第11話:全部は、守れない
その朝、北の空は嫌な色をしていた。
鉛色の雲が山並みの向こうで層をなし、風は生ぬるく、川面の匂いがいつもより濃い。水位標の目盛りは、まだ動いていない。動いていないのに、肌がざわざわした。
兆しは、空だけではなかった。
蟻の列が、兵舎の壁を上へ上へと引っ越していた。燕が、地面すれすれを切るように飛んだ。川原の石の隙間から、いつもは夜にしか出ない沢蟹が、昼日中にぞろぞろと這い出していた。
生き物は、観測記録を持たないかわりに、外れない。
「閣下。あの雲——」
「ああ。……来る。三十年で、二度か三度の型だ」
夜番仲間の観測記録が、私の見立てと重なった。
大雨ではない。嵐だ。
*
城の広間に、村長たちと班頭を集めた。卓の上には領内の図面。私はその前で、この仕事でいちばん嫌いな作業をしなければならなかった。
「正直に申し上げます。——全部は、守れません」
広間が静まり返った。
「分水路は五か所開きました。ロディ、カセル、川下の三村は、水を逃がして守り切れます。城下も保ちます。ですが」
図面の一点を、指で押さえる。川向こうの、低地の村。
「オルム村。ここだけは、間に合いませんでした。分水路は掘りかけ、堤は古いまま。あの嵐の水量なら——村は、浸かります」
広間の空気が、氷を呑んだように固まった。
他の村長たちは、誰もオルムの村長の顔を見なかった。見られなかったのだと思う。守られる側の顔で、守られない側の隣に座っている。それがどういう座り心地か、この土地の人々は骨身で知っている。
「そんな……!」
悲鳴を上げたのは、オルム村の村長だった。
「うちの村は捨てるのか! 魔女の水路とやらは、よその村ばかり守って——」
「捨てません」
声が硬くなるのを、抑えられなかった。
「人は、一人も死なせません。嵐の前にオルム村は全員、丘の教会堂へ移っていただきます。家財は二階と屋根裏へ上げ、家畜は高台へ。種籾だけは城の蔵でお預かりします。——ですが、家と畑は水に浸かります。それは、防げません」
「かんたんに言うな! 浸かった家がどうなるか、あんたに分かるか!」
「分かります」
分かる。前世で、何百軒も見た。泥を掻き出す人の背中も、乾かない畳の匂いも。
それでも言わなければならない。
「守れないものを『守れる』と申し上げるのが、いちばん人を殺しますの。半端な望みを残すと、人は家財に未練を残して逃げ遅れます。……オルム村は今年、家を諦めてください。そのかわり、人を一人も欠けさせずに冬を迎えて、来年の雨季までに、村ごと造り直します。治水の費えの最初の取り分は、オルムの再建に回します。この場で約束いたしますわ」
村長は、拳を震わせて俯いた。誰も、何も言わなかった。
やがて、上座の閣下が立ち上がった。
「……皆、聞いたとおりだ。守る順番は、この人が決めた。裁可したのは俺だ。恨むなら俺を恨め」
閣下は図面を一瞥し、それから、静かに続けた。
「三十年前から、この領の嵐は『何人死んだか』を数える行事だった。今年初めて『家が何軒浸かるか』の勘定をしている。——それがどれだけの違いか、年寄りは分かるはずだ」
カセル村の古老が、深く、深く頷いた。
会議は終わった。村長たちは各村へ散り、班頭たちは持ち場へ走った。
それからの一日半、領じゅうが同じ方向に動いた。
カセル村は樽と綱を、ロディ村は松明と薪を出した。千里眼の親父は昼のうちに全部の水位標を回って目盛りを読み上げ、ドナル親方は石張りの仕上がったばかりの水門に、念押しの楔を打って回った。
「わしの石は保つ。保たなんだら、化けて出ていい」
冗談の下手な人ほど、こういうときに冗談を言う。私は笑って、頷いておいた。
*
人のいなくなった広間で、私は一人、図面を睨んでいた。
オルム村。掘りかけの分水路。あと十日あれば。いいえ、あと五日でも。
「……未練だな」
振り向くと、閣下がまだそこにいた。
「あんたの言い方を借りれば、それは技師の未練だ。違うか」
「……ええ。未練ですわ。守れない家を前にして、平気でいられる技師は、おりません」
前世の私は、その未練ごと水に呑まれた。今度の私は、未練を勘定に変えて、それでも守れる側を確実に守る。それが正しい。正しいのだけれど、正しさは胸の重さを軽くしてくれない。
閣下は窓辺に立ち、北の空を見た。
「……昔、あんたが来る前だ。俺は『水と戦うな』と言うつもりだった。戦えば、必ず負ける。この領で水に挑んだ者は、皆そうやって折れていった」
琥珀色の目が、こちらを向いた。
「今は違う。——俺の剣は、あんたの図面に貸す。嵐の夜は、俺を好きに使え。土嚢でも、伝令でも、なんにでもだ」
「閣下を土嚢に……それはずいぶん、高価な土嚢ですこと」
「戦場より安い」
閣下は戸口で足を止め、振り返らずに付け足した。
「……オルムの村長には、俺からも頭を下げておいた。あんた一人に、下げさせる頭じゃない」
冗談なのか本気なのか分からない顔でそう言って、閣下は広間を出ていった。
高価な土嚢は、しかし、確かに心強かった。
*
夕刻までに、オルム村の移送が始まった。
荷車の列。抱えられた鶏。背負われた祖母。教会堂へ上る坂に、村人の列が続く。
丘の教会堂では、年寄りの堂守がひとりで扉を開け放ち、床に藁を敷いて待っていてくれた。コルネオ師の息のかかった聖堂とは別の、村付きの小さなお堂である。「水神様は、雨宿りを断らんですよ」と堂守は笑った。同じ神様でも、仕える人でずいぶん顔が変わる。
泣いている子どもに、ピノが自分の宝物の石を見せて気を引いていた。
「これはね、字が書いてある石なんだ。すごいだろ。おれの村もこの前まで毎年沈んでたけど、いまは沈まないんだ。おまえの村も、来年はそうなるからな」
受け売りの慰めだったけれど、子どもは泣きやんだ。受け売りは、信じている者の口から出るとき、いちばん効くのだ。
夜、最後の点検を終えた私は、丘の上から領地を見渡した。
五つの分水路。締め直した堤。水を待つ遊水地。九十日ぶんの仕事が、月のない闇の中で息を潜めている。
背後で、重いのに静かな足音がした。
「……眠れんのか」
「あら、お互い様ですわ」
「俺のは年季が違う」
「では今夜だけ、わたくしも年季に入れてくださいまし」
しばらく、二人で黙って闇を見た。それは不思議な時間だった。怖いものを待つ夜なのに、隣に同じものを見ている人がいるだけで、怖さの目方が半分になる。
西の空で、稲光が瞬いた。まだ遠い。けれど確実に、近づいている。
空は——嫌な緑色を、していた。
避難完了、オルム村百三十一名。移送中の怪我人、ゼロ。
明日の夜、嵐が参ります。九十日と、二十年と、五代分の仕事の答え合わせです。




