第8話:石工ドナルの意地
「石が要りますわ」
四十日目の図面会議で、私は宣言した。
分水路の入口は、水がいちばん暴れる場所だ。木杭と柴の仮押さえでは、本物の雨季の水に一冬も保たない。入口の喉元を石で張り、行く行くは開け閉めのできる水門を据える。それでようやく「治水」になる。
「石なら川原にいくらでもある」
「積める人がいませんの。石はただ置くと転がる玩具ですけれど、正しく積むと百年保つ壁になりますのよ。閣下、この領に石工は?」
「……一人だけいる」
閣下の歯切れが、珍しく悪かった。
「城下のはずれに、ドナルという親方が。腕は王都の石工にも劣らん。だが——」
「だが?」
「偏屈だ。それと、水の仕事は二度とやらんと公言している」
*
ドナル親方の仕事場は、城下のはずれにあった。
塀代わりに積まれた石材の山。使い込まれた玄能と鑿が、大きさの順に壁へ吊るされている。地面には木っ端ひとつ落ちていない。道具と現場を見れば、職人の腕は九割わかる。
——これは、本物だ。
仕事場の奥、炉のそばに、岩から削り出したような髭面の親方が座っていた。手の中で小石を転がしながら、こちらを見もしない。
「帰んな」
用件を言い終える前に、それだけ返ってきた。
「よそ者の嬢ちゃんに石の積み方をどうこう言われる筋合いはねえ。ましてや水の仕事だと? 二度とやらんと決めてる」
「理由を伺っても?」
「……昔、堤の石張りを請けた。わしの仕事は保った。だが隣の土手が切れて、村がひとつ流れた。石が保っても人が死ぬんじゃ、水の仕事に意味はねえ」
親方は手の中の小石を、ごり、と握り込んだ。
「水が引いたあと、わしの石張りだけが、ぴかぴかのまま残っとった。流された連中の家の上にだ。……あれ以来、井戸と竈しか積まん。決めたことだ」
ああ、と思った。
この人も、負け方だけ覚えてしまった人だ。この土地の水は、腕のいい者ほど深く噛む。
「帰んな。嬢ちゃんの水路ごっこに付き合う石は、うちにはねえ」
「では、ごっこかどうか、これを見てから仰って」
私は図面を炉端に広げた。分水路の入口、石張りの設計図。
親方は見ない——ふりをして、ちらりと見た。それから、もう一度見た。髭の奥の目が、すっと細くなる。
「……嬢ちゃん。この入口の石、どう積むつもりだ」
「布積みですわ。目地を通さず、水下に向けて六分の勾配。裏には拳ほどの栗石をたっぷり詰めて、水の圧を逃がします。表の石が保っても、裏の水を殺さないと石張りは腹から破れますもの」
「……水返しは」
「天端にひと並び、反りをつけて。波の舌を空へ折り返します。それから親方、隣の土手の話でしたら——今度の石張りは、端を土手の中へ三尺呑み込ませます。石と土の継ぎ目は、いちばん弱いところですから、いちばん深く手当てを」
隣の土手が切れて村が流れた、とこの人は言った。石と土の境目から水が回った、典型の破れ方だ。だからそこを先に言った。
炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
ドナル親方は、化け物でも見るような顔で私を見ていた。
「……なんだと? 布積みの勾配を、水抜きの理屈を——あんた、どこでそれを覚えた」
「本で読みましたの」
「嘘をつけ。そんな本は、この王国のどこにもねえ」
親方は立ち上がると、仕事場の奥から古びた道具箱を引きずり出した。蓋の裏に、木炭で描き継がれた図があった。
石の積み方。勾配の取り方。裏込めの栗石。
——私の図面と、同じだった。
〈……どういうこと?〉
鳥肌が立った。
布積みも裏込めも、前世の教科書で覚えた技術だ。汐里が生きた国で、何百年もかけて磨かれた石積みの理屈。それがなぜ、辺境の石工の道具箱の蓋裏にあるのか。
「じいさまの、そのまた先代から伝わる積み方だ。わしで五代目になる」
「どなたが、最初に……?」
「知らん。ただ、家伝の口上だけは決まってる」
親方は、ぶっきらぼうに言った。
「『石は水に勝てん。勝たんでいい。水の行きたい道を、石で教えてやれ』——五代、そう伝わってる」
水と戦わない。水を導く。
それは力任せの堤ではなく、私が引いた図面と同じ思想だった。五代前——数えれば、およそ百年前だ。
百年前。書庫の記録の「宿題」と、同じ数字。
「……嬢ちゃん、あんた何もんだ」
「治水責任者ですわ。それ以上でも以下でもございません。——親方。この積み方に見覚えのあるわたくしと、この積み方を五代守ったあなたと、二人がかりなら、今度は隣の土手ごと保たせられます。人も死なせません」
親方は長いこと、道具箱の蓋裏を睨んでいた。
それから急に立ち上がると、仕事場の隅の石の山を顎で指した。
「……嬢ちゃん。最後にひとつだけ試す。あの山から、水門の要に据える石を選んでみろ」
私は山を眺め、歩いて回り、一つの石の前にしゃがんだ。大きくも、形が良くもない。けれど目が詰まって、叩くと音が澄んでいて、水に一番長く噛まれる場所に置いても腹の割れない石。
「これですわ。器量は悪いけれど、働き者ですもの」
「————は」
親方は、髭の奥で短く笑った。この仕事場に来て、初めて聞く笑い声だった。
「器量は悪いが働き者、か。わしが女房を選んだ理屈と同じだ」
「まあ。おかみさんに言いつけますわよ」
やがて玄能を取ると、親方は腰の帯に差した。
「……銭は要らん。出来高でいい」
「まあ。よろしいの?」
「勘違いすんな。嬢ちゃんのためじゃねえ。この積み方が水門を張れるなら、じいさまたちの五代分の意地が、やっと形になる。——それだけだ」
*
翌日から、現場に石の音が加わった。
こん、こん、と玄能が石を叩く音は、不思議と人を安心させる。逃げていた人足も、一人、二人と戻り始めた。石工の親方が加わった現場は「本物」に見えるのだと、班頭のガレンが笑った。
親方の仕事は、見ていて飽きなかった。石の山をひと睨みして、迷わず一つを掴む。向きを変え、座りを見て、こん。それだけで石が「そこに生えていたような顔」になる。
いちばん熱心な見物人はピノで、三日目には小石で真似を始め、五日目には「筋がいい」と半人前扱いの雑用を仰せつかっていた。親方は口が悪いくせに、教えたがりなのだった。
夕暮れ、積み上がったばかりの石張りを撫でながら、親方がぽつりと言った。
「……あんたの図面と、うちの家伝。他人の空似にしちゃ、できすぎだ」
「ええ。できすぎですわ」
百年前、この土地で何かが変わった。川の暴れ方も。石の積み方も。
偶然にしては、揃いすぎている。
夜、川面を渡る風はもう夏の匂いがした。
雨季まで、五十日。
石工一名、加入。五代分の意地つき。
それにしても——百年前のこの領には、いったい誰がいたのでしょう。




