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婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


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第6話:好きにしろ

 城の大広間に、領じゅうの村長と古老が集まった。

 日に焼けた顔、節くれだった手、そして一様に硬い表情。壁際にはマルタさんと家人たち、上座には黒い外套の閣下。私は、その全員の前に立っていた。

 味方の顔も、ないわけではない。末席にはロディ村の村長と、あの古株の婆が陣取って、腕組みでこちらを睨んで——いや、あれは睨んでいるのではなく、応援している顔らしい。分かりにくい土地柄である。

 廊下の柱の陰からは、ピノが顔を半分だけ出してこちらを見ていた。今朝、中庭の模型に最後の水路を刻みながら、あの子は言った。「セラさま、負けないでね」と。

 負けられない理由が、また一つ増えたわけだ。


「——以上が、三年の計画ですわ。一年目に水を逃がし、二年目に水を治め、三年目に水を使います」


 図面を掲げての説明を終えると、真っ先に立ち上がったのは、川上のカセル村の古老だった。ひときわ白い髭の、岩みたいなお爺様である。


「儂は反対じゃ」


 太い声だった。


「わしらは水神様と百年折り合うてきた。堤を直し、駄目なら逃げ、また直す。それがこの土地の作法じゃ。よそから来た娘っ子が、ひと月も住まんうちに川をいじくり回す——祟りが怖うないのか」

「司祭様も言うとった。流れを曲げるは冒涜じゃと」

「ロディ村は運が良かっただけかもしれん」

「だいたい、三年もこの土地におる気か? 三月で逃げるに、わしは麦一俵賭けとる」

「わしは二俵じゃ」


 あちこちで頷きが連なる。ついでに、賭けの倍率まで上がっていく。私の滞在期間は、この領でいちばん人気の賭場らしい。

 諦めは、この土地では信仰よりも古い宗教だ。正面から説教しても勝てない。

 だから私は、頭を下げた。


「ごもっともですわ。言葉で信じていただこうとは思いません。——皆様、中庭へどうぞ。水に直接、証言させますので」


 *


 中庭には、昨日ピノと二人でこしらえた「領地」があった。

 粘土と砂で作った、縦横十歩の縮小模型。ヴェルガの川筋、蛇行部、各村の位置には小さな木の家。塞がった旧河道も、葦の代わりに藁を詰めて再現してある。


「これがアルドナート領。そしてこの樽の水が、雨季のヴェルガですわ」


 まず、樽の栓を半分抜く。

 水が川筋を走り、蛇行部で膨れ、堤を越えて木の家を押し流した。古老たちが唸る。毎年見ている光景が、そこにあった。


「これが今。堤を高くすれば、と思われるでしょう。では堤を倍にします」


 粘土を盛り、堤を高くして、もう一度水を流す。

 水は今度は溢れない——溢れないまま水嵩を増し、下流のいちばん弱いところで堤を破って、村を二つまとめて呑んだ。


「堤だけ高くすると、水は我慢比べに勝ったほうを全部持っていきます。次は、こちら」


 三度目。藁で塞いだ旧河道を開け、遊水地の窪みを二つ作って、同じ量の水を流す。

 水は蛇行部で二手に分かれ、旧河道を滑り、窪みで膨らみを休ませ——木の家は、ひとつも動かなかった。

 それどころか、水は最後、砂の上に静かな網の目を残して、模型の海へ抜けていった。暴れる水と同じ量の、働く水だった。


 中庭が、静まり返った。

 古老たちは、しゃがんだまま動かない。誰かの膝が、砂の上でじゃりりと鳴った。

 彼らは水の恐ろしさなら、私の百倍知っている。だからこそ、いま見たものの意味も、私の百倍わかるのだ。


「……もういっぺん」


 カセル村の古老が、しゃがれた声で言った。


「もういっぺん、流してくれんか」


 私は都合五回、水を流した。古老たちは砂にかじりつくように水の行方を追い、しまいには自分の村の位置を指さして「ここの窪みはもっと深うできる」「うちの裏の谷は使えんか」と言い出した。

 勝負あり、だった。


「ロディ村の連中に聞いた。あの晩、水がまるで生き物みたいに葦原へ帰っていったと」

「祟りなんぞ、あるものかい。うちの婆様の代には、川はもともとあっちだったんじゃ」

「水の恵みの方、うちの村はいつから掛かってくれる」


 最後に、ロディ村の婆が杖を突いて進み出た。


「言うとくがの、皆の衆。わしらの村は、もう是じゃ。あの晩、一軒も流されなんだ。……七十年生きて、初めてじゃった。あの朝の村の顔を、あんたらにも見せてやりたいわい」


 七十年で、初めての朝。

 それがこの計画の、いちばん正直な見積書だった。私の図面十枚より、婆の一言のほうがよほど強い。


 水の恵みの方。

 魔女、の声は、少なくともこの中庭にはもうなかった。


 *


 広間に戻ると、マルタさんが人数分のお茶と、蜂蜜の焼き菓子を出してくれた。

 交渉ごとのあとの甘味は正義である。私が二つ目に手を伸ばしかけたとき——上座の閣下が、皿からごく自然な手つきで菓子を取るのが見えた。

 一つ。

 間を置いて、するりと、二つ。

 二つ目は袖の内に消えた。あまりに手慣れた消え方だったので、私は見なかったことにした。戦場の黒狼にも、補給は必要なのだろう。


「——閣下。皆様の是非は、お聞きのとおりですけれど」


 私が水を向けると、広間がしんとした。

 閣下は立ち上がり、卓の上の契約書を引き寄せた。私の書いた、判押し欄が白紙のままの雇用契約書。

 羽根ペンが走る。署名。そして、辺境伯の印璽が、どん、と捺された。


「好きにしろ」


 顔を上げた琥珀色の目が、まっすぐ私を見た。


「水路も、堤も、人足の割り振りも、あんたの図面のとおりに動かす。金の工面は俺の仕事だ。——それから」


 閣下は一拍おいて、少しだけ視線を外した。


「……出て行け、とは、もう言わん」

「あら。雨季の前に、と仰せでしたのに」

「言うな。判は捺した」


 広間に、今度はあたたかい笑い声が起きた。カセル村の古老までが髭を揺らしている。

 その古老が、よっこらしょ、と立ち上がった。


「……娘さんよ。わしは反対と言うた。あれは取り消さん。年寄りの反対くらい踏み台にできんようでは、水になんぞ勝てんからの」


 岩みたいなお爺様は、そう言って、にやりと笑った。


「じゃが、うちの村の窪みはわしがいちばん知っとる。遊水地とやらを掘るときは、わしを呼べ」


 それが、カセル村流の「よろしく頼む」であるらしかった。

 私は契約書を胸に抱えて、貴族の礼ではなく、現場の頭を下げた。


「謹んで。——アルドナート領治水責任者、セラフィーナ、只今より着工いたします」


 *


 その晩、私は自室の窓から北の山を見た。

 雪のかぶりが薄くなっている。あれが解け、前線が居座れば、本物の雨季が来る。

 指を折って数える。九十日。


「九十日で、六か所……」


 道具が足りない。人手が足りない。石を積める職人がいない。ないない尽くしの帳面を前に、しかし私は笑っていたと思う。

 水位は平常。空は快晴。

 戦は、ここからだ。


契約成立。治水事業、本日始動。

雨季まで、九十日。——最初の敵は人手不足です。さて、どこから兵を集めましょう。


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