第40話:濡れた王都で、渇きの話をする
王都へ向かう三日で、川が太っていくのがわかった。
街道は川筋に沿っている。領を出て一日目、流れは足首だった。二日目、膝。三日目の朝には、去年と同じ濁った水が堤の内側を走っていた。
同じ王国の、同じ夏である。水は、あるところにはある。
「セラ」
馬車の向かいで、ジーク様が言った。橋の普請場からこちら、二人でいるのは三日目にして初めてである。
「はい」
「評定では、俺は喋らん」
「そのほうがよろしいですわ」
「……そうか」
窓の外を見たまま、この人はそれきり黙った。
あの日のことは、まだどちらも口にしていない。口にしないまま王都へ来てしまった。荷物のいちばん底に、開けていない包みを入れて旅に出た気分である。
*
王都東地区は、建ち上がっていた。
川底より低かった三百世帯の町である。去年の秋、私が指示書を書き、リゼが人を集め、王都の職人が水を掻き出した。今は新しい石畳で、側溝には水が流れている。
流れている。ちゃんと、流れている。
子どもが水路の縁で足を洗っていた。洗い終えて、洗った水を側溝へ捨てた。
うちの領なら、あの一杯は洗い物の順で、しかも刻限のうちにしか使えない。ここでは、ただ捨てられて溝を行く。
責める気は、これっぽっちも無い。この町の水を戻したのは私である。私が戻した水が、あたりまえに捨てられている。それは、成功と呼ぶべきものだった。
〈……成功が、こんなに乾いて見えるとは思わなかったわ〉
*
水利評定は、宰相府の大広間で開かれた。
諸侯と郡の代表、それに宰相府の役人が卓を囲む。上座に宰相。ヴェルナー卿は書記の席で、いつもどおり隈が深い。
私は末席から二番目に座らされた。大水路の総責任者として召喚されておきながら、席は末席から二番目である。席次は、たいてい正直だった。
議題は、渇水令の運用だった。
アーベル殿が立った。図面も持たず、帳面一冊で喋る。
「本年の融雪は平年の六割五分。配分表二十三行のうち、上位六行で王国の作付の七割を賄います。渇水令の目的は、飢える者の数を最小にすることにあります」
数字が、静かに並んでいく。
誰も反論しない。反論できる形をしていないからである。
私は挙手して、立った。
「アルドナート辺境伯領、セラフィーナと申します。——上位六行のご説明に、異議はございません」
「では」
「その上で、二十三行の外の話をいたします」
広間の空気が、ほんの少しだけこちらを向いた。
「わたくしどもの領は、配分表に行がございません。届出が無いためでございます。ですが今年、この領の支流は三本のうち一本が初夏に切れ、蛇行部の目盛りは七本露出しております。四十年前の渇きの年より、二月早うございます」
「夫人。その数字は私も持っております」
「存じております。ですから、数字の話はいたしません。——欄の話をいたしますわ」
私は懐から届出の書式を出して、卓に置いた。
「この書式は、水を引いてきた土地のためにできております。引く必要が無かった土地は、欄が空きます。空いた欄は『要らない』と読まれます。……百年沈んでいた土地は、この紙の上では永久に水を要らない土地でございます」
「制度の話ですね」
「ええ。ですから、今年ぶんの配分を求めておりません。求めますのは、来年の表に行を立てるための実地の検分でございます。人ひとり、二日で済みますわ」
アーベル殿は帳面を閉じて、私のほうを見た。
「検分は、私の役所の仕事です」
「ええ」
「二日では済みません。四十七地点あります。……夫人が去年、ご自分で測られた地点の数です」
この人は、私の帳面の頁数を覚えている。覚えていて、席の上ではひとつも味方をしない。
「では、四日と申し上げ直しますわ」
「四日。それなら、書けます」
上座が、少し動いた。手応えのようなものが、確かにあった。
その手応えを潰したのは、卓の中ほどからの声だった。
「——沼地の伯爵夫人が、都の水を分けろと」
笑いが起きた。大きくはない。大きくない笑いのほうが、よく刺さる。
「去年は都を救った英雄だ。今年は都に無心か」
私は口を開こうとした。開く前に、隣で椅子が鳴った。
「アルドナート辺境伯、ジークハルトだ」
閣下が立っていた。剣は入口で預けている。何も持たずに、ただ立っていた。
「妻は無心をしていない。検分を求めた。二日で済むと言った」
「……これは、閣下」
「俺の領は去年、この都の水を抜いた。図面も人も出して、金は取っていない。今年うちが求めるのは、紙に一行だ」
それだけ言って、閣下は座った。
喋ったのは、息を三つぶんほどである。剣は抜いていない。抜かずに、名前だけを卓の上に置いた。笑いは止まった。
止まったが、決定は変わらなかった。
宰相府の裁定はこうである。実地の検分は行う。ただし本年度中は人が出せないため、翌春。あわせて渇水令の期間中、王国事業である大水路の本年ぶんの予算は、半分を凍結する。人と水を普請に回せないという理由だった。
正しい理由である。正しい理由で、私の手は二本とも塞がった。
散会のあと、ヴェルナー卿が書記の席から降りてきた。硯を片付けながら、こちらを見ずに言う。
「セラフィーナ殿。本日、貴女は負けておりません」
「半分凍結でございますわ」
「凍結は解けます。行の無い表に行が立つほうが、よほど難しい。……四日の検分をもぎ取ったのは、今日この部屋で唯一動いた石です」
「動いたのは、翌春でございましょう」
「翌春です。私も、そこは弁護いたしません」
卿は硯を包み終えて、初めて顔を上げた。
「ひとつだけ。アーベルが四十七という数を出したのは、貴女を潰すためではありません。あれは、二日と書いた紙を宰相府が突き返すからです」
「……卿」
「私は貴女の味方ではありません。ですが、書式の味方ではあります」
*
評定のあと、私は療養院へ回った。
王都の療養院は、東地区の外れにある。夏の病人が多い季節で、廊下にまで寝床が出ていた。渇きの病者だという。水が足りない土地から出てきて、王都で倒れる者がこの夏は多いのだと、若い医師が言った。
その廊下の端で、桶を運ぶ人がいた。
地味な木綿。髪は結い上げて、首の後ろで留めてある。鈴の音はしなかった。
「……ミレーヌ様」
「セラフィーナ様」
元聖女は、桶を置いてから頭を下げた。抑揚のない静かな声だった。あの日の、素の声である。
「立ち話は、いたしません。ここは病人の廊下ですので」
「ええ」
「ひとつだけ、お渡ししたいものがございます」
廊下の高窓の外は、まだ雨だった。王都の空はよく濡れている。同じ王国で、同じ夏である。
ミレーヌ様は、前掛けの下から綴じた帳面を出した。表紙は薄い。中身は厚い。
「病人の来た道を、書き留めてございます」
本日の収支——三日の道中、評定一件、席は末席から二番目。
本日の判明——王都は、水に困っておりません。困った記憶なら、去年たっぷり作りました。
本日の受領——検分の約束(ただし翌春)。夫の名前を、一度。それと、厚い帳面をひとつ。




