第50話:王法の、外側
初冬。曇。風、北より強く。
本日、打てる手を順に潰しました。——潰した数だけ、書き付けておきます。
城の卓に、紙を四枚並べた。
打てる手を、一枚に一つずつ書いてある。
一枚目、実測。
私の測量帳は四十七地点ある。去年の秋と今年の春と、この秋。三度測った。数字は正しい。
正しい数字を、誰に見せるのか。サルヴィア王室である。向こうの王室にとって、うちの井戸が枯れたことは自国の損ではない。伐採権を売って、金が入っている。売った側に「あなたの売り物のせいでうちが困っている」と言いに行くのは、買い戻しの交渉と同じことだった。
二枚目、王法。
王国古法、水条の第一。去年、私はこの一行で堰を割った。
その一行の頭には「大河ヴェルガの流水は」と書いてある。ヴェルガは王国の川である。サルヴィアの斜面は、ヴェルガではない。
「王法は、国境で止まりますわ」
三枚目を取った。剣、と書いてある。
「ジーク様。この紙は、わたくしが書きました。書いてから、二度読んで、破るのをやめました」
「なぜ破らない」
「打てない手も、打てないと書いておかないと、また思いつくからでございます」
閣下は紙を裏返して、卓の隅へ置いた。
「兵は出さん。境を越えれば戦だ。戦になれば、山はもっと伐られる」
「もっと」
「軍が食う。陣に薪が要る。あの斜面は、戦の翌年には岩になる」
この人は、剣を持っている側から剣の話をする。持っていない者より、たいてい厳しい。
四枚目。王国の損。
アーベル殿が試算を書き上げていた。六年後に王国の作付が一割落ちる。宰相府はこれを読む。読んで、動く。
ただし、動く先は王国の中だけである。王国が自国の損を並べても、サルヴィアの王室には一行も刺さらない。
しかも、伐採権を売ったサルヴィア王室にとって、あれは収入である。
王国の作付が六年後に一割落ちるという紙を向こうへ持っていけば、向こうは何と言うか。うちの国の話ではない、と言う。去年、私がバルテル卿に言われたのと同じ形の返事だった。あのときは古法の写本があった。今度は、返す紙が無い。
四枚とも、卓の上で死んでいた。
〈……三度目だわ。去年の武器が、三度効かなかった〉
一度目は相手も実測を持っていた。二度目は原因がこちら側にあった。
三度目は、国が違う。
三度とも、負け方が違うのが厄介だった。
同じ負け方を三度するなら、それは私の癖である。癖なら直せる。だが今回は、勝ち筋そのものが場所ごとに無い。去年うまくいったやり方を、私はこの一年ずっと持ち歩いていた。持ち歩いた道具が、行った先で三度とも合わなかった。
道具が悪いのではない。道具を替える時期が来ただけである。……そう自分に言い聞かせるのに、卓の前で四半刻かかった。
*
炭市の八日目、私はもう一度河原へ下りた。
市が立つあいだ、炭焼き衆は河原の上の段に野営を張る。細い木を組んで、獣の皮と麻布を掛けただけの小屋である。杭より下だから、どちらの国でもない。市が終われば畳んで帰る。
ヨナスが、鍋の前にいた。
「また数えに来たのか」
「今日は、暮らしを見に参りました」
「見て面白いもんじゃねえ」
「面白いから見るのではございませんの」
鍋の中は、粥だった。麦は少ない。かわりに何か黒いものが混ぜてある。
「これは」
「樫の実だ。粉にして混ぜる」
「渋は」
「三日水に晒す。……晒す水がな、去年から遠い」
水を汲みに、女たちが谷を半刻下りていた。
小屋の奥で、子どもが二人、寝ていた。顔が赤い。額に布が載っている。
「病人が」
「腹だ。冬の初めはいつも出る」
「毎年」
「毎年だ。……去年からは、多い」
「お医者は」
「谷に一人。婆さんだ。薬草を煎じる」
「その婆様は、何と」
「水が悪い、と言う。毎年おんなじことを言う。……言われても、汲む場所は変わらねえ」
汲む場所が変わらないから、毎年同じ病が出る。
医者を増やしても、この病は減らない。減らすには、汲む場所を近くするか、汲む水を良くするしかない。どちらも、医者の仕事ではなかった。
私は、その二人の子の年を聞いて、帳面に書いた。
書きながら、王都の療養院の帳面を思い出していた。三百七十二人。名の下に年、その下に入った日、そのまた下に出てきた土地の名。あの帳面と同じ形のものが、この小屋の中で生きて寝ている。
「ヨナス親方」
「なんだ」
「伐るのをおやめなさい、と申し上げたら、どうなさいますの」
「今年の冬に、この子らが死ぬ」
即答だった。
「奥様。おれは山が死ぬのを知ってる。親父の代の山とは別もんだ。……だがな、山が死ぬのは二十年後だ。この子は、二月後だ」
*
帰りの道は、口数が少なかった。
私は去年から、いつも同じことをしてきた。悪いことをしている者を見つけて、実測と法で押さえる。押さえれば水は戻った。戻った水を配れば、みんな喜んだ。
今回、悪いことをしている者はいる。ハーゲン殿である。
だが、その人を押さえても、樫の実を晒す水は近くならない。ヨナスは炭を焼くのをやめない。やめれば子どもが死ぬからである。
悪人を消すだけでは、何も解けない場所に来ていた。
「セラさま」
馬の横で、ピノが袋の紐を巻いていた。この子は考えているとき、必ず何かを巻く。
「あのね。ヨナスのおじさんたち、炭で冬を越すんでしょ」
「ええ」
「炭じゃないとだめなの」
「……と、申しますと」
「じゃあ、炭より儲かるものを作ればいいんじゃないの」
馬が二歩、進んだ。
私は轡を引いて、止めた。
「ピノ」
「え、なんかまちがえた」
「いいえ」
伐るなと言うから、断られる。
炭を焼く理由は木ではない。冬の現金である。冬の現金が別の形で入るなら、木は伐られない。
私は四枚の紙のことを考えた。四枚とも、相手に何かをやめさせる紙だった。
やめさせる紙は、国境を越えない。
では、越える紙は何か。
〈……取引だわ。禁じるんじゃなくて、交換する〉
私は馬上で袋から帳面を出した。ガレンが慌てて轡を取った。
「セラ様、危ねえですぜ」
「一行だけですわ」
「一行」
「忘れる前に書きます。……去年の秋に一度、思いついたことを書かずに寝て、翌朝きれいに消えておりましたの」
書いたのは、こうである。
——伐らせない紙ではなく、伐らなくて済む紙を作ること。
字は、馬に揺られてひどいことになった。読めれば構わない。読めるものだけが、翌朝まで生き残る。
北風が強かった。蛇行部の目盛りは九本。空は曇。川面に、この冬はじめての薄氷が張っていた。
本日の収支——打てない手四枚(うち一枚は破らずに保存)、炭市二度目、聞き取り一件。
本日の判明——悪い人をひとり消しても、樫の実を晒す水は近くなりません。
本日の受領——弟子の一言。……あの子は、去年からずっと、いちばん短い道を見つけます。




