第51話:炭より、水のほうが儲かる
初冬。曇のち雪。風、なし。
本日、交換の勘定。——禁じる紙は国境で止まりますが、取引の紙は、たいてい止まりません。
紙を五枚目から書き始めた。題は「交換」である。
こちらが渡せるもの。向こうが渡せるもの。二列を書いて、まず向こうの列から埋めた。相手が何を出せるかを先に書くのは、去年バルテル卿と話したときに覚えた癖である。
サルヴィアの炭焼き衆が出せるもの。
——山の手入れ。区を切って回す知識。植える手。斜面の道。それと、冬に人手が余ること。
こちらが渡せるもの。
——冬の現金。麦と塩。水車。そして水。
「水は、渡せるのか」
執務室で、閣下が言った。
「渡せますわ。……ただし、樋ではございません」
「では何だ」
「時間でございます」
私は炭市の河原の図を出した。
河原の上手に、王国側の谷筋がある。石堰二十基を積んでいる谷である。
「石堰は雪解けを遅らせます。遅らせた水は、冬でもこの谷筋に残ります。炭焼き衆の冬小屋は、いま水を汲みに半刻下りております」
「四半刻になるか」
「四半刻になります。……人が半刻ぶん浮きますの。浮いた半刻は、冬の仕事に使えます」
水そのものではなく、水を汲む時間を渡す。
樋を国境に通せば、それは工事であり、条約であり、王都の許しが要る。時間なら、要らない。
*
冬の仕事は、三つ用意した。
ひとつは麻である。
この地方の麻は、冬に打つ。打つには水と、叩く力が要る。ドナル親方が図を引いた。
「水車じゃ。二台なら、河原の落差で回る」
「凍りませんの」
「凍る。凍る前に打ち終える段取りにすりゃええ。……嬢ちゃん、水車は水を減らさんぞ。回して、そのまま下へ流す」
「はい。ですから選びましたの」
ふたつめは薬草である。
乾いた斜面には、乾いた斜面の草が生える。伐られた山にいちばん先に戻る草の中に、王都の薬種問屋が買うものが三種あった。これはミレーヌ様の帳面から出てきた。
王都から届いた包みには、療養院の入院記録の続きが入っていた。
三百七十二人の、そのあとの分である。冬に入って、名が四十一人増えていた。増えた四十一人のうち、出身地の欄に村の名が書けない者が十一人いる。
欄には、こう書いてあった。
『国の外。稜線の向こう。炭を焼く谷』
同じ病である。腹の病。水の悪い土地に出る病だった。
文は付いていなかった。ミレーヌ様は、こういうものに手紙を添えない。かわりに、薬種の値段の写しが一枚、いちばん下に入っていた。療養院がどの草をいくらで買っているかの表である。
この人は、去年わたくしを追放させた人である。今年、こちらの交渉の材料を、値段まで揃えて送ってきた。
礼を書くべきかどうか、私は一晩考えた。
考えて、礼は書かなかった。かわりに、うちで採れる薬草の量と、乾かす場所の広さを書いて送った。あの人が欲しいのは、たぶん赦しではない。次に足せる欄のほうである。
麦は、こちらが出すことになる。うちの領に、余っている麦は無い。今年は去年の半分である。
「軍の兵糧を、冬のあいだ回す」
閣下が言ったのは、卓の図を三度見たあとだった。
「ジーク様。それは」
「今度は、来月の水ではない。麦だ。麦は、春に買い戻せる」
「買い戻す銭は」
「麻が売れれば戻る。……戻らなければ、俺の失策だ。あんたの帳面には載せるな」
「載せますわ」
「載せるな」
「載せます。失策も、成果も、同じ帳面に書きませんと、次の年に読めませんの」
閣下は、何か言いかけて、やめた。
やめた顔が、少しだけ笑っていた気がした。確かめる前に、この人は執務室を出ていった。
みっつめは、食い物だった。マルタさんが、樫の実の粥の話を聞いて三日考えた。
「奥様。晒す水を減らす手がございます」
「ございますの」
「灰でございます。灰汁で炊けば、渋は半分の水で抜けます。……うちの婆さまの代の、貧しい頃のやり方でして」
「マルタさん。それは、売れますわ」
「売るのでございますか」
「教えるのですわ。売るより高くつきますのよ」
「高く、でございますか」
「炊き方を覚えた方は、来年もこちらへ話をしに来てくださいます。……売った鍋は、来年もう来ませんもの」
マルタさんは前掛けで手を拭いて、それから灰の話をもう半刻した。灰は樫がいいとか、藁灰では弱いとか、そういう話である。
この人の婆さまの代のやり方が、国境を越えて冬の食い扶持になる。台所の知恵は、たいてい役所の紙より長生きする。
*
炭市の最終日、私はヨナスに紙を渡した。
やめろ、とは一行も書いていない。
書いたのは、こちらが何を出すか、向こうに何をしてほしいかの二列である。
してほしいことは、二つだけにした。伐る区を元の順に戻すこと。切った斜面に、植えること。
「奥様。植えるのは、金にならん」
「なりませんわ。ですから、植えている間の冬を、こちらが買います」
「……買う」
「炭を買うのではございません。手入れを買いますの。麻と、薬草と、粉挽きの手間賃で」
ヨナスは、紙を長いこと見ていた。読めない字があるらしく、指で追っていた。
「これ、二十年の話か」
「二十年の話でございます」
「あんた、二十年後にここにいるのか」
「おりますわ」
私は正直に答えた。
「わたくしは、下の谷の人間でございます。逃げる先がございません」
*
王国側の炭の買い手が、先に離れた。
アーベル殿の試算が宰相府へ回り、写しが商人の組合まで下りた。六年後に王国の作付が一割落ちる紙である。誰も、そこまで読んで炭を買いたくはない。買えば、来年の値がどう動くかわからない。
商いは、正義では動かない。先行きの読めなさで動く。
最終日の夕方、河原でハーゲン殿の声が上がった。
「契約違反です」
初めて、感じのよくない声だった。
「私はこの谷の炭を、三年ぶん先に買っています。今年の分を出さないというなら、証文の話になりますよ」
「証文か」
ヨナスが、腰の袋から油紙の包みを出した。薄い紙が、何十枚も重ねてある。
「おれも持ってる」
「……何を」
「あんたが六年、俵ごとに付けた値だ。全部ある。おれは字が下手だが、数は書ける」
河原の風が止まった。
炭焼き衆が、ひとりずつ立った。誰も何も言わない。立っただけである。
私は、そこで一歩も動かなかった。動く必要が無かった。これは、この人たちの帳面の話だった。
雪が降り始めた。この冬、初めて積もる雪である。蛇行部の目盛りは九本のまま。空は雪。河原の炭俵に、白いものが薄く積もっていった。
本日の収支——交換の紙一枚(禁止の条項なし)、水車二台の図、灰汁の炊き方一式。
本日の受領——王都から包みひとつ。文は入っておりませんでした。かわりに、薬種の値段が入っておりました。
本日の繰り越し——ヨナス親方の油紙の包み。……六年ぶんの、数字でございました。




