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婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


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第43話:来月の水を、今日飲むな

 早馬は、私が鞍に足をかけたところで来た。


「オルムの井戸が、枯れやした」


 ガレンの声より先に、馬の口から泡が落ちた。私は足を戻した。稜線は逃げない。井戸は逃げる。


 オルム村の井戸は、村のいちばん低い場所にある。低い場所の井戸がいちばん粘る。その井戸が枯れたということは、この谷の地の下が、もう底を見せているということだった。

 村に着くと、釣瓶が横倒しになっていた。縄をいっぱいまで伸ばして、桶が泥を掻いた跡がある。

 再建中の家が三軒、途中で止まっていた。柱は立っている。壁が無い。壁を塗るには練り土が要り、練り土には水が要る。


「奥様」


 村長が出てきた。去年、干した果実を持ってきてくれた人である。


「せかしはしませんで。……せかしはしませんが、屋根だけは、雨季の前に」

「雨季は、来ておりますわ」

「へえ。……来ておりましたなあ」


 降らない雨季が、静かに通り過ぎようとしていた。

 私は約束をひとつ持っている。オルムを来年の雨季までに最優先で再建する。去年の秋に、この村の人たちの前で言った。今年の雨季は、あと二十日ほどで明ける。


 *


 城へ戻って、勘定をやり直した。

 練り土に要る水。三軒ぶん。井戸が枯れた村の飲み水。番水の当番表を組み替えて、どこまで回せるか。

 どう組み替えても、足りるという答えは出なかった。


「軍の水樽を回す」


 執務室で、ジーク様が言った。

 卓の上には徴募の帳面と、国境警邏の割り当てが広げてある。この人は、私が勘定しているあいだに自分の勘定を終えていた。


「城の裏に、警邏用の樽が四十ある。半分回せば、オルムの三軒は屋根まで行く」

「ジーク様」

「井戸が枯れた村に、水を持っていく。何が悪い」


 私は帳面を開いて、卓の上へ滑らせた。数字を先に出すと、春に約束したからである。


「樽四十のうち二十で、領の三日ぶんでございます」

「三日あれば足りる」

「足ります。……今月は」

「なんだと」

「その二十樽は、来月の番水から引かれますの。九月の当番表は、二十六日で組んでございます。三日引けば二十三日。二十三日目に、上の三つの村の順番が来ません」


 閣下の指が、帳面の上で止まった。


「上の三つは、どこだ」

「カセルと、その奥の二村ですわ」

「カセルの井戸は、まだ出るだろう」

「今月は出ます。来月は、わかりません。……ジーク様。これは、来月の水を今日飲むことでございます」


 執務室が、しばらく無音になった。無音の質が、悪かった。


「セラ」

「はい」

「あんたの帳面は、正しい」

「はい」

「正しい帳面の中で、オルムの三軒は今月も屋根が無い」


 その通りだった。

 私の帳面には、死ぬ者はいない。屋根の無い家が三軒あるだけである。数字の上で、それは損害ではない。


「今年の冬は、あの三軒でどう越す」

「……村の他の家へ、分けて入っていただきます」

「去年もそう言った」

「去年は、水がございました」

「去年は、水があった。だから間に合った。今年は無いから、間に合わないと、あんたは言っている」


 閣下は帳面から手を離して、窓のほうを向いた。


「間に合わない、を俺は二十年やった」


 私は、そこで黙るべきだった。

 黙らずに、口が動いた。動いた口が出したのは、いちばん短くて、いちばん切れる言葉だった。


「ジーク様。それは、二十年前のやり直しでございますわ」


 空気が、止まった。


「……いま、なんと」

「オルムの三軒に急いでおられるのは、村のためだけではございません。閣下は、丘の上から見ていた夜を、やり直そうとしておいでです」


 言い切ってしまってから、自分の声の平らさに気づいた。

 この平らさは、災害の夜に人を動かすための平らさである。人を動かすためのものを、私は今、人を止めるために使った。


 この一年で、私の耳はずいぶん器用になった。喜怒哀楽の九割を「そうか」で済ませる人の、その九割を聞き分けられるようになった。

 今夜、その耳は何も聞かなかった。

 閣下は、そうか、と言わなかったのである。一年で初めてだった。


 閣下は徴募の帳面を閉じて、卓に置いた。置き方は乱暴ではなかった。乱暴でないのが、いちばん応えた。


「水樽は、回さん」

「ジーク様」

「あんたの帳面が正しい。俺は水では、あんたに勝ったことがない」


 それは婚礼の日に、この人が村の全員の前で言った言葉である。あの日は、預けるという意味だった。

 今日は、違う意味だった。


 扉が閉まった。


 卓の上に、徴募の帳面が残っていた。

 開いて見た。国境警邏の割り当ての頁である。春に四十だった数が、三十に直してある。直した上から、また線が引いてあった。二十五。

 いつ書いたものかはわからない。わかるのは、この人が私の知らないところで、もう一度自分の持ち場を削っていたということだけだった。

 削った紙を置いて出ていく人と、正しい帳面を出した私と。どちらが冷たいのか、今夜の私には順を付けられなかった。


 *


 夕餉は、私ひとりだった。

 マルタさんが膳を運んできて、何も言わずに下がった。下がる前に、卓の端へ角灯をひとつ置いていった。まだ日は落ちていない。落ちていないのに、灯りを置いていった。

 この人には、七月からずっと返していない返事がある。返事の催促を、この人は一度もしない。かわりに灯りを置く。


 *


 その夜、私は城の中を三度歩いて、それから外へ出た。


 二十年、この人が毎晩通った道である。城から半刻。私は角灯を持たずに歩いた。持たずに歩けるくらい、月が明るい夜だった。渇きの年の空は、いつでも余計なほど晴れている。


 蛇行部の土手に、影がひとつあった。

 黒い外套。剣。何も持たない手を下げて、標の前に立っている。


 標は二本ある。

 一本は去年の春に私が立てた。もう一本は去年の秋に、この人が私に贈った。目盛りの割り付けを半刻みずらしてあって、並べて読めば読みの精度が倍になる。設計した男は、それを口説き文句に使った。


 月の光で、目盛りが白く並んでいるのが見えた。

 八本。今朝より半分ぶん、また空へ出ている。読み手のいらない目盛りが、二本の標に、揃って八つ。


 この人は、それを見ている。

 水位標を見るのが怖くなくなった、といつか言ってくれた。あの目盛りが敗け戦の数え札ではなく、ただの数字に見えるようになったと。


 今夜の目盛りは、どちらに見えているのだろう。


 私は土手の上で足を止めた。

 声をかける言葉を、三つ考えた。三つとも、数字が入っていた。数字の入っていない言葉を、私はまだ持っていない。


 風は無い。川の音も、ほとんど無い。

 黒い背中は、標のほうを向いたまま動かなかった。

本日の収支——中止一件、枯れた井戸一つ、止まった家三軒。

本日の支出——言わなくてよい一言を、ひとつ。

本日の繰り越し——目盛り八本。読む人が、今夜は二人おりました。並んでは、おりませんでしたけれど。

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