第3話:一軒も、流させない
翌朝、閣下は動いた。
「ロディ村を空にする。年寄りと子どもから丘へ上げろ。家財は諦めさせろ」
命令は迅速で、的確で——そして、敗北に慣れきっていた。
「お待ちになって。人を逃がすのは大賛成です。でも家まで諦めるのは早すぎますわ」
「水が来るのだろう。あんたがそう言った」
「ええ、来ます。ですから、水の行き先をこちらで決めるのです」
私は昨日描き上げた図面を、執務机に広げた。
ヴェルガの蛇行部。ロディ村。そして村の裏手を走る、葦に埋もれた帯状の低地——旧河道。
「昔の川の抜け殻が、村の裏に残っています。今の川面より一段低い。ここに水を逃がします」
「……水路を掘る気か。三日でか」
「全部は掘りません。入口をひと口ぶん切り下げて、出口の葦の詰まりを抜くだけ。あとは水が自分で道を広げます。水はご立派な働き者ですのよ」
閣下は長いこと図面を睨んでいた。琥珀色の目が、線を一本ずつなぞっていく。
「——だめだ」
やがて、低い声が言った。
「水に逆らって、この領は負け続けた。賭けに乗って村ごと失うより、家を捨てて人を守る。それがここの戦い方だ」
「逃げるのは負けではありませんわ。でも閣下、毎年逃げる土地に、人は根を張れません」
答えはなかった。ただ、退出する私を呼び止めて、閣下はひとことだけ付け足した。
「……勝手にやる分は、止めん」
止めない。この土地に来てから聞いた言葉のうち、いちばんの餞別だった。
*
ロディ村の返事は、もっと手厳しかった。
「水神様の川に鍬を入れるだと? 祟りで村ごと流されちまう!」
「お貴族様の遊びに付き合ってる暇はねえ。荷物をまとめるんで忙しいんだ」
集まった村人は、誰も鍬を取らなかった。
彼らは怠け者なのではない。壁の泥の線の数だけ負けてきて、諦め方だけが上手になってしまったのだ。
——人が水で死ぬことを、運命と呼ぶ。
私はそれが、この世でいちばん嫌いだ。
「けっこうですわ。では、わたくしひとりで掘ります」
村はずれの鞍部に立ち、ドレスの袖をまくって、鍬を振り下ろした。一打。二打。掌がすぐに火ぶくれになった。前世の体はもっと使えたのに、令嬢の体ときたら。
荷物をまとめる手を止めて、村人たちが遠巻きに見ていた。
「……お貴族様が、土を掘ってるぞ」
「気がふれたか」
「ほっとけ。どうせ三日で王都へ帰る」
けっこう。見ていればいい。
言葉で動かない人たちは、動いている背中でしか動かない。それも前世で覚えた理屈だ。私は返事のかわりに、三打目を振り下ろした。
「セラさま! おれも掘る!」
最初に来たのはピノだった。泣き虫のくせに、こういうときだけ誰より度胸がいい。
次に、ピノの母親が来た。咳の治りかけの体で、鍋いっぱいの湯を提げて。
日暮れには、若い衆がふたり。「どうせ流される村なら、掘って流されても同じだ」と笑いながら。
二日目の朝には、七人になっていた。
掘る場所は選び抜いた。入口は、昔の破堤跡——一度水が通った場所は、地面が覚えている。幅は大人の歩幅で三歩ぶんだけ。そのかわり底を川の流れに向けて開き、水が乗ったら自分で削り広げるように勾配をつけた。
出口の葦は、根ごと焼いて抜いた。煙が上がるたび、村人が遠巻きに囁いた。魔女だ、と言った声も、聞こえなかったことにした。
昼は掘り、夜は松明で測った。ピノの母上が運んでくれる湯で火ぶくれを洗い、若い衆と塩の握り飯をかじる。手伝わない村人も、いつからか握り飯だけは差し入れてくるようになった。義理は買わないが、飯は買う。この土地の付き合い方が、少し分かってきた。
三日目の夕方、北の空が墨を流したように黒くなった。
川鳴りが、変わった。ごろごろではない。どう、どう、という太鼓の音だ。
「総員、丘へ! ピノ、あなたもよ!」
「セラさまは?」
「水路の番人がいなくちゃ、水が迷子になるでしょう」
*
夜。
丘の上には村人たちが身を寄せ合い、堤の上には私と、志願の見張りが数人。松明が風にあおられ、影が伸び縮みする。
雨はここには降っていない。降っていないのに、川は膨れ続けていた。上流の雨が、いま届いているのだ。闇の中で、水の匂いがどんどん濃くなる。土と、草の根と、遠い山の匂い。
ごう、と川が鳴った。
水は、来た。
川面がせり上がる。松明の灯りの中、濁流が牙を剥く。堤が唸る。水しぶきが頬に届く。冷たい。前世の最後の夜と、同じ冷たさだ。
握った拳を、開いた。怖がるのは、あとでいい。
来い。
こっちだ。
切り下げた入口に、最初のひと筋が乗った。細い水の舌が、旧河道へ滑り込む。
「行った! 水が行ったぞ!」
若い衆の声。だが喜ぶのは早い。水はまだ膨らむ。入口が水を呑むほどに、流れが土を削り、口が広がる。計算どおり。計算どおりだけれど——ごっ、と嫌な音がした。
流木だ。根っこごと流れてきた大木が、入口に横倒しに噛んだ。
「詰まる……!」
水が入口の縁を乗り越え、あらぬ方へ舌を伸ばし始める。あちらは村の側——だめだ。
「鳶口! 左の根っこに掛けて、流れに乗せて回すの! 引き抜こうとしないで、水に働かせて!」
泥に膝まで沈みながら、三人がかりで綱を引く。手が滑る。雨が目に入る。
めき、と木が鳴った。
回った。
大木は入口の縁をこすりながら旧河道へ呑まれ、つかえていた濁流が、どうっと後を追った。
その瞬間を、私は生涯忘れないと思う。
村を呑むはずだった水が、葦原の古い道を思い出して、一斉にそちらへ駆けていく。百年迷子だった水が、家に帰っていく。
*
朝。
雨は上がっていた。
丘から村人たちが降りてきた。誰も口をきかなかった。
村は、そこにあった。
床下まで泥を舐めた家はある。鶏小屋はひとつ傾いた。けれど——一軒も、流されていなかった。
「……ある」
誰かが言った。
「家が、ある。……おれの家が、ある」
最初の嗚咽が聞こえた。
それが引き金だった。誰かが駆け出す。鶏小屋の様子を見て笑い出す者、床下の泥を見て、それでも敷居を撫でて泣く者。ピノの母上は、湯気の立つ鍋を抱えたまま、その場にしゃがみ込んでいた。
昨日まで「気がふれた貴族」を遠巻きにしていた人たちが、代わる代わる、堤の上を見上げていく。
私はといえば、堤の上にへたり込んでいた。ドレスは泥の色で、火ぶくれは潰れて、髪は葦の葉だらけ。令嬢の姿ではなかったと思う。
ピノが泥を跳ね飛ばして駆けてきた。
「セラさま! ほんとに、ほんとに村が沈まなかった!」
「言ったでしょう? ——水は、嘘をつかないの」
顔を上げると、堤の下に黒い外套が立っていた。
閣下だった。夜通し村の避難を差配していたはずの人が、泥だらけの水路の入口と、旧河道を滑っていく水と、へたり込んだ私とを、順に見た。
琥珀色の目が、何か言いかけて——結局、何も言わなかった。
朝焼けが、引いていく水の面を金色に染めていた。
水位は、指四本ぶん下がり始めていた。
被害報告——流失家屋、ゼロ。死者、ゼロ。火ぶくれ、十指。
水路はひと晩でわたくしの背丈より深く育ちました。働き者ですこと。




