第48話:王国の数字が、味方につく日
晩秋。曇。風、北より。
本日、上流の代官所へ三度目。——本日は、こちらの数字を持ってまいりませんでした。
稜線から戻って、まず城で線を引いた。
できることと、できないことの線である。
「軍は、出せん」
閣下は、地図の縁を指で押さえて言った。夫婦の話ではなく、領主と治水の責任者の話である。この二十日、私たちはそういう喋り方だけをしている。
「境の杭を越えて兵を入れれば、木を切っているのが誰であろうと、悪いのはうちになる。……去年、上流の堰であんたが言ったことだ」
「はい」
「あのときは剣を使わずに済んだ。今度は、使う相手がいない」
相手が国の外にいるとき、剣は道具ですらない。抜けば戦になる。抜かなければ何も起きない。抜くと抜かないの間に、何もないのが今の私たちだった。
「ジーク様。ひとつだけ、確かめさせてくださいまし」
「言え」
「境の杭から二十歩、若い衆を下ろしました。わたくしの指図でございます」
「知っている」
「……お叱りは」
「二十歩は、迷子で通る。三百歩なら叱った」
閣下は地図を巻いて、それだけ言って出ていった。
あの晩のことは、まだどちらも口にしていない。それでも、この人は境の距離を測っていた。
*
旧バルテル館は、三度目である。
金の燭台はやはり無く、卓と帳面だけがある。窓は開いていない。晩秋の風は、紙をめくるには冷たすぎた。
「アーベル殿。本日は、うちの数字を持ってまいりませんでした」
「では、何を」
「そちらの数字の、来年の話をしに参りました」
アーベル殿は、筆を置いた。置いてから、こちらへ椅子を勧めた。三度目にして初めてである。
私は、稜線で写した図を卓に広げた。
斜面の絵。切り株の並び。焼き印の形。それと、こちら側とあちら側の土を握った跡の写生。
「隣国側の斜面が、上端まで伐られております。表の土が流れ、雪を留める木がございません」
「……これは、貴女がご覧に」
「二日かかりました。境の杭は越えておりません」
アーベル殿は、絵を長いこと見ていた。それから、いつもの声で言った。
「私の役所は、国境の外を測りません」
「存じております。ですから、測れる話をいたしますわ」
私は、そこで自分の帳面を出さなかった。かわりに、この人の帳面を指した。
「アーベル殿。あなたの配分表は、川に来る水の量を前提に組んでございます」
「そうです」
「その前提の数字は、どこから取っておられますの」
「過去十年の平均です」
「では、伺います。——来年の平均は、今年より上がりますか。下がりますか」
沈黙が、少し長かった。
「……下がります」
「再来年は」
「下がります」
「木の生えていない斜面は、何年かけて元に戻りますの」
「私は林の役所ではありません。ですが、私の帳面でわかることが一つあります」
アーベル殿は、初めて自分から帳面を開いた。
開いた頁は、私が去年から知りたかった頁だった。上流の流量の、十年ぶんである。
「六年前から、上流の低水期の流量が毎年落ちています。落ち方が一定です。天候の年ごとの振れではありません」
「六年」
「六年です。私は、これをバルテルの堰の操作によるものと読んでおりました。堰は去年無くなりました。今年、落ち方は止まっておりません」
この人は去年から数字を見ていた。見ていて、原因を一つ読み違えていた。読み違えたまま、正しく順を付けていた。
私は堰のせいだと思った。この人も堰のせいだと思った。二人とも、目の前にいる悪人で説明を済ませたのである。
悪人が退場したあとも数字が動き続けたとき、初めて別の理由を探す。人はそういう順でしか物を考えない。
「アーベル殿。上流の水が毎年減りますと、配分表はどうなりますの」
「上位六行から順に、割り当てを削ります」
「削られるのは、辺境ではございませんのね」
「辺境は、もう削るものがありません。……削られるのは、東の穀倉三郡です」
私は、何も足さなかった。
この人は、私が言うより先に自分で言い切る人である。
「王国の作付の四割が、六年後に一割落ちます。買えない者が七万から、いくつになるかは計算していません」
「なさいますの」
「今夜します」
*
窓の外で、初雪が降り始めた。
この年、初めての雪である。積もる気配は無い。積もらない雪ほど、渇きの年には応える。
「夫人」
「はい」
「私は初夏に、あなたの領は去年まで水に沈んでいた土地だと申しました」
「よく覚えております」
「訂正はしません。あれは表の話です。表の話をしなければ、私の役所は動きません」
アーベル殿は、稜線の絵を自分の帳面に挟んだ。挟むという動作を、この人は今日初めてした。
「ただ、表の外の話をする者が要ります。今年、この流域でそれをしたのは、あなただけでした」
「……アーベル殿」
「褒めておりません。事実の確認です」
この人は、たぶん一生こういう喋り方をする。
*
ヴェルナー卿を呼んだのは、その三日後だった。
三人で卓を囲むのは初めてである。同じ宰相府の同僚が二人と、末席から二番目の辺境伯夫人が一人。
「サルヴィア王国です」
卿が、最初にそう言った。
「稜線の向こう。伐採権は、六年前にサルヴィア王室が売り出しております。買ったのは向こうの商人。焼き印は炭材を扱う印で、王都の関税の綴りに登録がございます。名は、引けばわかります」
「六年前」
「六年前です。……セラフィーナ殿。あなたの領の水が細り始めたのと、同じ年です」
三人で線を引き直した。
水の線ではない。誰と誰が、どの紙で話せるかの線である。
アルドナートは領であって国ではない。だから隣国と条約は結べない。
王国は国だが、隣国の内政に口を出せない。伐採は合法である。売ったのは向こうの王室で、買ったのは向こうの商人だった。
王国が動けるのは、王国の損が示せたときだけ。その損は、アーベル殿が今夜から計算する。
「ではまず、王国の損を紙にいたしましょう」
「書きます」と、アーベル殿。
「宰相府に通します」と、ヴェルナー卿。
「わたくしは、向こう側の暮らしを見てまいりますわ」
二人が、同時にこちらを見た。
「夫人。境は」
「越えませんわ。……越えずに、向こうの人が来る場所がございます。炭は、どこかで売らねばなりません。売る場所には、必ず人が下りてまいります」
卿が、隈の下を指で押さえた。この人がそうするのは、感心したときである。
「セラフィーナ殿。ひとつだけ、先に申し上げておきます」
卿は、線を引き終えた紙を私のほうへ回した。
線の一本が、稜線の手前で切れている。
「王国は、隣国の山に手を出せません」
窓の外の初雪は、地面に着く前に消えていた。蛇行部の目盛りは九本。空は曇。北からの風が、館の紙をずっと鳴らしていた。
本日の収支——三度目の代官所、椅子を勧められること一度、初雪一回(積もらず)。
本日の判明——上流の水は六年前から減っております。伐採権が売り出されたのも、六年前でございます。
本日の繰り越し——王国は、隣国の山に手を出せません。……山に手を出せないなら、山を下りてくる人に会うことにいたします。




