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婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


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第2話:三月で逃げ帰ると笑われた土地

 アルドナート辺境伯の城は、氾濫原を見下ろす丘の上に建っていた。

 城そのものは古いが頑丈だ。問題は、丘を降りたところに広がる城下だった。

 どの家の壁にも、横一線の泥の跡が残っている。一段、二段、三段——年ごとの水の高さが、縞模様になって刻まれていた。いちばん上の線は、私の背丈より高い。

 通りには、戸板を打ち付けたままの空き家が目立った。逃げた家だ、と御者が言った。物売りの声もなく、すれ違う人は皆、泥を落とす暇のない長靴で、目だけでこちらを見た。よそ者を珍しがる目ではない。「この人はいつ逃げるのか」を値踏みする目だった。

 風に、水の匂いが濃い。町全体が、乾く暇を知らない匂いだ。


〈水位の記録が壁に書いてあるようなものね。……ありがたいけれど、ありがたくないわ〉


「ようこそお越しくださいました、奥方様」


 出迎えてくれたのは、恰幅のいい女中頭のマルタさんだった。出迎えは彼女と、数えるほどの家人だけ。もっとも、荷物も数えるほどなので釣り合いは取れている。


「奥方様はやめてくださいな。まだ婚礼どころか、ご当主のお顔も見ていないの」

「……その、旦那様は」


 マルタさんが言いよどんだとき、大広間の扉が開いた。


 黒い外套の男が立っていた。

 背が高い。肩幅の広い、戦うための体。腰の剣は飾りではなく、鞘の革が白く擦り切れている。歳は聞いていたとおりなら二十七——「戦場の黒狼」、ジーク・アルドナート辺境伯。

 琥珀色の目が、私を一瞥した。


「歓迎はしない」


 低い声だった。


「雨季が来る前に出て行け。王都には俺から書状を出す。……ここは、人の住む土地じゃない」

「まあ。ご当主自ら、領地の悪口ですの」

「悪口ではなく、水位の話だ」


 水位、と来たか。少し、話が早い人かもしれない。


「では水位の話をしましょう。城下の壁の泥の線、いちばん新しいものは去年の——」

「話は終わりだ」

「まあ。水位の話は早いのに、お話は早すぎますのね」


 琥珀色の目が、わずかに眇められた。怒った、というより——調子を狂わされた顔だった。追放されてきた令嬢は、泣くか、怯えるか、取り入るかのはずだったのだろう。水位の話を続けたがる型は、想定になかったに違いない。


「……変わった女だ」

「よく言われますわ」


 終わってしまった。

 黒い外套が翻り、大広間を出ていく。取りつく島もないとはこのことだ。マルタさんが気の毒そうに眉を下げた。


 ——ただ。

 扉の外で、その黒狼が足を止めるのが見えた。

 廊下の隅に、薪を抱えた男の子がいた。十かそこら。閣下は子どもの前に、ごく自然に片膝をついた。


「ピノ。母の咳はどうだ」

「と、止まりました! 閣下にもらった蜂蜜のおかげです」

「屋根は」

「まだ、ちょっと降るとぽたぽたって」

「……そうか。板を回させる」


 立ち上がり、今度こそ行ってしまった。

 私は、その背中をしばらく見送った。歓迎しないと言った声と、屋根の板を回すと言った声が、同じ人のものとは思えなかった。


「……マルタさん。閣下は、あの子の家の屋根までご存じなの」

「旦那様は、領民の名を全員覚えておいでです。子どもも、年寄りも、去年生まれた赤ん坊も」


 マルタさんは、当たり前のことのように言った。


「毎年、水が出るたびに名簿と首っ引きで、生きている名前を数えるのがお役目ですから。……覚えていないと、数えられませんでしょう」


 生きている名前を、数える。

 この領の領主の仕事は、そういう算術らしかった。私は王都の大広間よりずっと深いところで、この土地の水位を思い知った気がした。


「……マルタさん。この領、人が住む土地じゃないんですって」

「旦那様は、ああ言って皆を逃がすのです。ここへ来たお役人も、商人も、お医者様も——みんな雨季の前に逃げていきました。王都では賭けになっているそうですよ。『今度の花嫁は三月もつか』と」


 三月で逃げ帰ると笑われた土地。なるほど、現地でも同じ扱いらしい。


 *


 翌朝、私は城下へ降りた。止めるマルタさんには「散歩ですわ」と笑っておいた。散歩である。測量道具を持った散歩だ。

 案内役を買って出てくれたのは、昨日の男の子——ピノだった。川下のロディ村の子で、城の厩を手伝っているという。


「セラさま、ほんとに川を見に行くの? みんな近寄らないよ。水神様の川だから」

「水神様はご立派だけれど、水は水よ。ねえピノ、この川、昔から今の場所を流れていた?」

「えっとね、じいちゃんが言うには、昔はもっとあっちだったって」


 ピノが指したのは、葦の茂る帯状の低地だった。

 ——旧河道。昔の川の抜け殻だ。今も一段低く、水を覚えている地形。

 蛇行部では外側の岸が深く削られ、崩れた堤の残骸が泥に埋もれていた。堤はある。あるのだが、切れたところを泥で継いだだけの、繕い物の堤だ。

 川べりに立つと、ヴェルガは思ったより静かだった。広い水面が鈍色に光り、葦がさわさわと鳴る。けれど岸の際に耳を澄ませば、底のほうで水がごうと唸っているのが分かる。おとなしい顔で、爪を研いでいる音だ。

 私は川原の流木を拾って削り、岸に打ち込んで、小刀で目盛りを刻んだ。水位標第一号である。この領での初仕事としては、上出来だろう。


〈水の逃げ道が、ぜんぶ塞がってる。これじゃ毎年沈むはずだわ〉


 人はこの土地に負けたのではない。水の通り道を忘れただけだ。それなら、思い出させればいい。

 頬が緩むのを抑えられなかった。ピノが不思議そうに私を見上げた。


「セラさま、なんで笑ってるの?」

「宝の山を見つけたからよ。……あら、あなたも何か持っているのね」


 ピノが首から提げていたのは、平たい石のかけらだった。川で拾った宝物だという。表面に、何かの模様——いいえ、文字? 磨り減っていて読めないが、確かに人の手で彫られた線だった。


「かっこいいでしょ。字が書いてある石なんて、めったにないんだ」

「ええ、とても。大事になさい」


 古い石標のかけらか何かだろう。そのときの私は、それ以上考えなかった。


 *


 夕方、川が鳴った。

 ごろ、ごろ、と腹の底に響く低い音。ピノが川面を指さして言った。


「へんな音! 石が転がるみたいな、ゴロゴロって!」

「……そう。石が転がっているのよ、ピノ」


 川底の石が動き出す音は、上流の水が増えている証拠だ。見上げれば、北の山並みに厚い灰色の雲が腰を据えていた。私が朝に立てた水位の杭は、指二本ぶん、水の下に沈んでいた。

 雨季にはまだ間がある。けれど水は、暦を読まない。


「ピノ、走れる? お城まで競争しましょう」


 その夜、私は湯浴みも断って、閣下の執務室の扉を叩いた。


「何の用だ」

「水位の話ですわ、閣下。——上流では、もう降り始めています。村は三日もちません。いいえ——三日しか、もちません。三日後の夜、ヴェルガの水はロディ村を呑みます」


 琥珀色の目が、初めてまっすぐ私を見た。


「……根拠は」

「水は嘘をつかないの。石の音も、水位も、雲も——ぜんぶ揃って同じことを言っています。村を空にしてください。三日後の夜までに」


 窓の外、北の山の稜線が、稲光で一瞬だけ白く浮かんだ。


水位、朝から指二本上昇。川鳴りあり。北天に積雲。

——観測記録は以上です。あとは、信じてもらえるかどうか。


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