
本物の、大物である。
搾る側の人間ほど、撫でるのが上手い。
「此度は審問ではございません。……対話ですよ、対話」
聖堂に領民を集めて、大司祭様はやわらかく言った。対話と呼ばれる審問ほど、性質の悪いものはない。
祭壇の前に、私は一人で立たされた。傍聴席の最前列には閣下、その後ろにドナル親方、ガレン、ピノの顔も見える。
「セラフィーナ殿。あなたは川の流れを、人の手で曲げられた」
穏やかな声が、聖堂の高い天井に響いた。
「水は水神ヴァーリス様の御体。その流れは神慮です。人が語ってよいのは祈りまで。流れを曲げるは、神の御心を曲げるということ。……ご自分が何をなさったか、お分かりかな」
声は責めていない。諭している。それがこの人の恐ろしさだった。怒鳴る司祭からは村人は逃げられるが、諭す大司祭からは逃げられない。
聖堂の空気が、じわりと重くなる。傍聴席のピノが、泣きそうな顔でこちらを見ていた。
だから私は、できるだけ軽やかに答えた。
「はい。掃除ですわ」
「……ほう?」
「塞がっていた昔の流れを開け、水を元の道へお帰ししました。人の都合で御体を狭い堤に押し込めていたのは、むしろこの百年のほうかと」
聖堂が、さざめいた。
オズウェルド師の微笑みは、揺るがなかった。
「言葉がお上手だ。ですが理屈で神は測れません。現にこの地は、毎年神罰の水に打たれてきた。民の不信心ゆえです」
「不信心、ですか」
「左様。聖典に曰く——『水は神の涙。人の罪の重さだけ、天より落ちる』。この地に落ちる涙の多さこそ、罪の多さの証にございます」
村人たちが、俯いた。
罪。この人たちの罪とはなんだろう。沈む土地に生まれたこと? 逃げずに耕し続けたこと?
——腹の底で、静かに火が点いた。けれど怒りで審問には勝てない。勝てるのは、いつだって記録だ。
私は用意してきた帳面を開いた。
「では、記録をご覧に入れます。この領の古い水害の記録ですわ。百年より前、ヴェルガの氾濫は三年に一度。しかも『水引きて後、泥肥えて麦よく育つ』——恵みとして書かれています」
「……それが何か」
「毎年の大水になったのは、この百年のこと。大司祭様の理屈ですと、百年前を境に、この領の民はそろって急に不信心になったことになりますわね。人の罪の重さだけ天から落ちるのでしたら、この百年、涙の相場だけが急に上がったことになります。——それとも」
私は帳面から顔を上げ、微笑みの奥の目を、まっすぐ見た。
「水神様のほうが、急にお怒りっぽくおなりになった理由を、教団はご存じですの?」
一瞬。
ほんの一瞬だけれど、私は確かに見た。
彫像のような微笑みの、目の奥がひやりと動いた。それは怒りではなく——警戒の色だった。
「……では伺うが、セラフィーナ殿。貴女は、神を否定なさるか」
うまい問いだった。是と言えば異端、否と言えば教義に屈服。どちらへ転んでも、縄の輪が締まる。
私は、どちらへも転ばないことにした。
「まさか。わたくしは水神様の、良い氏子のつもりですわ。——神様のお仕事を、減らして差し上げているんですもの。溺れる者がいなければ、お救いになる手間もございません。祈りは感謝だけで済みます。神様も、取り立てより感謝のほうが、お好きだと思いますけれど」
傍聴席の後ろのほうで、こらえ損ねた笑いが、ひとつ、ふたつ。
大司祭の白髭が、初めてかすかに震えた。
「……古い帳面など、いくらでも書き換えられますな」
声は穏やかなまま、氷点下だった。
「議論はやめましょう。神罰か、恵みか。証を立てるのは人ではなく水。——じきに雨季が参ります。次の大雨で、この地の水路とやらが神慮に適うものか、あなたの首と共に、はっきりいたしましょう」
「望むところですわ。水は嘘をつきませんもの」
「ええ、ええ。……つきませんとも」
大司祭様が片手を挙げた。閉会の合図——の前に、低い声が聖堂に割って入った。
「ひとつ、言っておく」
閣下だった。黒い外套のまま、ゆっくりと立ち上がる。
「この工事は、アルドナート領主の名で行っている。冒涜と言うなら、この人ではなく、まず俺を破門しろ」
「……辺境伯閣下。お戯れを」
「戯れは言わん。それから大司祭殿、帰りの道は東の街道を使え。西の橋は、うちの治水責任者が架け替えたばかりでな。——冒涜の橋は、渡りたくなかろう」
聖堂のどこかで、ぶっ、と噴き出す音がした。ガレンだったと思う。
オズウェルド師は微笑みを崩さぬまま一礼し、法衣を翻した。その裾に隠れるように、コルネオ師がこちらを睨みつけて続く。
扉の前で、大司祭様は一度だけ振り返った。
「次の大雨で、神罰は下ります。……そのとき民が誰を石で打つか、楽しみにしておりますよ」
青い行列が聖堂を出ていくとき、私は気づいた。
来たときは道端の全員が膝を折った。帰りは——半分ほどが、立ったまま頭だけを下げていた。
膝と頭の間の、そのわずかな距離。それが今日の審問で動いた、本当の数字だった。
*
聖堂を出ると、外は白い夏の陽射しだった。
待ち構えていたガレンと人足たちが、拳を振り上げて出迎えてくれる。「首は継続審議」と伝えると、なぜか宴でも始まりそうな騒ぎになった。継続審議とは、要するに負けなかったというだけなのだけれど、この土地では負けないことが、そのまま祝い事なのだ。
「——怖いお人ですね」
帰り道、マルタさんが身を震わせた。
「コルネオ様の百倍、怖うございます。あの方、怒っていらっしゃらないのに」
「ええ。あの方が怖いのは、そこじゃないの」
私は聖堂を振り返った。
「あの方、わたくしが『百年前』と言った瞬間だけ、目の色が変わった。神罰の話でも、冒涜の話でもなく——百年前」
書庫の記録。ドナル親方の五代前。そして、教団の警戒の色。
全部、同じ場所を指している気がしてならない。この領の百年前に、何かがある。誰かが、それを知られたくない。
「宿題が、また増えたわ」
見上げた空に、鰯雲が出ていた。
あの雲は、天気の変わり目の使いだ。大司祭様の言う「次の大雨」は、そう遠くない。
審問結果——引き分け。工事続行、首は継続審議。
それにしても「百年前」に反応する教団とは。……神様のお怒りにも、台帳がありそうですわね。




