第60話:次に、読む者へ
夏。晴。風、南より。
本日、年の帳面を締めます。——観測記録は、締めても終わりません。明日の欄が、もう空けてございます。
夏の初めに、段丘へ登った。
図面を持たずに登ったのは、この二年で初めてである。持たずに登ると、目のほうが忙しい。
器が十四、縁に沿って並んでいる。上から下へ、階段のように。満ちた水面が、朝の光をひとつずつ違う角度で返していた。上のほうはまだ濁っていて、下へ行くほど澄んでいる。落ちるあいだに土が沈むからである。
器と器のあいだの斜面が、緑だった。去年の夏、この斜面は白かった。土が乾いて、草の根が浮いていた場所である。
その下に田がある。田の色は、去年の倍ほど濃い。
いちばん下の器の脇に、細い水路が一本。大水路の第一区間である。
第一区間だけ、水が通っている。その先は掘りかけの溝で終わっていた。掘りかけの溝は、遠くから見るとただの畦に見える。
全部は、通っていない。
通っていないほうが、たぶんいい。全部を一度に通そうとする者は、たいてい何も通せない。
ただし、第二区間から先の審議は来年度に回っている。
回ったものが、翌年そのまま出てくるとは限らない。去年の私は、そのくらいのことを知らなかった。今年は知っている。知ったうえで、掘りかけの溝を眺めていた。
この畦が水路になるのは、何年後だろう。
*
城へ戻って、年の帳面を締めた。
まず、麦である。
冬に軍の兵糧から回した分。麻が売れて、春に買い戻した。買い戻しは、思ったより十日早く済んだ。
「ジーク様。麦の勘定が合いました」
「そうか」
「戻りましたので、失策の欄は空きますわ」
「……空けておけ」
「空けておきますの」
「空けておけ。次に俺が同じことをやったとき、比べる欄が要る」
この人は、この一年で、帳面の使い方をずいぶん覚えた。
覚えたことを、私はまだ本人に言っていない。言うと、たぶん帳面を触らなくなる。
次に、水である。
器十四基。うち底樋が付いたものが九。石堰十九基。分水路六本。遊水地ひとつ。旧水門は、二年続けて開けていない。
番水の当番表は、去年で役目を終えた。かわりに放流の順が広場の柱に貼ってある。判は捺した。田を二枚だけ呑ませる、という約束の判である。今年、呑んだのは一枚だった。
病人の数も書いた。
王都のミレーヌ様からの包みは、季節ごとに来る。この夏の分では、うちの流域から出た者が七人に減っていた。去年の同じ季節は、三十九人である。稜線の向こうから来た者は、まだ九人いる。
文は、今年も付いていない。かわりに、乾かした薬草の重さと値が書いてあった。買い上げた側の値である。この人は、値の話だけをずっと続けるつもりらしい。
水見帳の写しも届いた。
欠測、なし。書いたのはコルネオである。庵の冬は雪で降りられない。年に二度、こちらから人を上げた。二度とも生きていた。
*
名簿を書き換えたのは、その次の日である。
領の役方の名簿には、これまで観測方の欄が無かった。作った。
いちばん上に、ガレン。次に、桶隊あがりの子が四人。そのいちばん下に、名を書いた。
ピノ。技師見習い。
「セラさま。これ」
「読めまして」
「……読める。おれ、読めるようになったの」
「存じております。三月ほど前から、読めておいででしたわ」
この子は、名簿を両手で持って、しばらく黙っていた。
それから、いつもの癖で紐を探した。紐は無い。持っているのが紙だったので、巻けなかったのだと思う。
「セラさま」
「はい」
「これ、給金出るの」
「出ますわ。……安うございますけれど」
「いくら」
「銅で、月に十二枚」
「……おれ、水の仕事で銭もらうの」
この子が、初めて桶を叩いて刻限を触れて回ったのは、去年の夏である。あのときは無給だった。無給どころか、魔女の触れ役と言われた。
「ピノ。ひとつだけ、申し上げておきますわ」
「なに」
「給金が出ると、間違えたときに責められます。今までは、子どもだから許されておりました」
「うん」
「怖くございませんの」
「……こわい。でも」
この子は、名簿を胸に押しつけた。
「間違えたら、書いて残すんでしょ。おれ、それはできるもん」
私は、この子に何も教えていない。教えたのは、書式と、同じ場所で同じ時刻に測ることだけである。
*
夏の終わりに、稜線へ行った。
植え付けの二年目を見に行く名目だった。ヨナスの若い衆が、区の番号と本数を書いた紙を持ってきていた。今年は八百四十本。去年の三倍近い。
斜面は、まだ灰色である。八百四十本の苗は、遠目にはほとんど見えない。近くへ寄ると、膝の高さの緑が、点々と並んでいた。
「奥様。二十年だ」
「二十年でございますわね」
「おれは、そのころ生きてねえかもしれん」
「わたくしも、たぶん腰が曲がっております」
「……あんたが腰を曲げて水を測ってたら、笑ってやるよ」
ヨナスは、そう言って自分の紙を袋へ戻した。
この人は、六年ぶんの値を油紙に書き溜めた人である。今は、区の番号と本数を書いている。書くものが変わっただけで、書く手は同じだった。
稜線の鞍部から、向こうを見た。
サルヴィアの谷が、いくつも重なって下っている。その先、霞んだ低いところに、光る線があった。
国境の大河である。
遠い。
馬でどのくらいかと聞いたら、ヨナスは十日と言った。十日先の水を、私はまだ一度も測っていない。測っていないものについて、私は何も書けない。
〈……まだ、遠いわ〉
遠いことを、私は今日、初めて嬉しく思った。全部が近かったら、二十年後に残る仕事が無い。
*
その晩、書斎に三人で集まった。
私と、ドナル親方と、ピノである。卓の上には、遺図の最後の一葉。
親方が、薄い線を炭で薄く写し取っていた。石屋の丁張りの印である。素人には掠れにしか見えない線が、写し取ると意味を持ち始めた。
「嬢ちゃん。これはな、寸法じゃ」
「寸法」
「ここからここまで、何歩。ここで、何尺下がる。……測った者が、あとで自分で読むための書き方じゃ」
「では、この方は」
「歩いとる。この線の上を、自分の足で」
線は、稜線を越えていた。
越えて、向こうの谷を三つ下って、その先で止まっている。止まった場所の脇に、小さな印がひとつ。
「親方。これは、ガルドの手ではないのですね」
「ちがう。ガルドの丁張りは、頭に丸を打つ。これは打っとらん」
「では、五代前より」
「あとじゃ。……墨も、下の一行より新しい。だいぶ新しい」
先代は、この図の余白に一行だけ残した。
水に、国境は引けぬ。続きは、次に読む者へ。
その下に、誰かが線を引いていた。
読んだのである。読んで、稜線を越えて、自分の足で三つ谷を下って、寸法を取って、それから、そこで止まった。
「セラさま。この人、だれ」
「……存じません」
「先代さまじゃないの」
「先代の方ではございませんわ。あの方の百年のあとで、この図を読んだ方でございます」
私は、その線に指を置いた。
置いてから、離した。
百年のあいだ、この図を読んだのは私が最初だと思っていた。
思っていた自分が、少しおかしかった。「次に読む者へ」と書いてある紙を、百年、誰も読まなかったはずがない。
読んだ人がいる。
歩いた人がいる。
そして、その人の線も、途中で止まっている。
「ピノ」
「はい」
「観測方の最初の仕事を、差し上げますわ」
「なに」
「この線を、写しなさい。二枚。……一枚は城の書庫、一枚はあなたが持つのです」
*
窓を開けた。
夏の夜である。虫が鳴いている。谷の下のほうで、水が動く音がした。器から器へ落ちている音である。この音は、去年の夏には無かった。
蛇行部の標は、まだ水の下だ。目盛りは読めない。読めない日が、もう二十日続いている。
私は明日の欄を空けて、帳面を閉じた。
本日の収支——器十四、石堰十九、大水路 第一区間。植え付け 二年目 八百四十本。観測方の名簿に、一名追加。
本日の判明——遺図の余白の線は、先代の筆ではございませんでした。もっとあとの、歩いた誰かの手でございます。
本日の繰り越し三件——掘りかけの溝が水路になる年。来春、王都の役所が歩く四十七地点。それと、大河。
大河には、まだ誰も線を引いておりません。……引こうとした人が、ひとりいたことを除いて。




