第42話:石で、雪を溜める
城の大広間に、また床を使った。
春の棚卸しのときと同じ場所である。あのとき床に引いたのは「流す」と「溜める」の線だった。今日並べたのは、王国の川筋の図と、渇きの地図と、去年からの観測帳である。
「ガレン、西の谷の流量を読み上げてくださる」
「へい。えー、去年の同じ日が、七。今年が、四」
「病人の出た村は」
「西の谷筋から、十九人でさ」
印と数字が、同じ場所で重なる。重なった場所は、西の谷筋だった。
重なるのは当たり前だった。水が減った土地から病人が出る。当たり前のことが図の上で重なると、当たり前ではないものが一つ残る。
「親方。西の谷は、去年まで水を売っていた土地ですわ」
「売っとったのう。銀十枚、月極でな」
「売れるだけあった水が、一年で半分になりました。堰は無くなったのに」
「……堰のせいじゃ、なかったちゅうことか」
私は炭を取って、図の縁に線を一本足した。王国の図には描かれていない線である。稜線と、その向こう。ピノの持ち帰った七枚目の紙に、下手な線で描いてあったものだった。
「上流が痩せたのではございません。上流の、そのまた上が痩せておりますの」
*
その日から、私の帳面は書き方が変わった。
これまで私が引いてきた線は、全部「どこへ逃がすか」の線である。分水路も、旧水門も、付け替えた川筋も。逃がす線は速い。速い線は、水を下へ持っていく。
今年、下へ持っていってはいけないのだった。速い線を、遅い線に描き直す。それが今年の仕事だった。
「親方。山に、石を積みたいのですけれど」
「山にか」
「谷の口を、堰でふさぎます。高くはございません。人の背丈ひとつ。ただし、数を作りますの」
「何をせき止める」
「雪解けと、雨でございます。……正確には、雪解けを遅くいたします」
ドナル親方は炭を借りて、床に自分で断面を描いた。石屋は口より先に手が動く。
「布積みか」
「布積みですわ。水を止め切りませんの。石の隙間から、少しずつ漏らします」
「漏らすのか。堰は止めるもんじゃろが」
「止めると、切れたときに全部いっぺんに落ちます。……去年の谷で、わたくしたちはそれを見ましたでしょう」
親方の手が止まった。禁域の谷の壁である。あれは止め切る造りだった。止め切ったまま百年、底樋を塞がれて、孕んで、そして私たちが抜いた。
「漏らす堰は、器ではなくて、蛇口の付いた鉢ですわ。春に受けて、夏まで少しずつ渡します。ひとつでは足りません。谷筋に、二十」
「二十」
「二十でございます」
親方は自分の描いた断面をじっと見て、それから石の隙間の間隔を指で示した。
「布積みは、目地を通さん。石の面を互い違いに寝かせて、水の通り道を折る」
「折ると、どうなりますの」
「遅うなる。同じ隙間でも、まっすぐ抜ける水と、三度曲がる水では、出る速さが違うんじゃ」
「……親方。それは、どこで覚えられましたの」
「家伝じゃ。ガルドの布積み、百年保つ」
五代前の名が、また出てきた。
あの人が積んだ布積みは、百年前に王家のダムの基部で使われて、それから去年、私たちの手で掘り出された。同じ積み方が、今年は山の上で雪解けを遅らせる。
「親方。ひとつだけ、確かめさせてくださいまし」
「言うてみい」
「その積み方は、水を溜めるために考えられたものですの。それとも、止めるために」
「知らん。じいさまも知らんかったろ。……ただな、嬢ちゃん」
親方は炭を置いて、手についた粉を払った。
「石屋が百年保つ積み方を残すときは、たいてい、次の代に何をさせたいか決まっとらんときじゃ」
広間が動いた。ガレンが帽子を取り、マルタさんが手を止め、若い衆が身を乗り出した。
人が身を乗り出すときの音を、私はこの一年でずいぶん聞いた。去年は水を追い出す図面で、今年は水を留める図面である。同じ音がした。
「材はどうする。石は、どこから」
「川原と、去年の普請の余りですわ。分水路の余り石が、六か所に積んでございます」
「人は」
「番水の刻限は半刻ずつ。待っている村が、必ずどこかにございます。……待っている手を、そのまま普請へ回しますの」
待たされる時間を、待つ以外に使う。渇きの年に、いちばん余っているのは水ではなく時間だった。
「セラさま。おれは」
卓の端でピノが手を挙げた。観測方の見習いは、この五日で帳面を三冊使っている。
「隊長どのには、堰の高さを測っていただきますわ。二十基ぶん」
「二十!」
「多うございましょう。ですから、桶隊で分けなさい。ひとつの堰に二人。読み手と、書き手」
「……おれ、教えるの」
「教えるのが、いちばん覚えますのよ」
この子は袋の紐を巻き始めた。巻きながら、すでに頭の中で人を割り振っている顔をしていた。
*
王都への文は、その夜のうちに書いた。宛先はヴェルナー卿である。
大水路の本年ぶんの予算は半分が凍結されている。凍結の理由は「人と水を普請に回せない」だった。ならば、回せる普請に付け替えればいい。
『大水路第一区間の掘削は、渇水令の期間中これを止め置きます。かわりに、同じ予算で谷筋の石堰二十基を積みます。掘る仕事から、積む仕事への振替でございます。掘削は水を使いますが、石積みは使いません』
文の末尾に、一行だけ足した。
『卿は以前、正しいことを通らない順番でおっしゃると、わたくしに指摘されました。今回は、通る順番で書いたつもりでございます』
返書は、五日で来た。
『通る順番でした。宰相府は振替を認めます。ただし条件がひとつ。石堰は大水路の付帯工事として起こしてください。——貴女の名前で新しい事業を起こすと、今年は必ず誰かが止めます』
卿は、いつもどおり親切ではない書き方で親切だった。
*
着工の前夜、私は図面の上でもう一度だけ勘定をした。
石堰二十基。受けられる雪解けの量。夏まで漏らす日数。番水の当番表と重ねると、二十六日が、四十日を少し越える。
四十日。夏は九十日ある。半分にも届かない。
足りない。足りないが、去年の私なら気づかなかった線が引けた。去年の私は逃がす線しか引けなかった。今年は溜める線が引ける。それは前へ進んだということである。
筆を置きかけて、私は自分の書いた数字をもう一度見た。
この勘定はぜんぶ、山に雪が積もる前提でできている。
石堰は、降った雪を溜める仕掛けである。降らない雪は、溜められない。
「……ガレン」
「へい」
「明朝、若い衆を三人。上の稜線まで、わたくしと参ります」
「セラ様。着工でやすよ」
「着工は親方にお願いいたしますわ。——器の勘定より先に、確かめるべきことがございました」
私は自分の図面を指で押さえた。押さえた指の下に、二十の堰が並んでいる。
「山の水そのものが痩せているのなら、器を作っても、意味がございません」
窓の外、蛇行部の目盛りは七本半。空は晴れている。西から乾いた風が来て、図面の端をめくっていった。
本日の収支——重ねた帳面二冊、石堰の図二十基、振替の返書一通。
本日の判明——待っている手が、いちばん余っております。
本日の繰り越し——器の勘定を、明日いったん止めます。……先に、山を見てまいります。




