↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
44/52

第44話:私が、湖を空にしました

 裏返した紙を表に戻したのは、夜明けの二刻前だった。


 あの晩、私は当番表の隣に去年の数字を並べて、並べたところで筆を止めた。止めてから三十四日が経っている。そのあいだに番水を回し、王都へ行き、渇きの地図を作り、石堰の図を引いた。ぜんぶ本当の仕事である。本当の仕事は、逃げるのにいちばん都合がいい。


 紙を表に戻して、私は最後まで割った。

 答えは思っていたより悪くなかった。そして思っていたより、ずっと悪かった。


 *


 厨の戸を叩いたのは、朝いちばんである。

 マルタさんはもう竈の前にいた。この人はいつ寝ているのだろうと、去年からずっと思っている。


「マルタさん。お返事が遅くなりました」


 背中が、止まった。


「……奥様」

「あれは、嘘でございますよね、と伺いましたわね」

「はい」

「嘘では、ございません」


 マルタさんは振り向かなかった。火の前で手だけが動かなくなった。


「去年の冬、わたくしはあの湖を空にいたしました。今年の渇きは、そのぶんだけ深うございます。……あの方の申していることの半分は、本当です」

「半分、でございますか」

「半分ですわ。残りの半分は、まだわかりません。わからない半分を、わかっている半分といっしょに呑み込ませるのが、あの方のやり方でございます」


 マルタさんはそこでようやくこちらを向いた。前掛けで手を拭いてから、深く息を吸った。


「奥様。三十四日、お待ちいたしました」

「はい」

「わたくし、返事が来ないうちは誰にも申しませんでした。……台所は、噂のいちばん濃い場所でございますのに」


 この人は返事を待つあいだ、火の前で流言をせき止めていたのである。

 女中頭はたぶん、この城でいちばん腕のいい堰だった。


 *


 広場に人を集めた。

 村の触れは前の晩に出した。番水の刻限を半刻ずらして、当番の村も来られるようにした。ロディから、カセルから、再建の途中のオルムからも来た。橋普請の人足も監督ごと来ている。列の端に、痩せた男が立っていた。

 私は台の上に、帳面を三冊置いた。


「今から申し上げますことは、噂として皆さまがお聞きになった話でございます。噂のほうが、先に届きました。……本来なら、わたくしが先に立つべきでした」


 人の輪の後ろに黒い外套が見えた。

 閣下は列に入らず、いちばん後ろの柵にもたれて立っている。あの晩から私たちはまだ口をきいていない。それでも、この人は来ていた。


「去年の冬、わたくしたちは禁域の谷の湖を空にいたしました」


 声は、平らに出た。


「あの湖の水は、この領の雨季ふた回りぶんでございました。その水が、今年ございません。——今年の渇きは、わたくしが空にしたせいで、深くなっております」


 ざわめきは思ったより静かだった。

 みんな、もう知っていたのである。私の口から出てくるかどうかだけを待っていた。


「数を申し上げます。この夏、この領に足りない水は、五十日ぶん。そのうち、二十八日ぶんは、あの湖が残っていれば配れました」

「……二十八日」

「二十八日でございます。残りの二十二日は、あの湖では埋まりません。今年の雪が、そもそも薄いからでございます」


 私は帳面を開いて、台の上で人のほうへ向けた。読める者は少ない。それでも向ける。数字は見せるものである。


「噂は、半分当たっておりました。半分は、わたくしの手落ちでございます。残りの半分は、まだ突き止めておりません」


 列の端で、痩せた男が揉み手をした。


「では、責任者どの。その二十二日は、どなたの罪で」

「わかりません」

「わからぬものは、神罰と申すのでございますよ」

「申しませんわ」


 私は、その男をまっすぐ見た。


「わからないものに名前を付けて配るのは、水を配るより、ずっと楽な商いでございます。……わたくしは、楽なほうをいたしません。二十二日ぶんが、どこへ行ったのか。必ず突き止めて、この帳面に書きます」


 *


 誰かが、石を投げるかもしれないと思っていた。

 投げられたのは、言葉だった。


「じゃあ、あんたのせいじゃないか」

「うちの麦、去年の半分だぞ」

「井戸が枯れて、婆さんが夏じゅう寝込んどる」


 全部、本当だった。私は一つずつ頷いた。頷くのが今日の私の仕事である。反論すれば二十八日ぶんの手落ちが薄まる。薄めてはいけない。


 輪の後ろで杖の音がした。

 白髭の古老が人の間を割って前へ出てきた。ゆっくり歩いて、台のすぐ下で止まる。


「娘さん。ひとつ聞く」

「はい」

「あの湖を抜かなんだら、どうなっとった」


 私は、答えを用意していた。用意していたが、口にするのは今日が初めてだった。


「壁が落ちておりました。去年の秋には、警告の線まで指二本半でございました。落ちれば、谷ひとつぶんの水が、一度に下へ来ます」

「下、というのは」

「カセル。ロディ。オルム。城下。……この広場も、水の下でございます」


 古老はしばらく黙っていた。それから杖の先で地面を一度叩いた。


「わしらは、去年生きた」


 誰も、何も言わなかった。


「麦は半分じゃ。井戸も枯れた。婆さんも寝とる。じゃがな、去年、わしらは生きたんじゃ。生きた者が、生きた理由に文句を言うのは、順が違うわい」

「古老。文句は、言っていただいて構いませんの」

「言うわい。来年もっと寄越せ、と言う。……今年のことは、賭けの負けとは違うでな。娘さんが勝った勘定じゃ」


 輪のどこかで、粉屋の女将の声がした。


「早く来ておくれよ、と言ったろ」

「……お待たせいたしました」

「三十四日も待たせといて、来たら全部数字だ。あんたって人は、ほんとに」


 女将は、そこで一度、袖で顔を拭いた。


「……信じるよ。去年の判は、嵐で狂わなかったからね」


 割れなかった、とは言わない。

 その日、村へ帰らずに城の門で怒鳴った男が三人いた。番水の当番を返上した家が二軒あった。それも帳面に書いた。書かなければ次の年に読めない。


 *


 夜、私は書斎で先代の遺図を広げた。


 水は嘘をつかない。目盛りが八本空いているなら、川には八本ぶんの水が無い。誰のせいでも、そこは動かない。動かないものの前では、嘘は要らないのだった。要らないものを三十四日抱えていた自分が、今日いちばん重かった。


 残りは二十二日ぶんである。

 雪が薄い理由がわかったところで、雪は増えない。増えないなら、来た水を溜めるしかない。石堰二十基で四十日。夏は九十日ある。まだ足りない。


 私は遺図の上に、自分の引いた石堰の図を重ねた。

 重ねて、指が止まった。


 大水路の線には、途中に膨らみがある。等間隔の丸い膨らみ。私はそれを工事の土取り場だと読んでいた。あるいは資材置きの窪みだと。一年ずっと、そう読んでいた。

 膨らみは段丘の縁に沿って十四。


 窓の外は、今夜も晴れている。目盛りは八本のままだった。

 水を通す道に、なぜ丸い部屋が要るのか。

 通すためなら、要らない。

本日の収支——勘定一件(三十四日遅れ)、告白一件、返上された当番二軒、怒鳴られること三度。

本日の受領——古老の一言。女将の一言。それと、後ろの柵にもたれていた人が、最後までいたこと。

本日の繰り越し——先代の線の途中に、丸い部屋が十四。……あれは、流すための線ではございません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。