第47話:国境の向こうの、はげ山
秋。晴。風、西より強く。
本日、稜線へ。——初雪の前に、どうしても見ておかねばならないものがございました。
稜線までは、二日かかった。
一日目は上流の谷を遡る。去年、堰があった場所を過ぎ、代官所の脇を通り、王領預かりになった村を三つ抜けた。どの村も井戸に列ができていた。列の長さで、その土地の渇き方がわかる。
途中で代官所の前を通った。門の脇でアーベル殿が立っていた。書き物の合間に外の風に当たっていたらしい。
「夫人。どちらへ」
「稜線でございます」
「境は」
「越えません」
「結構です。——越えられますと、私が書く紙が一枚増えます」
それだけ言って、この人は館へ戻った。
引き止めもしない。手も貸さない。ただ、越えるなとは言った。言い方の中に、行くことそのものを止める言葉は無かった。
二日目は、道が無くなった。
「セラさま。ここ、おれ来たとこ」
「夏に、ひとりで参りましたのね」
「うん。でも、こっからは行ってないの」
「では、ここから先は二人で参りますわ。……約束いたしましたでしょう」
ピノは、袋の紐を巻き始めた。
同行はガレンと若い衆が三人。閣下は来ていない。国境の稜線へ辺境伯が足を踏み入れれば、それは物見ではなく軍の動きになる。この人は、それを一度も口にせずに馬を出さなかった。
*
稜線に出たのは、二日目の昼過ぎだった。
風が変わった。西から強く吹いて、外套の裾を鳴らす。
私は息を整えてから、向こう側を見た。
——灰色だった。
斜面が、丸裸である。
木が無い。低木も無い。切り株が、斜面の上まで規則正しく並んでいる。並び方が規則的だということは、風で倒れたのではなく、人が順に切ったということだった。
切られた斜面は、雨の跡で筋が入っている。表の土が流れて、下の岩が見えている場所もある。
「……ひでえ」
ガレンが言った。若い衆の一人が、帽子を取った。誰かの葬式でそうするような取り方だった。
私は膝をついて、こちら側の土を掴んだ。
落ち葉と、腐った根と、湿り気。指で握ると、ほんの少し固まる。
向こう側の土は、握っても崩れた。砂である。水を抱く力が、もう無い。
斜面の下のほうに、白い煙が二筋立っていた。
いや、立ってはいない。寝ている。段丘の上から見たのと同じ寝方だった。煙の根元に、土を盛った小さな塚がいくつも並んでいる。炭を焼く窯である。
窯のまわりに、人がいた。
豆粒ほどの大きさで、何人いるかは数えられない。荷を背負って、細い道を下っていく列だけが見えた。
あの人たちは、この斜面で暮らしている。暮らすために木を切って、切った木を炭にして、どこかへ運んでいる。悪人の顔を探しに来た目には、その列はあまりに生活の形をしていた。
「ピノ。書いてくださる」
「はい」
「本日、稜線の向こう側、樹木なし。切り株、上端まで。表土、流出。……ピノ。雪は、どこに積もりますの」
「木の……根っこのとこ」
「そう。木があると、雪は木陰に残ります。日が当たらないから、遅くまで解けません」
「ないと」
「日が当たります。冬のうちに、少しずつ解けます」
少しずつ解けた水は、少しずつ流れる。少しずつ流れた水は、春に川を太らせない。
山に降った雪の量が変わっていなくても、春に来る塊は消える。
木は、水を作らない。木は、水を遅らせるだけである。遅らせる仕掛けが山からごっそり無くなれば、下の谷は同じ雪の年でも渇く。私が石堰でやろうとしていることを、山は自分でやっていた。やっていたものを、誰かが六年かけて外した。
「セラさま。だから、春の水がこなかったの?」
「……そういうことになりますわ」
二十二日ぶんが、そこにあった。
私が広場で「わかりません」と言った、残りの半分である。誰の神罰でもない。誰かが山の木を、順番に切っただけだった。
*
私はしばらく、稜線の上に立っていた。
水に、国境は引けぬ。
去年の冬、先代の遺図の最後の一葉に、その一行を見つけた。私はそれを、詩だと思っていた。百年前の技師が最後に書いた、格好のいい言葉だと。
違った。
あの人は、ここに立ったのだ。
立って、こちら側とあちら側の土を握って、同じことを知ったのである。そして自分の領のいちばん上まで器を並べる図を引いたあとで、その線を、稜線の向こうまで伸ばした。伸ばして、そこで途切れさせた。
途切れたのは、力尽きたからではない。あの人には、向こう側に手が届かなかったからだ。線を引く相手が、国の外にいたからである。
〈……あなたも、ここで止まったのね〉
百年前と、私は同じ場所に立っていた。
同じ場所に立って、同じものを見て、同じところで手が止まっている。
止まっているのは、今日までである。
「ガレン。あの斜面まで、下りられまして」
「セラ様。あれは、よその国でさ」
「存じております。——切り株を、ひとつだけ見たいのですけれど」
ガレンは、しばらく私を見て、それから若い衆を二人残して斜面を下りた。境の杭から、二十歩ほどの場所である。二十歩は、たぶん、あとで言い訳のできる距離だった。
戻ってきたガレンの顔が、変わっていた。
「セラ様。……焼き印がありやす」
「焼き印」
「切り株の、真ん中に。焼いてありやす。同じ印が、見えるかぎり全部の株に」
私は、その形を写し取らせた。
円の中に、山の形を横に倒したような線が三本。王家の紋でも、教団の印でもない。商いの印である。誰かが、この斜面の木を一本ずつ数えて、買った印だった。
*
帰りの道で、若い衆が誰にともなく言った。
「奥様。あれ、よその国の山ですよね」
「ええ」
「よその国の山を、俺たちがどうにかできるんですかい」
「できません」
私は正直に答えた。
「王法は、国境で止まります。うちの領の測量帳も、王国の配分表も、あの斜面には一行も届きません」
「じゃあ」
「ですから、別の紙が要りますわ。……どんな紙が要るのかは、まだ存じません」
「奥様が知らねえもんが、あるんですかい」
「山ほどございますわ。去年からずっと、知らないものを一つずつ潰しております」
去年、私は堰を割った。王法という紙があったからである。
その紙が、今度は無い。無いところに立って、それでも見に来てよかったと思っている自分がいた。手が届かないことと、何が起きているか知らないことは、別のことである。
初雪の匂いがした。峠の風は、もう冬の匂いを混ぜていた。
蛇行部の目盛りは、出るとき八本半。帰ったら九本になっているだろう。空は晴れ。西からの風だけが、ずっと強かった。
本日の収支——二日の行程、稜線一本、握った土 二種類。
本日の判明——山の雪が薄いのではございません。雪を留めておく木が、向こう側に無いのでございます。
本日の受領——切り株の焼き印を、一つ。……あれは、神様の印ではございませんでした。




