第7話:人手がないなら、作ればいい
着工三日目にして、治水事業は早くも壁に突き当たった。
人手である。
「六か所の分水路に、堤の締め直し。雨季まで九十日で仕上げるには、二百人は要りますわ」
「村の男衆は畑がある。掘り仕事に回せるのは、農閑の年寄りと半人前だけだ」
執務室の卓上で、閣下と私は同じ帳面を睨んでいた。集まった人足、十四人。うち三人はピノより小さい。
金で雇おうにも、この領に流れ者は寄りつかない。毎年沈む土地に、出稼ぎに来る物好きはいないのだ。
「……いないなら、作ればいいのですわ」
「人足をか。畑から引き剥がすのは許さんぞ」
「畑は剥がしません。閣下、王国の戦は二年前に終わりましたわね。閣下の下で戦った兵の皆さんは、いまどちらに?」
閣下の眉が、ぴくりと動いた。
「……戦が終われば、兵は用済みだ。傷を負った者、村が沈んで戻る家のない者——街道筋で日雇いにあぶれているという話は、聞く」
「その方々です。それから、水害で村を捨てた流民の方々。——雇いましょう。日当銀一枚に、朝夕の二食付き。道具は貸与、寝る場所は古い兵舎。腕のいい者は班頭に上げて日当を倍に」
閣下は長いこと私を見ていた。
「……兵どもは、荒れている者も多い。それでも使うか」
「荒れるのは、仕事と飯がないからですわ。両方こちらにございます」
*
閣下の名で街道筋に触れを出すと、十日で人が来た。
最初はぽつぽつと。次の十日で、堰を切ったように。
片腕の弓兵。膝を痛めた槍持ち。子連れの流民の夫婦。合わせて百八十と七人。兵舎の前に並んだ顔ぶれは、正直に言えば、揃って目つきが悪かった。
迎える支度は、三日で整えた。
古兵舎の寝台と屋根は先着組の人足が直し、マルタさんは城じゅうの毛布を狩り尽くし、私は兵舎の壁に大きな板を打ち付けて、約束事を漆喰で書き出した。
一、日当は銀一枚。日暮れに必ず払う。
一、朝夕二食。雨の日は道具の手入れで半日ぶん。
一、怪我人の薬代は領持ち。
一、殴り合いは給金半減。盗みは追放。
読めない者のために、ピノが毎朝、板の前で読み上げ係を務めた。約束は、紙より石より、毎日同じ声で繰り返されることでいちばん固くなる。
その目つきが変わる瞬間を、私は何度も見ることになる。
たとえば初日の朝礼で。
「本日の作業割り当てを申し上げます。第一班、旧河道の藪払い。第二班、杭打ち。第三班——」
「おい、女が仕切るのか」
だみ声が飛んだ。元兵士の、熊みたいな大男だった。周りがにやにやと成り行きを見ている。
答えたのは、私ではなかった。
「そうだ。文句があるか、ガレン」
いつの間にか、閣下が資材の陰から出てきていた。大男が飛び上がる。
「へ、閣下!? なんで閣下がこんな泥っ原に」
「俺の職場だからだ。言っておく。この工事の指揮官はこの人だ。——俺の剣より、この人の鍬に付け。損はさせん」
戦場の黒狼が真顔で言うと、元兵士たちの背筋がいっせいに伸びた。軍隊式というのは、ときどきとても便利である。
たとえば、最初の給金日に。
銀貨を受け取った片腕の弓兵が、列の途中で動かなくなった。
「……日当が、出た」
「明日も出ますわ。明後日も。雨の日は無理をさせないかわり、道具の手入れで半日ぶん」
「おれは、片腕だぞ。戦のあと、どこも雇っちゃくれなかった」
「杭の位置決めに、目のいい方が要りますの。弓兵の目は、両腕より値打ちがありますわ」
弓兵は銀貨を握りしめたまま、しばらく突っ立っていた。翌朝からその人は、誰より早く現場に立って、遠くの杭の傾きを次々に言い当てる「千里眼の親父」になった。人は仕事を与えられると、あだ名まで立派になるらしい。
たとえば、毎日の昼餉に。
マルタさん率いる炊き出し隊の大鍋からは、根菜と豆と塩豚を煮込んだ汁が湯気を上げた。井戸端に腰掛けた人足たちが、黙々と、しかし確実に三杯ずつ平らげていく。
「働いて、食って、寝る場所がある。……こりゃあ、夢か何かか」
「夢なら醒めないでほしいもんだ」
流民の子どもたちが、ピノを隊長に泥だらけで杭運びを手伝う。誰かが古い戦歌の節で土搗き唄を歌い出す。
「——どんと来い、どんと来い、水神様でもどんと来い」
「うちの姫様ァ、水よりつよい」
誰が作ったのか知らないが、たいへん不敬な唄である。不敬なので、聞こえなかったことにして、拍子だけこっそり数えた。土搗きの拍子が揃うと、仕事は倍進むのだ。
工事は、みるみる形になっていった。二十日目には、六か所のうち二か所の分水路が口を開けた。
夜、見回りの帰りに兵舎の前を通ると、灯りの下で車座になった男たちが、木切れで地面に水路の絵を描いて言い合っていた。明日の段取りの話だった。給金の使い道でも、昔の戦の自慢でもなく。
隣を歩いていた閣下が、ぽつりと言った。
「……あいつらの、あんな顔は初めて見る」
「明日やることがある顔、ですわね」
「ああ。……戦のあと、俺が返してやれなかった顔だ」
〈段取り八分、仕事二分。……前世の親方の口癖、こっちの世界でも現役だわ〉
*
三十日目の朝。
様子がおかしかった。朝礼に並んだ顔が、まばらに欠けている。数えると、十一人足りない。
「班頭、どうしたの」
「それが……昨夜、町はずれに司祭様が来て」
言いにくそうに、班頭のガレンが頭を掻いた。
「説教をぶったんでさ。『神罰の水路を掘る者は、雨季の最初の水で溺れて死ぬ』と。『魔女に銀貨で魂を売った者の名は、水神様が全部覚えておられる』と。……女房持ちの連中が、怖気づいちまって」
コルネオ師。告げ口の次は、流言か。
人は水では死ななくても、言葉では簡単に働けなくなる。前世でも、現場をいちばん止めたのは、いつも噂だった。
「セラさま、どうするの……?」
ピノが不安そうに袖を引く。私は帳面を閉じて、にっこりしてみせた。
「どうもしないわ。掘り続けるだけ。——ただし、賭けはさせていただきましょう」
「か、賭け?」
「ええ。今日から雨季の最初の水まで、休まず掘った人には、日当に色をつけます。それから怖くなって休んだ人も——戻ってきたら、何も聞かずに元の班に入れます。叱りもしません」
「え? 叱らねえんですか。逃げた奴を」
「怖いのは、恥ではないもの。水を怖がれる人のほうが、現場では長生きしますのよ。……ただし司祭様の言う神罰が外れたときは、皆で笑って差し上げましょうね。盛大に」
ガレンが、にやりと笑って頭を掻いた。その笑い方だけで、この賭けの胴元がどちらか、現場には伝わったはずだ。
北の空を見る。山のかぶりの雪は、もうほとんど残っていない。
雨季の最初の水は、遠からず来る。
その水で溺れるのが誰なのか。水路なのか、流言なのか。
水は嘘をつかない。つくのは、いつだって人間だ。
人足百八十七名、うち本日欠勤十一名。欠勤理由——神罰。
給金でも雨でもなく、噂で現場が止まるのは、どの世界も同じですのね。




