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婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


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第49話:山を売った男

初冬。晴。風、北より。

本日、領境の炭市を検分。——水の話をしに、炭を見に行ってまいりました。

 炭市は、冬の始めに十日だけ立つ。

 領境の広い河原である。両側の国の者が下りてきて、片方は炭を並べ、片方は麦と塩と布を並べる。誰が決めた市でもない。百年以上そうやっているというだけの市だった。


「セラ様。ここは、どっちの国でやすかね」

「河原ですわ。どちらの国でもございませんの」


 境の杭は、河原の上の段にある。市はその下だった。杭より下は毎年水が出るので、誰も畑にしない。誰の土地でもない場所が、こういうときにいちばん使われる。


 市は、朝のうちがいちばん濃い。

 王国側は麦を積み、塩を積み、木綿の反物を立てて並べる。サルヴィア側は炭だけである。炭と、まれに獣の皮。並べるものの数が、そのまま暮らしの幅だった。

 私は炭俵を数えた。

 六百と少し。去年の綴りには、四百二十と書いてある。一年で五割増えていた。


〈……増やしてる。売れているんじゃなくて、増やされてる〉


 *


 炭を下ろしている男に声をかけた。

 背は高くない。肩から腕にかけてが、樽のように厚い。手の甲まで炭の粉が入り込んでいて、洗っても落ちないやつだった。


「ご精が出ますわね」

「……どこの奥様だ」

「下の谷の者でございます。炭のことを少し伺いたくて」

「買うのか」

「買いません。数えに参りました」


 男は初めてこちらを見た。


「数える奴は、値を叩く奴だ」

「値は叩きませんわ。俵の数と、木の太さを見に来ましたの」


 男は、しばらく黙った。それから、足元の俵をひとつ開けて、中の炭を一本つまみ上げた。


「見ろ」

「……細うございますわね」

「わかるのか」

「三年か、四年のものでしょう。去年の綴りにあった炭は、もっと太うございました」


 男は炭を戻した。手つきが丁寧だった。仕事の物を粗末に置かない手である。ドナル親方が石を置くときと、同じ角度をしていた。


「おれはヨナスだ。炭焼きの頭をやってる」

「セラフィーナと申します」

「……アルドナートの、水の奥様か」

「ご存じで」

「山の上まで聞こえてる。去年、川の水を取り返した女だと」


 *


 ヨナスは、炭焼きの話をした。

 私が聞いたのではない。細い炭を見せてしまった以上、言い訳をしないと気が済まなかったのだと思う。職人はだいたいそうである。


「太い木は、もう無え」

「上のほうまで伐りましたのね」

「伐った。……順番が狂った」

「順番」

「山の木は、区を分けて回すもんだ。ここを伐ったら、次は二十年寝かせる。おれの親父も、その親父もそうしてた」

「今は」

「今は、区が無え。上から順に、ぜんぶだ」


 ヨナスは河原の石を蹴った。


「若木まで焼いてる。若木は炭にならん。焼いても崩れる。崩れる炭を俵に詰めて、数だけ合わせてる」

「……なぜ、おやめになりませんの」

「冬を越すには、焼くしかねえ」


 それが答えだった。

 この人は、山が死ぬのを知っている。知っていて、今年の冬に死なないほうを選んでいる。順番としては、たぶん正しい。


 *


 その男は、馬に乗って河原へ下りてきた。


 外套の仕立てが違う。長靴に泥がついていない。炭市の河原に立って、長靴に泥がついていないというのは、この人が一度も荷を担いでいないという意味である。


「これはこれは。よい市日ですね」


 声も、感じがよかった。


「ハーゲンと申します。炭と、材木を扱っております」

「アルドナート辺境伯家の、セラフィーナでございます」

「存じ上げております。奥方様のお話は、こちら側でも有名です。……川を一本、法で取り返された」


 揉み手はしない。笑いすぎもしない。バルテル卿とは、まるで別の種類の男だった。


「ハーゲン殿。稜線の伐採は、あなたのお仕事でございますか」

「私の仕事です」

「隠しませんのね」

「隠すことがありません。サルヴィア王室から伐採権を買っております。証文もございます。関税も納めております」


 この人は、本当に何も隠していなかった。

 それがいちばん厄介だった。


「六年で、上端まで伐られました。表の土が流れております」

「よくご存じで」

「見てまいりました」

「では、お話が早い。——伐れば、土は流れます。それは炭を焼くという商いの、当たり前の費えです」

「費えを払っておりますのは、あなたではございませんわ」


 私は、そこで初めて声を落とした。


「うちの領の井戸は、この夏に三つ枯れました。上流の村では、三度掘って三度とも砂でございました。……それは、あなたの帳面のどの欄に載っておりますの」

「載りません」

「載せるおつもりは」

「ございません。私の帳面は、私の商いのものです」


 ハーゲン殿は、ヨナスのほうを見た。

 見られたヨナスは、目を逸らさなかった。逸らさなかったが、俵を持つ手に力が入った。


「奥方様。私は、この者たちの冬を買っております。私が買わなければ、この谷は炭を焼かずに冬を越さねばなりません」

「越せますの」

「越せないでしょう。だから私が買う。それを人は、買い叩きと呼びますが」


 この人は、自分の悪口を自分で言った。言ったうえで、まだ何も間違えていなかった。


「ヨナス。今年の分は、俵ひとつにつき銅七枚です」


 ハーゲン殿は、私に話しかけるのと同じ声で言った。


「去年は九枚だった」

「去年は太い炭でした。今年のものは崩れます。崩れる炭を九枚では、買った私が損をします」

「細いのは、伐る場所が」

「理由は結構です。物を見て値を付けます。それが商いですから」


 ヨナスは、しばらく俵を見ていた。

 それから、頷いた。

 頷いたのは、断れば冬が来るからである。断れる者と断れない者が向かい合ったとき、値は必ず断れない側へ寄る。去年、上流で水を止められたとき、こちらが同じ側に立っていた。


 *


 帰り際、私は最後にひとつだけ聞いた。


「ハーゲン殿。山を植え直すおつもりは」

「ありません」

「なぜ」

「植えた木が炭になるのは、二十年後です。私は二十年後にここにいません」


 それも、正直な答えだった。

 いる場所が違う人と、いる時間が違う人。私はこの一年、前者ばかりを相手にしてきた。


「では、こういたしましょう。奥方様」


 馬上のハーゲン殿は、河原の炭俵を見下ろして、いちばん穏やかな声で言った。


「水が欲しければ買えばいい。それが商いです」


 河原の風は北から吹いていた。蛇行部の目盛りは九本。空は晴れ。炭俵は六百と少し、去年より二百多い。

本日の収支——炭市十日のうち一日、俵六百余、細い炭を一本。

本日の受領——ヨナス親方の「冬を越すには、焼くしかねえ」。

本日の繰り越し——「水が欲しければ買えばいい」。……去年、同じことを申した方がおりました。あの方には、王法が届きました。

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