第52話:山の、申し合わせ
初冬。雪のち晴。風、西より。
本日、稜線にて申し合わせ。——本日の記録には、印がひとつも捺されておりません。
場所は、稜線の鞍部にした。
どちらの国でもない場所は無い。境の杭はまっすぐ通っている。だから、杭をまたいで立つことにした。
四人が集まった。
サルヴィアの炭焼き衆から、ヨナス。
サルヴィア国境守から、白髪まじりの隊長がひとり。名は名乗らなかった。名乗れば公式になるからである。
王国から、宰相府 水配方のアーベル殿。
そしてアルドナートから、辺境伯ジークハルトと、わたくし。
閣下は、剣を城へ置いてきた。
置いてくることに意味があると、この人が判断したからである。私は何も言わなかった。この一年、水のこと以外で私がこの人に何かを言ったのは、二度だけだった。二度目は、言うべきでなかったほうである。
ピノも連れてきた。
記録係である。四人の言ったことを書き取る役を、この子に振った。書き取る役がいる場は、言った言わないにならない。それだけの理由だった。
「セラさま。おれ、字がおそいの」
「遅くて構いませんわ。聞こえたとおりに書きなさい。上手に書き直してはいけません」
「なんで」
「上手に書き直した紙は、あとで疑われますの」
*
話は、簡単ではなかった。
国境守の隊長は、最初の半刻ずっと反対していた。
「これは条約か」
「違いますわ」
「では何だ。国境で、外国の役人と、うちの民が、紙を作っている」
「申し合わせでございます」
「同じことだ」
「違います。……条約は、破れば戦でございます。申し合わせは、破っても戦になりません」
隊長は眉を寄せた。
「破られる紙を作って、どうする」
「破られたときに、誰が破ったかがわかりますの」
私は、四人の前に紙を置いた。
「この紙は、罰を持ちません。持つのは、記録だけでございます。……去年、わたくしは百年ぶんの記録に助けられました。記録は、罰より遅く効きます。遅くて構いませんの。山は二十年の話でございますから」
アーベル殿が、初めて口を開いた。
「隊長。ひとつ申し上げます」
「王国のお役人か」
「はい。私は王国の水を配る役です。……この紙が無い場合、六年後に王国は自国の作付を守るために、上流の取水を強く管理します」
「それは、そちらの国の話だ」
「取水を管理すれば、この河原の市に麦は下りてきません」
隊長は、腕を組んだ。
国境守の仕事は、境を守ることである。境の向こうから麦が来なくなれば、守る側の谷が飢える。飢えた谷は、境を越える。
この隊長は、そこを二十年見てきた人だった。
だから最初の半刻ずっと反対した。反対したのは、紙が嫌いだからではない。紙が破れたときに、いちばん先に立たされるのが自分だからである。
私は、その気持ちがわかると言わなかった。わかると言われて楽になる立場ではない。
「……脅しか」
「予測です。私は、脅しの書式を持っておりません」
この人が味方に回ったときの喋り方は、敵だったときとまったく同じだった。
*
申し合わせの中身は、四つになった。
ひとつ。伐る区を、元の順に戻す。ひとつの区を伐ったら、次の区は二十年寝かせる。
ふたつ。伐った斜面に、その年のうちに植える。
みっつ。植えている間の冬を、アルドナートが買う。麻を打つ手間賃、薬草の買い上げ、粉挽きの水車二台。
よっつ。王国側の谷筋の水場を、冬のあいだ炭焼き衆に開ける。石堰が効くまでは、汲む場所を貸すだけである。
「奥様」
ヨナスが、四つめの行を指した。
「これは、こっちが得をしすぎだ」
「そうでもございませんわ。……山が戻れば、下の谷の水が戻ります。わたくしどもは、それがいちばん欲しゅうございますの」
「二十年かかる」
「二十年でございます。だから今日、始めますの」
「……二十年経って、山が戻らなかったら」
「そのときは、この紙が残ります。何をして戻らなかったのかが、書いてございますから」
戻るかどうかは、誰にもわからない。
わからないものに二十年かける約束を、今日、四人でした。
ヨナスは、指で四つの行をもう一度なぞった。
「おれの親父は、区を守って死んだ。守っても、褒める奴はいなかった」
「……はい」
「この紙は、守ったことが残るのか」
「残りますわ。毎年、区の番号と本数を書きます。書いた紙は、両側で持ちます」
「なら、いい」
その一言で決まった。褒賞でも罰でもない。記録に名前が残る、というだけで、この人は頷いた。
私は、頷いた瞬間のヨナスの顔を見なかった。見るのは失礼な気がした。かわりに、ピノの筆が追いついているかを確かめた。追いついていた。この子は、いちばん大事なところで手が速くなる。
ドナル親方が石を積むときの顔を、私は思い出していた。合印は、褒められるために刻むものではない。百年後に読まれるために刻むものである。
職人は、たぶんどこの国でも同じことを考える。
*
ハーゲン殿は、その日、稜線には来なかった。
来なかった理由は、あとで知れた。
王国側の炭の買い手が、三軒のうち三軒とも手を引いていた。組合に回った紙のせいである。買い手のいない炭を、この人はもう買えない。
売り手のほうも、油紙の包みが出たあとで契約を切っていた。六年ぶんの値の記録を組合へ回すと言われて、争う道を選ばなかったのだと思う。この人は最後まで賢い人だった。賢い人は、負けるとわかった勝負をしない。
私は、ひとつも手を下していない。
実測を出したわけでも、法廷に引き出したわけでもない。ただ、この人以外の全員が、この人と取引しない理由を持っただけである。
去年、上流で水を売る人がいた。あの人は法廷で剥がれた。剥がれる音がした。
今年の人は、音がしなかった。ある朝、河原に馬が下りてこなくなっただけである。
どちらが胸のすく形かと言えば、去年のほうだった。どちらが山のためになるかと言えば、今年のほうである。
*
紙は二枚作った。同じ文面を二枚である。
名を書いたのは三人だった。ヨナスと、わたくしと、それからアルドナート辺境伯ジークハルト。閣下は自分の名の下に、領主の花押ではなく、ただの署名を入れた。花押は領の判である。判を捺せば領同士の約束になり、王国の許しが要る。
ヨナスが片方を、私がもう片方を持った。国境守の隊長は、見届けただけで手を触れなかった。アーベル殿は、写しを一枚だけ自分の帳面に挟んだ。
二枚とも、白いままの場所がある。封蝋を落とすべき場所である。
「夫人」
降りしなに、アーベル殿が言った。
「この紙には、王国の印がありません」
「存じております」
「印の無い紙は、宰相府では紙屑です」
「では、印の要らないところから始めますわ」
稜線の風は西からだった。雪はやんで、空が高く晴れている。振り返ると、向こう側の斜面はやはり灰色だった。
灰色のままである。今日、木は一本も生えていない。それでも、来年の春に植える場所と本数だけは、二枚の紙に書いてあった。
本日の収支——申し合わせ一件、条項四つ、紙二枚。印、なし。
本日の判明——罰を持たない紙でも、記録だけは残ります。
本日の繰り越し——白いままの場所がふたつ。……封蝋を落とす場所でございます。




