第59話:目盛りが、隠れた
初夏。晴。風、南より。
本日、蛇行部の水位——記録なし。……欄が埋められませんでした。理由は本文にございます。
雨は、三日にわたって降った。
最初の一晩が強く、あとの二日は静かな雨だった。静かな雨のほうが川はよく太る。土に染みてから出てくるからである。
器はすべて満ちた。満ちて、底樋から順に落とし、下の畑と田へ回した。分水路は呑み続けた。遊水地は三分の二まで入った。旧水門は、結局この雨季も開けずに済んだ。
四日目の朝、私は蛇行部へ行った。
毎朝行っている。この一年半、目盛りの数を書かなかった日は一度も無かった。
土手を下りて、水際に立った。
——目盛りが、無かった。
私はしばらく標の根元を探した。
探すという動作が、そもそもおかしい。標は動かない。動いたのは水面のほうである。
二本の標は白い部分をすっかり水の下に沈めて、上端だけを空に出していた。目盛りは一本も見えない。読むための刻みが全部、水の中にある。
「……読めませんわ」
声に出してみた。自分の声が、ずいぶん間の抜けた響きをしている。
一年半、私はこの目盛りの数を書いてきた。三本。四本。五本。六本。七本。八本。九本。増えるたびに、領のどこかで井戸が枯れた。あの数字は渇きを目に見えるようにするための道具だった。
道具が、役目を終えていた。
私は帳面を開いて、その日の欄に何と書くか迷った。迷ってから、こう書いた。
——目盛り、なし。水面、上端の下 指一本。
書き終えて帳面を閉じた。閉じてから、少し泣いた。二晩ぶりである。この一年、私はどうも涙腺の締まりが悪い。
背中で泥を踏む音がした。振り向かなくてもわかる。この人は二十年、朝も夕もこの道を歩いてきた。
「ジーク様」
「ああ」
「本日は、読めませんの」
「見えている」
「……はい」
閣下は私の隣に立った。二本の標の上端が、水面から指一本だけ出ている。それを二人で見ていた。
「セラ」
「はい」
「これを贈ったとき、俺は精度が倍になると言った」
「ええ。口説き文句にお使いになりましたわね」
「使った。……読めなくなるとは、思っていなかった」
「読めないのが、いちばんよい報せでございます」
「そうだな」
この人は、その朝、笑った。
二十年、水位標を敗け戦の数え札として読んできた人が、目盛りの消えたのを見て笑っている。
私はその顔を見られただけで、この二年ぶんの帳面が締まった気がした。
*
王都からの早馬は、その七日後に来た。
ヴェルナー卿の文である。封は宰相府のものだった。
『王国水利条約、裁可されました。第一条から第四条まで、山の申し合わせの文言がほぼそのまま入っております。貴女の書いた紙が、王国の紙になりました』
私はその一行を三度読んだ。三度読んで、それから続きを読んだ。
『ただし、渇水令は廃止されません。運用条項に一行が入りました。——上流域の森林状態を、取水配分の算定に入れる。
この一行の意味は、こうです。今年、貴女の領は配分表に行が立ちます。上位ではありません。二十四番目です』
二十四番目。
去年、私は末席から二番目の席で笑われた。今年、うちの領は二十三行の表のいちばん下に載った。
載ったというのが、思ったよりずっと重かった。
欄が無いということは、減らすものが無いということである。減らすものが無い土地は議論に上がらない。二十四番目は最下位だ。だが最下位は、表の中にいる。
『大水路については、第一区間の通水のみ認可。第二区間以降は、来年度の審議に回されました。……セラフィーナ殿。全部を一度に通そうとする者は、たいてい何も通せません』
卿の親切は、いつも親切な顔をしていない。
*
アーベル殿が領を離れたのは、夏の初めだった。
バルテル領の王領預かりが解かれて、上流は新しい代官所の管轄になる。この人は王都へ戻り、渇水令の見直しを担当するのだそうだ。自分で崩した令を自分で組み直すことになる。
旧バルテル館は、来たときと同じだった。金の燭台は無い。卓と帳面だけ。窓は開け放してある。紙の端が風で鳴っていた。
「アーベル殿。お世話になりました」
「世話はしておりません」
「では、邪魔をしていただきました」
「それは、いたしました」
この人は、こういうときも訂正しない。
「配分表の、二十四番目でございますわね」
「二十四番目です。……来年、上に動かす気はありません」
「存じております」
「動かしませんが、削りません。行がある土地は、削るときに理由が要ります」
それが、この人なりの引き継ぎだった。
卓の上には、飲み水の樽が二つ。柄杓に木札が下がっている。館の者の当番表である。いちばん下の行に、代官の名があった。来たときと、同じ位置だった。
「アーベル殿」
「はい」
「ひとつだけ、伺ってもよろしくて」
「どうぞ」
「あなたは、去年の初夏に、わたくしの領は水に沈んでいた土地だとおっしゃいました。……あの数字は、いつ変わりましたの」
アーベル殿は帳面を袋へ入れる手を止めた。止めてから、初めて少しだけ長く黙った。
「稜線の絵を見たときです」
「絵、でございますか」
「私の役所は、国境の外を測りません。測らないものは、無いのと同じです。……あの絵は、無いはずのものが描いてありました」
この人は、袋の口を結んだ。
「無いはずのものを持ってくる者を、私は六年間、一人も見ませんでした」
馬車が来た。荷は帳面の入った箱が四つだけである。乗り込む前に、この人はこちらを向いた。
「セラフィーナ殿」
私は、一拍遅れて顔を上げた。
この人が私を名前で呼んだのは、一年半で初めてだった。
「来年の春、実地の検分に参ります。四日です」
「……お待ちしております」
「四十七地点を、ご自分で案内なさい。他人に任せると、数字が一分ずれます」
それだけ言って、この人は馬車に乗った。窓は開けなかった。開けないところまで最後まで同じだった。
*
その晩、書斎で遺図を広げた。
条約の写しと、山の申し合わせと、器十四基の記録を並べる。一年半ぶんが卓の上で、ようやくひと綴りになった。
ドナル親方が遺図の最後の一葉を覗き込んでいた。
「嬢ちゃん。この紙な」
「はい」
「余白に、線が入っとる」
余白。
『水に、国境は引けぬ。続きは、次に読む者へ』の、その下である。私は一年半、その一行しか見ていなかった。
親方の指が薄い線をなぞった。
なぞって、途中で止まった。
「……親方」
「嬢ちゃん。これは、石屋の書き方じゃ」
「石屋の」
「丁張りの印よ。素人にゃ、ただの掠れに見える。……じゃがな」
窓の外は、夏の夜である。蛇行部の標は、今日も水の下だ。読める目盛りは、一本も無い。
親方は指をそこに置いたまま動かさなかった。
「これは、ガルドの手じゃねえ」
本日の収支——目盛り、なし。条約の裁可一通。配分表の行、ひとつ(二十四番目)。
本日の受領——代官殿から、名前を一度。……一年半で、初めてでございました。
本日の繰り越し——遺図の余白の、掠れた線。……石屋にしか読めない書き方だそうでございます。




