第4話:魔女と呼ぶ人、恵みと呼ぶ人
城の台所口に、朝から貢ぎ物が積まれるようになった。
卵が六つ。泥のついた芋がひと籠。干した川魚がひと束。名前のない贈り物たちだ。マルタさんがほくほくと数えている。
「まあまあ、今朝は蜂蜜まで。奥方様、すっかり人気者ですねえ」
「あら、どなたからかしら」
「名乗りませんとも。この土地の者は、礼を言うのが下手なんでございます。水に何もかも持っていかれる土地では、物をあげる習わしが育ちませんから」
だから、名無しの卵なのだ。受け取り方も、お礼の言い方も、お互いにまだ手探りである。
「半分だけね、人気者は」
半分は、本当に人気者らしい。ロディ村の年寄りたちは私を「水の恵みの方」と呼び始めたと、ピノが教えてくれた。
もう半分は——。
「あのね、セラさま。川向こうの連中や、隣のオルム村じゃ……『水の魔女』って」
「あら、いいじゃない。魔女」
「よくないよ! 魔女は火あぶりにされるんだよ!」
「されないわよ。わたくしを燃やしたら、次の洪水を止める人がいないもの」
冗談のつもりだったが、ピノは笑わなかった。
子どもは知っているのだ。人の口が、水と同じくらい怖いものだと。
*
その「怖いもの」は、五日目に村へやってきた。
青い法衣に銀の刺繍。水神教の巡回司祭——コルネオ師。丸い顔に丸い腹、揉み手をしながら歩く姿は商人のようだが、目だけが値踏みをする金貸しのそれだった。
司祭は村の広場に人を集めると、開口一番こう言った。
「嘆かわしい! この村は、水神ヴァーリス様の流れに鍬を入れたそうですな!」
村人たちが身を縮める。
「川は水神様の御体。その流れを人の手で曲げるは、冒涜の中の冒涜! 三十年前のカセルの大水を忘れたか。二十年前の、あの夜を忘れたか。あれこそ水神様の御怒り——このままでは次の大水で、この村ごと呑まれましょうぞ」
村人たちの顔から、みるみる血の気が引いていく。
三十年前。二十年前。この土地の人々は、皆どこかの年号に死者の名前を吊るしている。司祭はその名前の吊るされた場所を、正確に叩いてまわるのだ。
「……ですが、ご安心なされ。清めの祈祷を捧げれば、御怒りも鎮まるというもの。祈祷料は、ひと家につき銀三枚」
〈出た。災害のあとに寄付を集りに来る手合い、前世にもいたわ〉
銀三枚。この村の稼ぎなら、ひと月分の口減らしに等しい。
うつむく村人たちの間から、私は進み出た。
「司祭様、勉強不足でお恥ずかしいのですけれど、ひとつ教えてくださいまし」
「な、なんですかな、あなたは」
「祟りは、いつ参りますの?」
コルネオ師の揉み手が、止まった。
「先の大水で、この村は一軒も流されませんでした。祟りどころか、百年ぶりの上出来です。水神様がお怒りなら、ずいぶん気の長いお方ですのね」
「そ、それは……そう、それこそ水神様のご慈悲! 御怒りの中にも慈悲をもって、村をお守りくださった証拠ですぞ!」
「まあ。では祈祷料は要りませんわね」
「な——」
「だってご慈悲は、もういただいてしまいましたもの。後払いの祈祷に銀三枚は、二重取りと申しますのよ」
村人の誰かが、ぶふ、と妙な音を立てた。
「へ、屁理屈を! 流れを曲げた事実は消えませぬぞ!」
「曲げてなどおりませんわ」
私は村の裏手、葦原の帯を指した。
「あの低地は、昔の川の道。村のご老人なら覚えていらっしゃるはず。水神様の御体とおっしゃるなら、あちらこそ由緒正しい御体。わたくしどもは塞がっていた神様の道を、お掃除しただけですの」
広場が、しんとした。
最初に噴き出したのは、ロディ村の古株の婆だった。
「ちげえねえ! わしが娘っこの頃は、川はあっちを流れとった!」
「道の掃除で祟られてたまるかい」
笑い声が広がる。コルネオ師の丸い顔が、ゆでた蛸の色になった。
「……よろしい。よろしいですとも。このこと、大司祭オズウェルド様に、しかと報告いたしますぞ。よそから来た女が、神の水を私しておると!」
青い法衣が、埃を立てて去っていった。
広場に、ほっとした空気が流れる。けれど私は見ていた。笑った村人の何人かが、去っていく法衣に向かって、袖の下でこっそり手を合わせたのを。
笑いながら、拝む。この土地の人々にとって水神教は、憎い取り立て屋であると同時に、三十年ぶん、二十年ぶんの死者の名前を預けてある寺でもあるのだ。
敵は司祭ではない。人々の中に住んでいる諦めと、それを寄進に換える仕組みのほうだ。
「セラさま、すごい! 司祭様が蛸になった!」
「ピノ。ああいうのは、喜びすぎてはだめよ」
「どうして?」
「蛸は、墨を吐くの」
勝った——ことにはならない。ああいう手合いは、負けた分だけ上へ告げ口をする。次はもっと大きいのが来る。前世の役所仕事で、嫌というほど学んだ理屈だ。
*
夕方、堤の上で水位を測っていると、背後で草を踏む音がした。
振り向かなくても分かる。この数日で覚えた足音だ。重いのに、静かな足音。
黒い外套。閣下だった。
夕陽がヴェルガの水面を橙に染めて、引き終わった水が、何事もなかったような顔で流れている。閣下はしばらく、その水面を眺めていた。
「……ひとつ、訊く」
閣下は水面を見たまま言った。
「雨も、雲も、川の音も、皆が見ていた。俺も見ていた。だが誰も、三日後に村が沈むとは言えなかった。——なぜ、あんただけが分かった」
「水は嘘をつかないの」
考えるより先に、口癖が出た。
「水位も、石の音も、雲の脚も、ぜんぶ本当のことしか言いません。人間の側に、聞く気があるかどうかだけ——閣下?」
振り向いた閣下の顔から、色が抜けていた。
琥珀色の目が、私を見ているのに、私ではない誰かを見ている。そういう目だった。
「……その言葉を、どこで」
「え?」
「いや——いい。忘れろ」
黒い外套が翻った。大股に丘を下りていく背中は、逃げている、という言葉がいちばん近かった。
戦場の黒狼が、ただの口癖から。
「マルタさん。閣下って、何かお嫌いな言葉でもあるの?」
夜、繕い物を届けてくれた女中頭に、それとなく訊いてみた。
マルタさんは針を持つ手を止め、少しだけ迷ってから、言った。
「……旦那様は、昔から、雨の晩はお眠りにならないのです。今夜も、水位標のところにいらっしゃるはずですよ」
それ以上は、教えてもらえなかった。
マルタさんは繕い物を置いて、扉口で一度だけ振り返った。
「……奥方様。旦那様のことを、どうか、気長に」
「あら。わたくし、治水責任者ですのよ。気の長さでは、川と張り合える女ですわ」
女中頭は、ふふ、と笑って出ていった。
窓の外は、星も見えない曇り空。丘の下の川辺に、小さな灯りがひとつ、揺れていた。
あの灯りの主は、今夜も水位標の前で、たったひとりの見張りを続けている。何を数えながら見張っているのか、私はまだ知らない。
知らないけれど——あの見張りを、いつか終わらせてあげたいと思った。水位を見るのが怖くない夜を、あの人に。
本日の収支——蜂蜜ひと壺、味方の笑い声たくさん、敵の告げ口ひとつ。
それから、謎がひとつ。「水は嘘をつかない」……あの人は、どこかでこの言葉を聞いている。




