第44話:私が、湖を空にしました
裏返した紙を表に戻したのは、夜明けの二刻前だった。
あの晩、私は当番表の隣に去年の数字を並べて、並べたところで筆を止めた。止めてから三十四日が経っている。そのあいだに番水を回し、王都へ行き、渇きの地図を作り、石堰の図を引いた。ぜんぶ本当の仕事である。本当の仕事は、逃げるのにいちばん都合がいい。
紙を表に戻して、私は最後まで割った。
答えは思っていたより悪くなかった。そして思っていたより、ずっと悪かった。
*
厨の戸を叩いたのは、朝いちばんである。
マルタさんはもう竈の前にいた。この人はいつ寝ているのだろうと、去年からずっと思っている。
「マルタさん。お返事が遅くなりました」
背中が、止まった。
「……奥様」
「あれは、嘘でございますよね、と伺いましたわね」
「はい」
「嘘では、ございません」
マルタさんは振り向かなかった。火の前で手だけが動かなくなった。
「去年の冬、わたくしはあの湖を空にいたしました。今年の渇きは、そのぶんだけ深うございます。……あの方の申していることの半分は、本当です」
「半分、でございますか」
「半分ですわ。残りの半分は、まだわかりません。わからない半分を、わかっている半分といっしょに呑み込ませるのが、あの方のやり方でございます」
マルタさんはそこでようやくこちらを向いた。前掛けで手を拭いてから、深く息を吸った。
「奥様。三十四日、お待ちいたしました」
「はい」
「わたくし、返事が来ないうちは誰にも申しませんでした。……台所は、噂のいちばん濃い場所でございますのに」
この人は返事を待つあいだ、火の前で流言をせき止めていたのである。
女中頭はたぶん、この城でいちばん腕のいい堰だった。
*
広場に人を集めた。
村の触れは前の晩に出した。番水の刻限を半刻ずらして、当番の村も来られるようにした。ロディから、カセルから、再建の途中のオルムからも来た。橋普請の人足も監督ごと来ている。列の端に、痩せた男が立っていた。
私は台の上に、帳面を三冊置いた。
「今から申し上げますことは、噂として皆さまがお聞きになった話でございます。噂のほうが、先に届きました。……本来なら、わたくしが先に立つべきでした」
人の輪の後ろに黒い外套が見えた。
閣下は列に入らず、いちばん後ろの柵にもたれて立っている。あの晩から私たちはまだ口をきいていない。それでも、この人は来ていた。
「去年の冬、わたくしたちは禁域の谷の湖を空にいたしました」
声は、平らに出た。
「あの湖の水は、この領の雨季ふた回りぶんでございました。その水が、今年ございません。——今年の渇きは、わたくしが空にしたせいで、深くなっております」
ざわめきは思ったより静かだった。
みんな、もう知っていたのである。私の口から出てくるかどうかだけを待っていた。
「数を申し上げます。この夏、この領に足りない水は、五十日ぶん。そのうち、二十八日ぶんは、あの湖が残っていれば配れました」
「……二十八日」
「二十八日でございます。残りの二十二日は、あの湖では埋まりません。今年の雪が、そもそも薄いからでございます」
私は帳面を開いて、台の上で人のほうへ向けた。読める者は少ない。それでも向ける。数字は見せるものである。
「噂は、半分当たっておりました。半分は、わたくしの手落ちでございます。残りの半分は、まだ突き止めておりません」
列の端で、痩せた男が揉み手をした。
「では、責任者どの。その二十二日は、どなたの罪で」
「わかりません」
「わからぬものは、神罰と申すのでございますよ」
「申しませんわ」
私は、その男をまっすぐ見た。
「わからないものに名前を付けて配るのは、水を配るより、ずっと楽な商いでございます。……わたくしは、楽なほうをいたしません。二十二日ぶんが、どこへ行ったのか。必ず突き止めて、この帳面に書きます」
*
誰かが、石を投げるかもしれないと思っていた。
投げられたのは、言葉だった。
「じゃあ、あんたのせいじゃないか」
「うちの麦、去年の半分だぞ」
「井戸が枯れて、婆さんが夏じゅう寝込んどる」
全部、本当だった。私は一つずつ頷いた。頷くのが今日の私の仕事である。反論すれば二十八日ぶんの手落ちが薄まる。薄めてはいけない。
輪の後ろで杖の音がした。
白髭の古老が人の間を割って前へ出てきた。ゆっくり歩いて、台のすぐ下で止まる。
「娘さん。ひとつ聞く」
「はい」
「あの湖を抜かなんだら、どうなっとった」
私は、答えを用意していた。用意していたが、口にするのは今日が初めてだった。
「壁が落ちておりました。去年の秋には、警告の線まで指二本半でございました。落ちれば、谷ひとつぶんの水が、一度に下へ来ます」
「下、というのは」
「カセル。ロディ。オルム。城下。……この広場も、水の下でございます」
古老はしばらく黙っていた。それから杖の先で地面を一度叩いた。
「わしらは、去年生きた」
誰も、何も言わなかった。
「麦は半分じゃ。井戸も枯れた。婆さんも寝とる。じゃがな、去年、わしらは生きたんじゃ。生きた者が、生きた理由に文句を言うのは、順が違うわい」
「古老。文句は、言っていただいて構いませんの」
「言うわい。来年もっと寄越せ、と言う。……今年のことは、賭けの負けとは違うでな。娘さんが勝った勘定じゃ」
輪のどこかで、粉屋の女将の声がした。
「早く来ておくれよ、と言ったろ」
「……お待たせいたしました」
「三十四日も待たせといて、来たら全部数字だ。あんたって人は、ほんとに」
女将は、そこで一度、袖で顔を拭いた。
「……信じるよ。去年の判は、嵐で狂わなかったからね」
割れなかった、とは言わない。
その日、村へ帰らずに城の門で怒鳴った男が三人いた。番水の当番を返上した家が二軒あった。それも帳面に書いた。書かなければ次の年に読めない。
*
夜、私は書斎で先代の遺図を広げた。
水は嘘をつかない。目盛りが八本空いているなら、川には八本ぶんの水が無い。誰のせいでも、そこは動かない。動かないものの前では、嘘は要らないのだった。要らないものを三十四日抱えていた自分が、今日いちばん重かった。
残りは二十二日ぶんである。
雪が薄い理由がわかったところで、雪は増えない。増えないなら、来た水を溜めるしかない。石堰二十基で四十日。夏は九十日ある。まだ足りない。
私は遺図の上に、自分の引いた石堰の図を重ねた。
重ねて、指が止まった。
大水路の線には、途中に膨らみがある。等間隔の丸い膨らみ。私はそれを工事の土取り場だと読んでいた。あるいは資材置きの窪みだと。一年ずっと、そう読んでいた。
膨らみは段丘の縁に沿って十四。
窓の外は、今夜も晴れている。目盛りは八本のままだった。
水を通す道に、なぜ丸い部屋が要るのか。
通すためなら、要らない。
本日の収支——勘定一件(三十四日遅れ)、告白一件、返上された当番二軒、怒鳴られること三度。
本日の受領——古老の一言。女将の一言。それと、後ろの柵にもたれていた人が、最後までいたこと。
本日の繰り越し——先代の線の途中に、丸い部屋が十四。……あれは、流すための線ではございません。




