第46話:数珠つなぎの、器
着工の触れを出したのは、告白の六日後である。
正直に申し上げると、人は集まらないと思っていた。
当番を返上した家が二軒ある。城の門で怒鳴った男が三人いる。麦は去年の半分で、井戸は枯れて、そのうえ領主の妻が広場で自分の手落ちを読み上げたばかりだった。
朝、段丘の上へ行った。
人が、いた。
数えたら百四十を超えていた。要ると言った数より二十も多い。
列の先頭に、怒鳴った三人のうちの一人がいた。目が合ったので、私は会釈をした。その男は帽子を取って、それから鍬を担ぎ直した。
「奥様」
「はい」
「おれは、まだ許しちゃいねえですよ」
「存じております」
「うちの麦は半分だ。あんたが抜いた水のせいだ。……ですがね」
男は鍬の柄を握り直した。握り方が、去年の嵐の夜の人足たちと同じだった。
「来年も半分は、いやなんでさ」
「……ええ」
「だから来た。許したわけじゃねえ。来ただけだ」
「充分でございます。——第一基は、そちらの鍬から始めていただけますかしら」
男は、しばらく返事をしなかった。
それから列を離れて、窪みの縁まで歩いていって、真ん中に鍬を一度だけ入れた。土は硬い。一度で刃は入らなかった。二度目で入った。
入ったのを見て、後ろの百四十人が動き出した。
「セラ様。妙な集まり方でさ」
ガレンが横で言った。
「去年の嵐のときは、水が来るから集まったんでさ。今年は、来ねえのに集まってる」
「ガレン。理由をお聞きになりまして」
「聞きやした。……『去年、掘った溝が働いたのを見た』と」
それだけだった。
去年、自分の手で掘った溝が水を呑む音を、この人たちは聞いている。掘れば働く、というのを一度でも見た手は、次も掘る。信用というのは、たぶんそういう形をしている。私が広場で読み上げた数字より、あの夜の音のほうが強い。
*
第一基は、段丘のいちばん上に取った。
牛の窪みである。婆さまが「昔の溜まり」と呼んでいた場所だった。牛を追い出して、底の泥をさらう。さらうと、底の縁に石が並んでいた。
「親方」
「見とるわい」
ドナル親方は、腹這いになって縁の石に頬を寄せていた。それから、指で石の合わせ目をなぞった。
「布積みじゃ」
「五代前の」
「合印はまだ出とらん。じゃがな、この寝かせ方は、うちの積み方じゃ」
百年前の器の底に、百年前の石が残っていた。
その上に、五代目が新しい石を積む。私が図を引き、若い衆が運び、子どもが高さを測る。
底さらいは三日かかった。百年ぶんの泥である。掻き出した泥は畑へ運んだ。渇いた年の土に、湿った泥はよく効く。
土搗き唄が出たのは、二日目の午後だった。誰が始めたのかはわからない。どんと来い、と男たちが足を揃えて土を搗く。去年、堤を締めたときと同じ唄である。渇きの年に、水を呼ぶ唄で土を搗いている。誰も可笑しいとは言わなかった。
「嬢ちゃん。底はいじらんぞ」
「いじりませんわ」
「百年保ったもんの上に、百年保つもんを乗せる。……それが五代目の仕事じゃ」
*
普請場の飯は、マルタさんが仕切った。
汁物は無い。今年はどこへ行っても汁が無い。かわりに乾き飯と、塩漬けの魚と、干した果実である。城の厨から樽で運んで、段丘の上で配った。
「奥方様。水は一人あたり、竹筒に二杯まででございます」
「二杯」
「二杯でございます。……足りぬと申した者には、わたくしが順番の表をお見せいたします」
女中頭は、この一年で番水の当番表を暗記していた。
オルムの村長も、若い衆を連れて来ていた。
「村長。三軒は」
「止まったままでございます。練り土の水が、まだ」
「……はい」
「奥様。急かしはいたしませんで。ここが済めば、水は回ってまいりますでしょう」
この人は、去年からずっとこの言い方をする。急かさない、と言うことで、こちらの帳面に日付を書かせる言い方である。
私は帳面に書いた。三軒。未着手。理由、水。
この欄は、去年の秋から開いている。開いたまま冬を越し、春を越し、夏を越した。書くたびに、日付だけが伸びていく。
伸びる欄をそのままにしておくと、いつのまにか読まなくなる。だから毎回、声に出して読むことにしている。
ピノは、桶隊を四つに割って測量に出していた。読み手と書き手で一組。十四か所の高さと、器と器の間の落差。帰ってきた紙は、私が写す前に、まずピノが自分で検める。
「セラさま。第七のとこ、書き手がまちがえてるの」
「どう間違っておりまして」
「時刻。かげの線、ずれてた」
「では、どうなさいますの」
「明日、もういっぺん測りに行く」
私は、この子に何も教えていない。
教えたのは、書式と、同じ場所で同じ時刻に測るということだけである。あとは全部、間違えた紙を自分で見つけるうちに覚えた。
*
夕方、私は第一基の縁に座って帳面を書いていた。
日が落ちると、段丘の上は急に冷える。指がかじかんで、字が丸くなる。
誰かが、隣に何かを置いた。
布の包みだった。開くと、揚げ菓子が二つ入っている。まだ温かい。
顔を上げたときには、黒い外套は五歩ほど先へ行っていた。
「ジーク様」
立ち止まった。振り向かない。
「……人が要ると聞いた。警邏から、十五出した」
「十五」
「春に二十五まで削った、その二十五からだ。残る十で回す。無理はさせていない」
「……はい」
「それだけだ」
外套は、そのまま段丘を下りていった。
私は包みを膝に置いたまま、しばらく動かなかった。あの晩の話は、まだ一度も出ていない。出ていないのに、菓子は二つある。二つあるということの意味だけは、この一年で嫌というほど知っている。
一つ食べた。もう一つは、袖に仕舞った。
仕舞ってから、この仕草を誰から覚えたのかに気づいて、少し笑ってしまった。
*
帰り道、段丘の縁で足を止めた。
北の空が、うっすら白い。雲ではない。雲なら、もっと喜ばしい。
「ガレン。あれは」
「へえ……煙でやすかね」
「どのあたりですの」
「上流の、そのまた上でさ。稜線の手前あたり」
煙は、細い筋が三本。まっすぐ立たずに、斜面に沿って寝ていた。
炭を焼く煙は、寝る。薪を燃やす煙は、立つ。前世で山の仕事の人に教わったことが、なぜかこういうときだけ出てくる。
窓の外ではなく、その場で書いた。蛇行部の目盛りは八本半。空は曇。北の稜線の手前に、寝た煙が三本。
本日の収支——着工一件、集まった人百四十余(要り用より二十多い)、竹筒二杯まで、揚げ菓子二つ。
本日の判明——去年の溝の音を聞いた手は、次も掘ります。
本日の繰り越し——北の稜線の手前に、煙が三本。……立たずに、寝ておりました。




