第53話:印のない、約束
冬。雪。風、北より。
本日、王都へ紙を送る支度。——印の無い紙に、印を付ける方法を考えております。
冬の城は、書き物の季節である。
外は雪で、普請は止まる。段丘の器は第三基まで底さらいを終えて、春を待っていた。石堰は八基まで積んだ。凍る前に積めた数としては、上出来だと親方が言った。上出来と言うとき、この人は必ず「まあまあじゃ」と言う。
私は、印の無い紙を卓に置いていた。
「セラフィーナ殿。結論から申し上げます」
ヴェルナー卿は、雪の中を三日かけて来た。隈は、去年より深い。この人は季節ごとに深くなる。
「この紙のままでは、宰相府は受け取りません」
「受け取らせる方法を、伺いに参りましたの」
「三つあります。ひとつ、正式な条約にする。……これは五年かかります」
「五年」
「両国の使節、批准、境界の確認。……山は、五年待ちません」
「ふたつめは」
「握り潰す。……冗談です」
この人は冗談を言うとき、顔をまったく動かさない。
「みっつめ」
「王国の側だけで、先に紙にします」
「片側だけで」
「渇水令の運用条項に、一行足します。『上流域の森林状態を、取水配分の算定に入れる』。……これは条約ではありません。王国の内規です」
内規なら、王国が一人で決められる。
その一行が入れば、王国の帳面が山の木を数え始める。数え始めれば、伐採は王国の配分に響く数字になる。サルヴィアの王室に命令はできない。命令はできないが、向こうが炭を売る先はこちらである。
「卿。それは、条約より効きますわね」
「効きます。……ただし、書き手が要ります」
「書き手」
「その一行を、宰相府の前で読み上げる者が。私では駄目です。私は書式の人間で、現場を見ておりません」
卓の向こうで、アーベル殿が茶碗を置いた。
「私が読みます」
*
その冬、王都へ行ったのはアーベル殿ひとりだった。
私は行かなかった。行けば、話は「辺境伯夫人の陳情」になる。夏の評定で、私はそれを学んでいた。末席から二番目の陳情は、笑い声ひとつで潰れる。
水配方の代官が自分の役所の帳面を根拠に言えば、それは陳情ではなく報告になる。
王都から戻った卿の文には、こう書いてあった。
『アーベルは、渇水令を作った本人として立ちました。自分が作った令の前提が六年前から崩れていると、自分の口で申しました。役人が自分の仕事の誤りを宰相府で述べるのは、私の知るかぎり十年ぶりです』
私は、その一行を二度読んだ。
文には、読み上げた内容の写しも付いていた。
アーベル殿は、まず自分の令の前提を述べた。過去十年の平均から算定していること。その平均が、六年前から一定の割合で下がり続けていること。原因を上流の堰の操作と読んでいたが、堰が無くなった年も下がり方が止まらなかったこと。
そして、稜線の絵を出した。私が写させた、切り株の並びの絵である。
『この令は、水が今年と同じだけ来るという前提で書きました。前提が崩れております。前提が崩れた令を、私は来年も使えません』
自分の作った紙を、自分で崩しに行った人の言い方だった。
あの人は、私の領を配分表に載せなかった。今も載せていない。実地の検分は翌春のままである。
その同じ人が、自分の令の前提が崩れていると、王都の全員の前で言った。私のためではない。数字が合わなくなったからである。
この人は最後まで、そういう理由でしか動かないだろう。私は、それでいいと思うようになった。理由が数字なら、来年も再来年も、同じところに立っていてくれる。
*
卿の文には、もうひとつ書いてあった。
『東宮は、南の離宮で冬を越しておいでです。水利の議には出席なさいません』
それだけである。
去年の春、私を沼地へ追放した人は、今年の冬、南の離宮にいる。名前が出てくるのは、こういう一行の中だけになった。
私は、その一行を読んで、何も思わなかった。何も思わなかったことのほうに、少しだけ驚いた。
*
雪の晴れ間に、河原の様子を見に行った。
炭市はもう畳んでいる。かわりに、水車の土台が二つ据わっていた。
ドナル親方が石を組み、ヨナスの若い衆が三人、こちら側へ下りて手伝っている。境の杭のこちら側である。国境守の隊長が黙認していた。黙認は記録に残らない。残らないものが、いちばん早く動く。
「奥様。麻の値だが」
ヨナスが、油紙の包みから紙を出した。今度は自分で作った紙である。
「王都の値と、こっちの値が違う。おれは、どっちで書けばいい」
「どちらもお書きなさいまし。二列にして、日付を入れて」
「二列」
「値は動きます。動いた記録があると、次に叩かれたときに戻せますの」
「……あんた、それを六年やってりゃよかったのか」
「六年やっておられたではございませんか。俵ごとの値を」
ヨナスは、自分の油紙を見て、それから鼻を鳴らした。
鼻の鳴らし方が、ドナル親方とそっくりだった。国が違っても、職人は同じ鳴らし方をするらしい。
*
城へ戻ると、閣下が執務室にいた。卓の上に、渇水令の写しが広げてある。
「セラ」
「はい」
「この令は、来年もあるのか」
「……と、申しますと」
「王国の数字が変われば、令も変わる。番水はどうなる。当番表は」
私は、そこで気づいた。
この冬、私は国境の外の紙ばかり見ていた。うちの領の来年の配水を、まだ一行も書いていない。
「ジーク様」
「言え」
「うちの帳面が、遅れております」
「知っている。……だから広げた」
閣下は椅子を引いた。私の椅子である。
私は座った。座って、二人で渇水令の条項を読んだ。あの晩から数えて、五十日ぶりに同じ紙を見ていた。
仲直りをしたわけではない。仲直りの話は一度も出ていない。ただ、二人で一枚の紙を読むのは、この五十日で初めてだった。
*
その前に、書き残しておくことがひとつある。
オルムの三軒は、まだ建っていない。
冬に入って、練り土は凍る。凍る土は使えない。村長は今年も急かさない。急かさないまま、雪の下で柱だけが立っている。
帳面のその欄は、去年の秋から開いたままである。今年でいちばん長く開いている欄が、いちばん小さな仕事だというのが、私はまだ納得できていない。
器も、条約も、申し合わせも、あの三軒の屋根には一枚も届かない。届くのは、春の水だけである。
窓の外は雪である。蛇行部の目盛りは九本のまま。春の水がどれだけ来るかは、まだ誰にもわからない。
「では、渇水令はどうなさいます」
閣下が、写しの上の一行を指して言った。それは私が来年、王都へ持っていく問いだった。
窓の外の雪は、まだやまない。
本日の収支——雪の中の来客一名(隈、去年より深し)、内規の案一行、水車の土台二つ。
本日の受領——代官が、自分の作った令の誤りを宰相府で述べたとの報。……十年ぶりだそうでございます。
本日の繰り越し——「では、渇水令はどうなさいます」。……この問いは、来年の春まで持ち越します。




