第56話:来年の雨季までに、と言った
初夏。曇。風、東より。
本日、オルム村。——帳面のいちばん古い欄を、閉じてまいりました。
その欄は、二年ぶん開いていた。
オルム村、三軒。壁と屋根。未着手。理由、水。
書いたのは一昨年の秋である。書いてから、私は雨季を二度越した。一度目は嵐で、二度目は空梅雨だった。どちらの年も、その三軒には手が届かなかった。
器に水が入ってから、練り土がやっと作れるようになった。
第三基の底樋を開けて旧河道の筋へ落とす。落とした水をオルムの手前で樋に受ける。土を練るのに要る水は、田に比べればわずかである。そのわずかな水が二年、どうしても捻り出せなかった。
*
私が村へ着いたとき、壁はもう半分まで塗られていた。
塗っていたのは村の者だけではなかった。
河原の水車の普請から若い衆が四人下りてきている。稜線の向こうの顔もあった。手が空いたから来た、という顔で塗っていた。
言葉はほとんど通じない。塗り方は通じるらしい。
「奥様。あの者らは、飯だけで働きますで」
村長が困った顔で言った。
「困りますか」
「困りますとも。飯だけで働かせては、こっちの顔が立ちませんで」
「では、麻をお持ちなさいまし。冬に打つぶんを、こちらから回します」
「……そういう話になりますか」
「そういう話にいたしましょう」
貸し借りは残しておいたほうがいい。返せる形の貸しは、次の年に人を連れてくる。
三軒には、それぞれ人が付いている。
手前の一軒は、若い夫婦と子ども三人。真ん中は、船頭をやめて畑に移った男の家。奥は、去年の夏に井戸が枯れて寝込んだ婆様の家である。
二年のあいだ、この人たちは村の他の家に分かれて入っていた。分かれて入るというのは、二年ぶん他人の家で朝を迎えるということである。帳面に書けば一行だ。書けない部分のほうが、はるかに長い。
*
三軒のうち、いちばん奥の一軒は、婆様の家だった。
去年の夏に井戸が枯れて寝込んだ人である。冬のあいだは村長の家に置いてもらっていた。その婆様が杖をついて、自分の家の前に立っていた。
立って、柱を撫でている。
「婆様。お加減は」
「奥様かね」
「はい」
「この柱はな。二年、雨に打たれて、ようやっと乾きよった」
二年、屋根の無いまま立っていた柱である。
濡れた。乾いた。また濡れた。それでも腐らなかった。
「奥様。わしはな、この二年、あんたを恨まなんだ」
「恨んでくださって、構いませんでしたのに」
「恨む相手が水では、間が抜けとる」
婆様は、柱を撫でる手を止めなかった。
「じゃがな。去年の夏に、あんたが広場で言うたときだけは、ちょっと恨んだ」
「……はい」
「わしの井戸が枯れたのは、あんたのせいじゃったのかと。……そう思うたら、腹が立ったわい」
「はい」
「じゃが、そのあと、あんたは毎月うちの村に水を回してくれたな。恨むのに、忙しくなってしもうた」
私は頭を下げた。
下げてから、この二年で自分がずいぶん頭を下げるのが上手くなったことに気づいた。
*
昼の休みに、村長と勘定をした。
三軒の壁土。屋根板。釘。塗り手の飯。麻の手間賃。それと、二年ぶんの詫び——これは勘定に入れない。入れると、この村が受け取りにくくなる。
「奥様。二年でございましたな」
「二年でございました」
「一年で、と申されましたが」
「申しました」
「……嘘つきでございますな」
村長は、そう言って笑った。
笑われて、私は少しほっとした。この二年、この人は一度も急かさず、一度も責めなかった。責めない人に責められると、たいていの人間は楽になる。
「村長。次は、期限を長めに申し上げます」
「そりゃ困りますで」
「なぜ」
「短く言うて、二年遅れるお人だと思うておりましたので。長く言われたら、こっちは十年待つ気になりますでな」
*
屋根が上がったのは、その日の夕方である。
最後の一枚を留めたのは、ジーク様だった。
村の若い衆が梯子を押さえて、この人が屋根の上にいた。領主が屋根に登るものではない、と誰かが言った。誰も本気で止めなかった。
私は下から見上げていた。
二年前、この村が浸水したときも、この人は避難の指揮を執った。百三十一名。死者ゼロ。数字の上では完璧である。
完璧な数字のあとで、この人は三日間ほとんど喋らなかった。喋らない理由を、私はあとで知った。丘の上から水を見ていた八つの子どもが、二十年経って、同じ谷でまた村を沈めたと思っていたのである。
屋根板が留まった。ジーク様は梯子を降りた。村長に何か短く言った。それだけだった。
降りてきた閣下に、私は何も言わなかった。
言うことは、たぶんあった。二年前のあの夜のことも、去年の晩夏のことも、まだ二人のあいだに置いたままである。置いたまま、この人は屋根板を留めた。
「ジーク様」
「なんだ」
「屋根の留め方を、どこで覚えられましたの」
「八つのときだ」
「……八つ」
「丘の上の親類の家で、屋根の葺き替えを手伝わされた。……その年の夏に、うちの村が流れた」
それだけ言って、この人は梯子を担いで行ってしまった。
私はしばらく動けなかった。二十年、屋根の留め方だけを覚えていた人が、今日、二年遅れの屋根を留めた。
*
夜、村で小さな祝いがあった。
汁物が出た。二年ぶりだと村長が言った。マルタさんが厨に立って、樫の実の粉を混ぜた団子を作った。灰汁で炊く方法である。稜線の向こうから来た若い衆が、それを見て笑った。自分たちの食い物が、こちらの祝いの膳に出ていたからだった。
笑われたマルタさんは、平然と皿を足した。
「奥方様。あちらの若い衆に、うちの塩漬けの作り方を聞かれましてございます」
「お教えになりまして」
「教えましてございます。……あちらの婆様のやり方も、ひとつ教わりました」
「交換でございますわね」
「交換でございます。台所は、昔からそうやってまいりました」
条約より早く、麻より確かに、こちらのほうが先に国境を越えていた。
帰りの道で、私は井戸のそばを通った。
村の井戸である。去年の夏に枯れて、釣瓶が横倒しになっていた井戸だった。
縄がまっすぐ下りている。
誰かが汲んだあとらしい。井戸のふちが濡れていた。濡れた石の匂いがする。この二年、私がいちばん嗅ぎたかった匂いだった。
下から、音がした。
水が、桶に当たる音だった。深いところで、こつん、と鳴って、それから跳ね返って戻ってくる音。
私は井戸のふちに手を置いて、しばらくその音を聞いていた。
東からの風は、まだ生ぬるい。空は曇。蛇行部の目盛りは四本。
雨季の入りは、明日である。
本日の収支——オルム村 三軒、屋根まで。塗り手は両側の国から。
本日の受領——婆様の「恨むのに、忙しくなってしもうた」。
本日の繰り越し——帳面の欄をひとつ閉じました。……二年、開いておりました欄でございます。閉じるのに、二行しか要りませんでした。




