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婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


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第54話:神罰の、次の仕事

早春。晴。風、南より。

本日、橋普請の現場を検分。——今度は、はじめから検分の予定でございました。

 稜線の向こうで、最初の植え付けが始まったという報せが来た。


 ヨナスの若い衆が、河原まで下りて紙を置いていった。区の番号と、植えた本数と、日付。字は下手だが、数は正しい。

 三百二十本。伐った面積に対しては、まるで足りない。足りないが、去年までの本数はゼロだった。ゼロから三百二十は無限倍である。前世の誰かが、そんな言い方をしていた。


 その紙を綴じ込んで、私は広場へ出た。


 去年の夏、わたくしはこの台の上で、二十二日ぶんの行き先はわからないと申しました。

 必ず突き止めて帳面に書きます、とも申しました。


 人は、そう集まらなかった。触れを出したのが前の日で、しかも渇きはもう去っている。去った災害の話を聞きに来る者は少ない。

 それでも、粉屋の女将は来ていた。番水の当番を返上した二軒のうち、一軒も来ていた。


「行き先が、わかりました」


 私は帳面を開いて、台の上で人のほうへ向けた。


「稜線の向こう、サルヴィアの斜面でございます。六年前から、上端まで木が伐られておりました。木が無いと、雪は日に当たって冬のうちに解けます。解けた水は少しずつ流れて、春にまとまって来ません」

「……木かね」

「木でございます。神様ではございません。誰かが山を買って、順番に伐りました」


 女将が、腕を組んだ。


「そいつは、悪い奴なのかね」

「悪うございます。ですが、罰は当たりませんでした」

「当たらないのかい」

「よその国の商いですので、こちらの王法が届きません。……かわりに、山を植え直す話を作ってまいりました。二十年かかります」


 二十年、という言葉のところで、聞いている顔が少し動いた。

 長すぎて、腹が立つ人と、長すぎて、かえって信じる人がいる。この土地の人は、たいてい後者だった。堤を締めるのも、田を復すのも、そういう年数の話だったからである。


「奥方様。去年の二十八日ぶんは、あんたのせいだったね」

「はい」

「残りの二十二日は、あんたのせいじゃなかった」

「……はい」

「じゃあ、帳面はきれいになったのかい」

「いいえ。二十八日ぶんは、まだ載ったままでございます」


 消しには来ていない。

 書きに来たのである。約束は、突き止めて書く、であった。


 *


 その足で、私は橋普請の現場へ回った。

 普請場は、静かだった。


 人足たちは働いている。石を運ぶ。土を搗く。監督が刻限を告げる。静かなのは、真ん中に人の輪が無いからだった。

 痩せた男が、ひとりで石を運んでいる。


 誰も、その人の話を聞いていない。

 去年の夏、この輪は十人以上あった。冬に山の紙のことが領内へ回って、春に稜線の植え付けが始まって、それでこの人の教義は崩れた。渇きは神罰ではなかった。国境の向こうで木が伐られていたのである。神様は、六年前の伐採権の売買には関わっていない。


 崩れた説教者を、私はしばらく見ていた。

 みじめだった。みじめさは、こちらの気分をよくしない。一年前の私は、たぶんこの光景をもっと楽しみにしていた。実際に見ると何の味もしなかった。


「コルネオ殿」

「……これは、責任者どの」


 揉み手は、まだ出た。出たが途中で止まった。手のやり場が無くなったらしい。そのまま石を抱え直した。


「お話を、ひとつ伺いに参りました」

「わしは、もう何も申しませんぞ」

「伺いたいのは、教えではございません。仕事のほうでございます」


 *


 私は袋から綴じた帳面の写しを出した。水見帳の写しである。一昨年の冬、禁域の谷の庵から出てきたものだった。


「月に二度。百年。無欠測」

「……」

「わたくしは、この帳面に助けられました。あれが無ければ、旧王家のダムの壁がいつから孕んだかを、誰も証せませんでした」

「あれは、教団の記録でございます」

「ええ。教団の記録でございますわ」


 私は写しの最後の頁を開いた。筆跡が、そこから変わっている。二十年ぶんの同じ字である。


「この頁から先は、あなたの字でございましょう」

「……はい」

「二十年。雪の日も、行かれましたのね」

「行きました。……行かねば、欠測になりますでな」


 欠測になりますでな。

 その言い方に、私は少しだけ息を止めた。観測をする人間の言い方だった。教義の人間の言い方ではない。


「コルネオ殿。あなたは百年の記録の、最後の二十年を書いた方でございます」

「奥方様。わしは、その帳面で人を騙しました」

「騙しましたわね。……ですが、数字は正しゅうございました」


 この人は噓の教義を配って歩いた。同じ手で、二十年ぶん正しい水位を書いた。

 どちらも同じ人である。片方を消すと、もう片方も消える。


 水は嘘をつかない。書いた者が嘘つきでも、書かれた目盛りは正しい。目盛りに罪は無い。目盛りを読んだ手にも、たぶん、その部分だけは罪が無い。


 *


 沙汰を出す前に、執務室へ行った。人足の刑を役へ振り替えるのは、領主の権限である。私の権限ではない。


「あの男を、庵に置くのか」

「置きます」

「二十年、人を騙して回った男だ」

「騙して回りました。同じ二十年、月に二度、欠測なく水位を書いております」

「……」

「ジーク様。わたくしは、この人を許しておりません。許さずに使います」


 閣下は、しばらく窓の外を見ていた。

 この人は去年、この男に手を上げかけている。上げかけた腕を、私が掴んだ。


「条件をつける」

「伺いますわ」

「庵は、あの谷だ。冬は雪で降りられん。……年に二度、こちらから人を上げろ。生きているかを見に行け」

「はい」

「罰で人を殺すのは構わん。忘れて殺すのは、うちの領ではやらん」


 この人は、こういうことを短い言葉で決める。

 私は帳面に書いた。年に二度。生存の確認。理由の欄には、閣下の言葉をそのまま写した。


 *


 沙汰は、三日後に出した。


 コルネオの刑は、橋普請の人足三年である。うち一年半が残っていた。

 残りを、役へ振り替えた。


 役の名は「水見の番人」。

 禁域の谷の庵に住み、月に二度、旧王家ダムの遺構と、上流の水位標を見て回る。書式は水見帳のとおり。帳面は領の書庫に納め、写しを一部、王都のヴェルナー卿へ送る。

 給金は出さない。飯と、薪と、油は出す。刑期が明けたあとも続けるかどうかは、そのとき決める。


 ヴェルナー卿の返書は短かった。


『前例がありません。ですので、前例を作る形で処理いたします。……セラフィーナ殿、貴女はときどき、法よりも面倒なものを作りますね』


 *


 沙汰を読み上げたのは、普請場の昼の休みだった。


 人足たちは乾き飯を食べながら聞いていた。誰も野次を飛ばさない。飛ばすほどの興味も、もう無かったのだと思う。

 読み終えたあと、コルネオは長いこと黙っていた。


「奥方様」

「はい」

「なぜ、わしを罰せられませんので」

「罰しております。刑期は減っておりませんわ」

「役に就けるのは、罰ではございません」

「そうですわね」


 私は、水見帳の写しを袋へ戻した。


「では、正直に申し上げます。……この領には、月に二度、谷を歩いて水位を書ける者が、あなたのほかにおりません」

「……」

「ガレンには人足の頭がございます。ピノは若すぎます。若い者を二十年その庵に置けば、その子の二十年をわたくしが使うことになります」

「わしなら、使ってよいと」

「あなたは、もうその二十年を使っておいでですから」


 コルネオは石の上に座り込んだ。座り込んでから、自分の手を見た。石を運ぶ手である。爪の割れた人足の手だった。


「……わしは、何を見張ればよろしいので」


 私は、答えを持っていた。

 あの庵で最後の頁を読んだときから、たぶんずっと持っていた。


「水位です。ずっと、そうでした」


 *


 コルネオが庵へ発ったのは、その七日後である。

 荷は少なかった。着替えと、油と、帳面。それと、新しい筆を一本、こちらから渡した。


「責任者どの」

「はい」

「わしは、償いのつもりで行くのではございませんぞ」

「存じております」

「……そう申し上げておかんと、あとで格好がつきませんのでな」


 揉み手が出た。今度は最後まで出た。

 この人は、たぶん最後まで小物のままだろう。小物のまま、雪の日に谷を歩いて数字を書く。世の中の大事な記録の半分は、そういう人が書いている。残りの半分も、たいていは名前の残らない誰かである。


 南からの風が吹いていた。蛇行部の目盛りは八本半。空は晴れ。春の川に、去年よりわずかに濁りがある。上の山で、雪が解け始めた濁りだった。

本日の収支——植え付けの報 三百二十本、沙汰一件、前例なし一件。

本日の判明——嘘を配った手と、二十年欠測なく書いた手は、同じ手でございました。

本日の繰り越し——庵の鍵を、ひとつ渡しました。……あの帳面の欠測が、次はいつになるのか。わたくしは見届ける側に回ります。

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