第41話:病人の来た道が、地図になる
帳面には、病人の名が並んでいた。
名の下に、年。その下に、入った日。そのまた下に、出てきた土地の名が書いてある。村の名まで書いてある。村の名が無い者は、いちばん近い川の名になっていた。
「ミレーヌ様。これは、療養院の書式ではございませんわね」
「ございません。院は、名と年と病だけを取ります」
「では、この土地の欄は」
「わたくしが、足しました」
元聖女は、寝床の縁に膝をついて、水を含ませた布を老人の口に当てていた。話しながら、手は一度も止まらない。
「理由を、伺っても」
「……ございません」
その答えが、いちばん正直だった。
この人は去年、私を追放するための証言をした。今年は、病人の出てきた村を書き留めている。その間をつなぐ言葉を、この人は持っていない。持っていないから、帳面のほうが先に動いている。
私は帳面を写させてもらった。
三百七十二人。写すのに半日かかった。半日のあいだ、ミレーヌ様は一度もこちらへ来なかった。桶を運び、口を湿らせ、汚れ物を替えていた。鈴を鳴らすような声は、一度も出さなかった。
写している途中で、寝床のひとつから声をかけられた。
痩せた爺様だった。西の谷筋の村の名が、帳面の欄に書いてある。
「あんた。字が上手いのう」
「役所の書式で書いておりますの」
「役所か。役所は、水はくれんかったが」
「……はい」
「うちの村はな。井戸を三つ掘った。三つとも、砂しか出んかった」
爺様は、天井を見たまま喋った。喋りながら息を継ぐ。継ぐたびに、少し休む。
「息子が言うんじゃ。都へ行けば水があると。あるにはあったわ。あったが、わしはここで寝とる」
私は筆を止めた。止めて、帳面の欄をもう一度見た。
この人の名の下には、村の名がある。村の名の下には、いちばん近い川の名がある。その川は、うちの領の上流だった。
「爺様。井戸を掘りましたのは、いつでしょう」
「去年の秋と、今年の春と、初夏じゃ」
「掘るたびに、深く」
「深くしたわい。深くして、砂じゃ」
三度掘って、三度とも空振り。それは井戸掘りの腕の話ではない。地の下の水そのものが下がり続けているのだ。掘る速さより、下がる速さのほうが勝っている。
私は爺様の欄の隅に、小さく印をつけた。印をつけながら、この作業の名前が変わったことに気づいた。
半日前まで、これは写しだった。今は、観測である。
水位標は川にしか立たない。井戸にも立たない。人は歩く。歩いて倒れた場所に、記録が残る。この帳面は、三百七十二本の水位標だった。
「セラフィーナ様」
帰り際に、初めて呼び止められた。
「その帳面が、何かの役に立ちますでしょうか」
「立ちますわ。……ただ、何の役に立つかは、まだ申し上げられません」
「では、結構でございます」
元聖女は頭を下げて、廊下の奥へ戻っていった。
あの人の背中に向かって、私は言わなかった言葉がひとつある。ありがとう、ではない。——去年のことを許した覚えは、まだ無い。無いまま、帳面は受け取った。そういう受け取り方が、この世にはある。
*
東地区の下町で、仕立屋の看板を探した。
三軒目で当たった。表の戸を開けると、木綿の反物の匂いと、聞き覚えのある悲鳴が同時に飛んできた。
「お嬢様——!」
「リゼ。お針を持ったまま抱きつかないでくださいまし」
私の元侍女は、去年より背が伸びて、指先が固くなっていた。婚礼の衣装を縫った指である。
「王都にお越しなら文をくださいませ! わたし、床を磨きましたのに」
「三日で決まった旅ですの。……お店は、繁盛しておりまして」
「ええ、それはもう。夏物が売れませんけれど」
「夏物が」
「洗える生地が売れないのでございます。洗う水が惜しいから、汚れの目立たない色ばかりお求めになって」
王都は水に困っていない、と評定の席で言われた。困っていない都の下町では、色の濃い反物から先に売れている。
リゼは、そこで少し声を落とした。
「井戸が、細うございます」
「東地区の」
「はい。去年直していただいた側溝には、水がございます。でも井戸は、朝いちばんに行かないと濁ります。……表の水は足りて、地の下は痩せているのだと、井戸掘りの親父さんが」
私は、その一言を帳面の余白に書き留めた。
王都は水に困っていない。困っていないと言われているだけで、地の下は静かに減っている。今年の渇きは、王国の帳面がまだ数えていない場所から始まっていた。
*
帰りの馬車で、三百七十二人を地図に落とした。
膝の上に写しを広げ、王国の川筋の図を重ねる。名を一人ずつ拾って、出てきた土地に印をつける。ひとつ、ふたつ、みっつ。
「セラ」
「はい」
「休め」
「もう少しですわ」
「三刻やっている」
言われて手を止めると、指の関節が固まっていた。
閣下は向かいの席から手を伸ばして、私の膝の上の紙を、勝手に一枚めくった。めくって、印の散り方をしばらく見ていた。
「南は、少ない」
「ええ。南の郡はほとんどございません」
「東も、ない」
「東の穀倉三郡は、配分表の上位でございますから。水が回っておりますの」
印が濃いのは、北と西だった。
北はうちの領である。西は——西は、うちの領の上流だった。
私は数を書き出した。北が四十一。西が百六十八。東が九。南が三。残りは王都と、その周りである。
百六十八。三百七十二人のうち、半分近くが西から来ている。西の谷筋には、うちの領の三分の一ほどしか人が住んでいない。
王都に出てくるほど困っている人が、上流から出ている。
去年まで、上流は水を売る側だった。売れるだけの水を持っていた側である。その土地から、病人が出ている。
〈……上流も、渇いてる〉
バルテル伯の堰は、去年で無くなった。無くなったのに、上流の暮らしは楽になっていない。私は堰を割ったとき、上の水は自由になったと思った。自由になった水そのものが、減っていたのだ。
私は、印のいちばん濃い場所を指でたどった。
たどった指は、領境を越え、上流の谷を越え、そのまま図の縁で止まった。図の縁は、国境である。王国の図には、その先が描いてない。
「ジーク様。この図の、先は」
「無い。うちの図は、そこで終わる」
「終わっておりますのね」
「ああ。……終わっていない話は、たいてい、そこから始まるがな」
馬車の窓の外は曇っていた。王都の空である。
領へ入るのは明日の夕方になる。うちの空模様は、まだわからない。わからないが、たぶん晴れている。今年はずっと晴れているのだから。
本日の収支——写し三百七十二人、半日。仕立屋にて再会一件(床は磨かれておりませんでした)。
本日の判明——王都の井戸は、表よりも地の下から細っております。
本日の繰り越し——印のいちばん濃い場所は、わたくしどもの領ではございませんでした。もっと上、王国の図が終わるあたりです。




