第5話:三年で、王国一の穀倉にしてみせる
「マルタさん、この城に書庫はあって?」
「書庫と呼べるかどうか……古い塔の物置に、紙の山なら」
紙の山は、本当に山だった。
埃をかぶった帳簿、ネズミにかじられた証文、湿気で波打った羊皮紙。ピノと二人、くしゃみをしながら掘り進める。発掘作業である。
半日かけて、この領の懐事情が見えてきた。
税の帳面は、年を追うごとに薄くなっていた。
穀物を買い入れた証文の束は、年を追うごとに厚くなっていた。
人別の帳面をめくれば、離村の記録がぽつり、ぽつりと増えていく。「一家五人、北の親類を頼り退去」「水入りにつき田を返上」——文字は事務的で、事務的であるほど重かった。
そして支出の頁の隅に、毎年必ず同じ項目があった。
水神教への寄進。祈祷料。慰霊の布施。
沈む土地から、教団は毎年きっちり集金していた。堤の修繕費の、ざっと三倍を。
「……祈りのほうが、石より高いのね」
思わず声に出たら、隣で帳面の埃を払っていたピノが、きょとんとした顔をした。
水に沈む領地は、民を食わせる麦すら、よそから買っている。その金を捻り出すために、閣下は王国の戦のたびに剣を貸して、傭兵まがいの働きをしてきたらしい。
〈戦場の黒狼って、二つ名じゃなくて出稼ぎの屋号だったのね〉
「ピノ、こっちの古いほうの束を——あら」
いちばん底から出てきたのは、革紐で綴じられた水害の記録だった。代々の家令が書き継いだものらしい。灯りを引き寄せて、指でたどる。
読み進めるうち、指が止まった。
「……おかしいわ」
「セラさま?」
「昔のヴェルガは、こんなに暴れていない」
古い頁の水害は、三年に一度、五年に一度。しかも「水引きて後、泥肥えて麦よく育つ」——恵みの氾濫として書かれている。
当時の家令は、こんな一文まで残していた。
『ヴェルガの水は暦のごとし。春の終わりに緩み、夏至の後に満ち、実りの前に引く。民、水を恐れず、水と共に耕す』
暦のごとし。つまり、読める水だったのだ。
それが、ある時期を境に一変する。毎年の大水。急な出水。「川鳴り一夜にして水来たる」。前触れなく膨れ、暴れ、引かない水。家令の筆致からも、余裕が消えていく。
境目は、およそ百年前。
川の性格が、ひと晩で変わったみたいに。
「百年前に、何があったの……?」
山の崩れ? 川筋の変わり? それにしては記録がない。原因の書かれていない変化は、技師がいちばん嫌うものだ。
この領は、ただ水に負けているのではない。
百年前から、沈み方がおかしい。
私はその頁に葦の葉を挟み、胸の帳面に「宿題」と書きつけた。
*
雨上がりの午後、私は図面を三枚仕上げた。
一枚目、水を逃がす。ロディ村でやった旧河道の復活を、領内の六か所へ広げる。
二枚目、水を治める。逃がした水を受ける遊水地と、破れ堤の要所だけの締め直し。
三枚目、水を使う。治めた水を導いて、泥に沈んでいた氾濫原を田畑に変える。
「ねえピノ。水はね、敵じゃないの。行き場を失って暴れているだけ。道を作って、部屋を作って、仕事を与えれば——ここは王国でいちばん水に恵まれた土地になるわ」
「王国でいちばん……」
「泥はよく肥えているし、水は涸れない。沈まなくなった氾濫原というのはね、天下一の畑なのよ」
ピノの目がまん丸になる。読者ならぬ聞き手がこの顔をしてくれるなら、図面は正しく描けている。
「三年で、ぜんぶ終わるの?」
「終わらないわ。三年で、始まるの」
「はじまる?」
「水路も堤も、作って終わりじゃないのよ。毎年手入れして、水と話し合って、直し続けるの。だから村の皆に、水路の読み方と直し方を覚えてもらいます。わたくしがいなくなっても回るようにしておくのが、本当の仕上げ」
「セラさま、いなくなっちゃうの!?」
「……ものの喩えよ」
ピノがあんまり悲愴な顔をするので、話の腰が折れてしまった。喩えです、と三回言って、やっと信じてもらえた。
*
夜、私は執務室の扉を叩いた。
差し出したのは図面三枚と、もう一枚——一晩かけて書き上げた、契約書だった。
「雇用契約書、ですわ」
「……なんだと?」
「わたくしを、アルドナート領の治水責任者としてお雇いくださいまし。名目はなんでも結構。給金は要りません。そのかわり、復田した畑の実りから一割を、治水の費えに回していただきます」
閣下は契約書を手に取り、眉間の皺を深くした。当然だ。嫁いできた(はずの)女が、婚礼の話をすっ飛ばして雇用契約を持ってきたのだから。
「成功の当てもなく雇えるか」
「当てならロディ村に。ひと晩の突貫工事であれなら、三年あれば領が変わります」
「……三年」
「ええ。三年ください。——この領を、王国一の穀倉にしてみせますわ」
沈黙が落ちた。
暖炉の火が爆ぜる。閣下は図面の一枚目を、二枚目を、三枚目を、時間をかけて眺めた。水路の線を追う目は、真剣そのものだった。だからこそ、次の言葉は静かだった。
「……夢物語だ。この土地は、百年、誰がやっても沈んだ」
「存じています。その百年こそが手がかりですの」
私は書庫の記録の話をした。百年前を境に、川の暴れ方が変わっていること。原因がどこにも書かれていないこと。
閣下は黙って聞いていた。それから、図面ではなく私の顔を見て、問うた。
「……分からんな。あんたは王都で生まれて、王都で捨てられた。この土地に、義理はないはずだ。なぜ、そこまでする」
答えは、考えるまでもなかった。考えるまでもないことだけ、人はすぐに言葉にできる。
「水で人が死ぬのを、運命と呼びたくないからですわ」
昔——とても遠い昔、私はそれを呼ばされた側だった。仕方なかった、天災だった、誰のせいでもなかった。そういう言葉の便利さも、その言葉で蓋をされた悔しさも、知っている。
「それだけです。義理より、よほどしつこい理由ですのよ」
それから私は、卓の上の図面を、指で揃えた。
「沈み方に理由があるなら、直し方もございます。水は嘘をつきません。……百年ぶんの嘘をついてきたのは、たぶん、人間のほうですわ」
閣下の指が、契約書の端で止まっていた。
長い、長い沈黙のあと。
「——明後日、村長どもを城に集める」
顔を上げた琥珀色の目は、まだ是とも否とも言っていなかった。
「領民が主役の絵空事だ。領主の一存では決めん。村の連中が是と言うなら、その紙に判を捺す。否と言うなら……雨季の前に、王都へ送り返す」
「けっこうですわ。公平な審判ですこと」
一礼して退出しながら、私は胸の内で袖をまくった。
二日後、聴衆は領じゅうの村長と古老。演目は、水の道の講釈一席。
負けられない集会が、決まった。
窓の外、雨上がりの夜空に、細い月が出ていた。
水位は平常。決戦は、明後日。
本日の発掘成果——薄い税収、厚い借金、百年前の「宿題」ひとつ。
それから、白紙の判押し欄がひとつ。二日後、ここに判をいただきます。




