第57話:二人で、読む
初夏。曇のち雨。風、東より。
本日、雨季の入り。——配置につきます。二人ぶん、書き付けておきます。
雨季の入りの朝、私は水門小屋へ行った。
二年前と同じ小屋である。壁の図面を留める石も、去年の場所に置いてある。
閣下は、先に来ていた。
卓の上に、避難の割り当てを広げている。村ごとの人数と、丘までの道と、鐘の順である。私の図面は、その隣に置く場所が空けてあった。
私は図面を広げた。器十四基の水位。石堰十九基。分水路。旧水門。落とす順と、落とす量。
二枚の紙が卓の上で並んだ。こういう並べ方を、私たちは去年の夏に一度もしていない。
「セラ」
「はい」
「先に、済ませておく」
閣下は、避難の紙から手を離した。
「去年、俺はあんたの言うことが正しいと言った。あれは、正しいとしか言わなかった」
「……はい」
「正しいのはわかっていた。飲みたくなかっただけだ。……悪かった」
私はしばらく返事ができなかった。
用意していた言葉が三つあった。三つとも、今の順番より後に置くべきものだった。
「ジーク様。わたくしからも、先に済ませます」
「言え」
「あの晩、わたくしが申し上げたことは、間違っておりませんでした」
「ああ」
「言い方が、間違っておりました」
二十年前のやり直しでございますわ。
あの一言を、私はこの一年、何度も口の中で転がした。転がすたびに、間違っているのは中身ではなく置き場所だと思った。あれは正しさで人を黙らせるための刃だった。
「ジーク様は、二十年前をやり直しておいででした。それは、本当のことでございます。……本当のことを、あの場で武器にいたしました」
「……」
「わたくしは、水のことでは負けたことがございません。負けたことのない者が、いちばん卑怯な言い方を覚えます。覚えたことに、あの晩まで気づいておりませんでした」
閣下は卓の縁を指で二度叩いた。この人が言葉を探すときの癖である。
「セラ」
「はい」
「俺は、あの夜のあと、あんたの帳面を読んだ」
「……あら」
「勝手に読んだ。悪いか」
「悪くはございませんわ。あれは、領の帳面でございますから」
「二十六日と書いてあった。上の三村の順番が、二十三日目に来ない、とも」
閣下は、そこで初めてこちらを見た。
「あんたは、オルムの三軒を捨てたんじゃない。カセルの奥の二村を、先に選んだんだ。……それは、俺には書けない紙だ」
「ジーク様」
「俺は人を数える。あんたは水を数える。同じ谷で、別のものを数えている。……去年、俺はそれを忘れた」
*
雨は、昼過ぎに来た。
最初は、地面が黒くなる程度である。半刻して、屋根が鳴り始めた。
伝令が入る。ガレンの班が三方へ散る。丘の鐘はピノ——ではなく、桶隊の下の子が二人。ピノには、別の持ち場がある。
「第一基、七分!」
「第四基、六分!」
「石堰、十一番から上、越流はじまってます!」
私は図面に石を置いて、数を書き込み、次の手を叫んだ。
二年前と、同じ小屋で、同じ声の張り方をしている。違うのは、隣にもう一枚の紙があることだった。
「閣下、オルムの下の三軒は」
「今朝、荷を丘へ上げた。人は残る。屋根がある」
「残っていただけますのね」
「残る。逃げる村と、残る村を分けた。分けたのは、あんたの図面の落とす順を見てからだ」
「田は」
「呑ませると決めた二枚に、人は出していない。……あんたが昨日回った二軒だ。俺も今朝、もう一度回った」
「二度も」
「二度でも足りん。田を捨てろと言われた家は、当日に気が変わる」
この人は、そういうところを見ている。
私は紙の上で田を二枚選んだ。この人は、その二枚の家に二度足を運んだ。同じ決定の、違う半分である。
「ジーク様。ひとつ、伺ってもよろしくて」
「言え」
「怖くはございませんの。……今夜、雨が」
「怖い」
即答だった。
「二十年、雨の晩が怖かった。今も怖い。……ただ、今夜は、怖いだけだ」
「だけ」
「去年までは、怖いのと、間に合わんのが一緒に来た。今夜は、間に合っている」
この人は、私の紙を読んで自分の紙を書き直していた。
書き直したことを報告してこなかった。報告する暇が無かったのではない。この人にとっては、それが当たり前になっていたのだと思う。
*
雨脚が強くなる前に、マルタさんが小屋へ来た。握り飯と、絞り布と、油の樽。それを置いて、帰らずに戸口に立っていた。
「マルタさん。城へお戻りなさいまし」
「奥様。ひとつだけ、申し上げてもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「去年の夏、わたくしは奥様に、嘘でございますよねと伺いました」
「……はい」
「三十四日お待ちして、嘘ではないと伺いました。あのとき、わたくしは台所で泣きましてございます」
知らなかった。この人は、泣くところを人に見せない。見せないから、女中頭が務まる。
「今年は、泣きませんで」
「マルタさん」
「今年は、握り飯を持ってまいりました。……そういう年になりましてございます」
言うだけ言って、この人は雨の中を帰っていった。
背中が、少し速かった。
*
夕暮れ、雨脚が一度緩んだ。
私は小屋を出て土手へ上がった。
標が二本、並んで立っている。一本は私が立てた。もう一本はこの人が贈った。目盛りの割り付けが半刻みずれていて、並べて読めば読みの精度が倍になる。
目盛りは、三本。
朝は四本だった。半日で一本、水が上がっている。
背中で、泥を踏む音がした。
「ジーク様。今日のぶんを読みますわ」
「ああ」
「三本でございます。朝より一本、上がっております」
「増えたのか」
「増えました。……去年の今ごろ、この目盛りは八本ございました」
この人は、二十年ぶん、この標を独りで読んできた。去年の夏の終わり、私はこの土手で、独りで立つ背中を見つけて、声をかけられずに帰った。
今日は、二人で読んでいる。読んでいるだけで、婚礼の誓いは全部払われた気がした。
「水は、二人で読む」
「……よく覚えていらっしゃいましたわね」
「三つのうち、ひとつだけ覚えた文句だ。忘れるわけがない」
雨がまた強くなった。私たちは小屋へ戻った。
*
夜半、上流の見張りから最初の合図が来た。
角灯を三度、横に振る合図である。去年決めた符丁だった。意味はひとつしかない。
——上流の谷、水位急上昇。
私は図面の上端に石を置いた。器の第一基から、順に満ちていく。
「ガレン。桶隊を全員、丘へ」
「へい!」
「ピノは」
「第九基でさ。もう上がってやす」
戸を開けると、外は本降りだった。雨の向こうで、丘の鐘が一度だけ鳴る。合図ではない。風で鳴っただけの音だった。
閣下が外套を掴んだ。
「行くぞ」
「はい」
本日の収支——配置一件、詫び二件(相互)、目盛り三本(朝より一本増)。
本日の受領——「水は、二人で読む」。……三つのうち、ひとつだけ覚えたそうでございます。
本日の繰り越し——夜半、上流より合図一つ。角灯を三度、横に振る合図でございました。




