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婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


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第1話:断罪の場で、水路の心配をしてしまった

王都グランヴェル、晴れ。

婚約破棄には、良い日和だそうです。


「セラフィーナ・ローウェル! 貴様の悪逆は聖女ミレーヌが涙ながらに証言した。よって、貴様との婚約を破棄する!」


 王宮の大広間に、王太子アルディス殿下の声が響き渡った。

 シャンデリアの下、居並ぶ貴族たちが一斉に私を見る。その瞬間、私の頭に浮かんでいたのは——東地区の水路のことだった。


〈今月中に石工へ前払いしないと、雨季の前に間に合わない〉


 いけない。今は断罪の最中だった。

 殿下の隣では、聖女ミレーヌ様が銀の髪を震わせて俯いている。可憐な人だ。その可憐な唇が証言したという私の「悪逆」は、次のとおりである。


「貴様は聖女を階段から突き落とし、祈りの装束を切り裂き、あまつさえ聖堂の清めの水に泥を混ぜた!」


 身に覚えは、ひとつもない。

 ないのだけれど、貴族が三十人も「見た」と頷いている以上、ここで泣いて弁明しても勝ち目はないだろう。水掛け論という言葉があるが、掛ける水すらこちらには残されていない。

 だから私は、いちばん気がかりなことを訊いた。


「あら。婚約破棄はよろしいのですけれど、殿下。東地区の水路改修、わたくしの持参金で進めていた件は、どうなさるの?」


 大広間が、しんと凍った。

 殿下の顔が、みるみる赤くなる。


「……貴様、この期に及んで水路だと?」

「あの地区は川底より低いのです。改修を止めれば、次の大水で三百世帯が浸かります」

「聞いたか、諸君! これが氷の悪役令嬢だ! 断罪の場で泥水の心配とは、頭の中まで泥でできているらしい!」


 どっと嘲笑が起きた。

 扇の陰で、令嬢たちが笑っている。壁際では、私の父——ローウェル公爵が、彫像みたいな顔で床を見ていた。娘より家門。まあ、そういう人だ。


「ご覧になって、あの落ち着きよう。氷でできていらっしゃるのよ」

「聖女様をいじめ抜いておいて、涙のひとつも」

「殿下もお気の毒に。あんな婚約者では」


 囁きは、扇で隠す気もないらしい。

 殿下の隣で、ミレーヌ様がレースのハンカチを目元に当てた。それだけで、広間の同情が音を立てて彼女に流れていく。涙とは、使いどころを知る者の手にあれば、どんな水利権より強い水なのだった。

 たいした流量である。私の持参金より、よほど資産価値が高い。


 弁解のかわりに、少しだけ昔の話をしよう。

 私には、前世の記憶がある。

 名前は真田汐里。日本という国の、河川技師だった。

 安全靴と図面ケースが正装で、日焼け止めより先に泥除けを塗るような女だった。堤防を測り、図面を引き、川と三十三年間にらみ合って——最後は決壊現場で、逃げ遅れた人を探しているうちに水に呑まれた。

 豪雨の夜のサイレン。膝まで来た黒い水。呼んでも返らない声。

 守り切れなかった。あの悔いだけが、熱を出した十歳の夜、この体に流れ込んできた。


 以来、私は刺繍より測量が好きな令嬢になった。

 お茶会を抜け出して水門を見に行き、殿下への恋文のかわりに治水の嘆願書を書いた。聖女様を囲む輪に入らなかったのは、いじめではなく、単に川を見に行っていたからである。

 ——氷の悪役令嬢、できあがり。というわけだった。


「沙汰を申し渡す」


 殿下が羊皮紙を広げた。国外追放かしら。それなら身軽でいいのだけれど。


「貴様をローウェル公爵家より除籍。国境の沼地——アルドナート辺境伯領へ下賜する。かの地で朽ちるがいい!」


 広間が、今夜いちばん大きくどよめいた。


「アルドナートって、あの毎年沈む……」

「領主は『戦場の黒狼』でしょう? 人を斬ることしか知らない蛮人だと」

「氷の令嬢に沼地の狼。お似合いといえば、お似合いですこと」


 アルドナート領。

 聞いたことがある。王国の南端、大河ヴェルガの氾濫原。毎年沈む土地。人が定着できず、歴代の領主が水に負け続けてきた——王国の「ゴミ捨て場」と陰で呼ばれる辺境。


「あの、殿下」


 鈴を振るような声がした。聖女ミレーヌ様が、涙を袖で押さえながら、私を見ていた。


「セラフィーナ様は、その、水がお好きでいらっしゃるから……せめて水の豊かな土地をと、わたくしがお願いしたのです。どうか、お恨みにならないで」

「なんとお優しい……!」「聖女様……!」


 貴族たちがどよめく。

 私は、ふと妙に思った。水の豊かな土地。毎年沈む辺境。ずいぶん——具体的な行き先を、ご存じなのね。

 その違和感は、けれど嘲笑にかき消された。


「はは! 安心しろセラフィーナ、あの沼地なら泥水の心配が一生できるぞ!」

「賭けてもいい、三月で泣いて逃げ帰ってくる」

「その時は庭師の小屋でも恵んでやろう!」


 私は最後に一度だけ、頭を下げた。


「かしこまりました。……最後に一つだけ。東地区の水路は、どなたかが必ず完成させてくださいまし。水は、人の都合を待ってはくれませんので」


 誰も、聞いていなかった。


 *


 護送の馬車は、三日揺れた。

 護送といっても、付いたのは兵が二人きり。罪人扱いのわりに監視が緩いのは、逃げても行く先がないからだろう。年かさの兵は気の毒そうに黙り、若いほうは宿場のたびに「アルドナート行きだとよ」と囁かれる声を、面白そうに聞いていた。

 嫁入り道具は、旅行鞄がひとつ。中身は着替えが少しと、没収を免れた製図の道具一式。それで十分だった。前世の私の全財産も、だいたいそんなものだった。

 窓の外で、手入れされた王都の田園が途切れ、道が泥に変わり、やがて空が広くなる。

 揺られながら、私は浅い眠りの中で、いつもの夢を見た。


 ——知らない川辺に、古い水位標が立っている夢。

 木でも鉄でもない、白い石の標。刻まれた目盛りを、誰かの手が指でなぞっている。子どもの頃から数え切れないほど見た夢だ。前世の記憶の切れ端だろうと、ずっと思ってきた。

 でも、変なの。

 汐里が測っていたどの川とも、あの水位標は違うのに。


「お嬢様、じきに領境です」


 御者の声で目が覚めた。

 窓の外に——それは、あった。


 地平線まで、水だった。

 灰色の遊水と葦原が果てなく広がり、その真ん中を、大河ヴェルガが太い銀色の蛇のようにのたくっている。崩れた堤の残骸。水に浸かって傾いた小屋。泥に埋まった畑の畝が、水面の下に透けて見えた。

 窓を開けると、湿った風が頬を打った。水と土と、緑の匂い。

 息を吸い込んだ瞬間、体の奥で何かが目を覚ました。

 王都の十八年間、ずっと行儀よく眠らせてきたもの。図面の匂いと、現場の朝の匂いを覚えている、私のいちばん古い部分。


〈……最高の現場だわ〉


 誰も手をつけていない氾濫原が、地平線まで。

 測るべき水位。引くべき図面。逃がすべき水。守るべき家々——全部、ここにある。

 三月で逃げ帰る? ご冗談を。


「ええ。ええ、そうね」


 私は誰にともなく頷いて、指で宙に、すうっと一本の水路を引いた。

 今度こそ。今度こそ、守り切るのだ。


 西の山並みに、灰色の雲がかかっていた。

 風の中に、かすかに雨の匂いがした。


馬車はあと半日。嫁ぎ先は「三月で泣いて逃げ帰る土地」だそうです。

逃げ帰るかどうかは、水位を測ってから決めることにします。


※ブックマークは堤防より頑丈です。続きの安全のため、ぜひ。


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