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婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


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第39話:弟子が、独りで測った

 捜索の指図をしながら、私は自分の声が平らなのに気づいていた。

 平らな声で人は動く。震えた声では動かない。去年の嵐でそれを覚えた。覚えたおかげで、今夜も帳面のように喋れている。


「上の水源までの道は、三本ございます。川沿い、尾根筋、それから炭焼きの古道」

「セラ様。夜の尾根筋は、灯りが要りやす」

「ガレン、角灯を全部お出しなさい。油は惜しみません。人は惜しみます。——二人一組。ひとりで行かせないこと」


 ひとりで行かせないこと。今日の昼まで、私が一度も言わなかった言葉である。


 馬が三頭、門を出た。

 いちばん先に出たのは、黒い馬だった。閣下は何も言わずに鞍に乗り、川沿いの道へ向かった。橋の普請場で別れてから、私とは一言も交わしていない。

 交わしていないが、いちばん先に出た。この人の言葉は、たいてい馬の速さで届く。


 *


 夜半に、川沿いの組が一度戻った。

 閣下は馬から降りずに、ガレンへ短く指図しただけだった。炭焼きの古道へ回る、灯りを二つ寄越せ、それだけである。私のほうは見なかった。見ないまま、また出ていった。

 見ないというのは、この人にしては忙しい合図である。怒っているときのこの人は、たいてい何も見ない。何も見ないまま、いちばん遠い道を選ぶ。


 ピノは、夜明け前に自分で帰ってきた。


 門の前で、桶隊の子が先に見つけて叫んだ。土まみれで、片方の靴が無くて、それでも肩から帳面の袋を提げていた。袋だけは、きちんと乾いていた。

 私は駆け寄って、その子の両肩を掴んだ。掴んでから、掴む力が強すぎることに気づいて緩めた。


「ピノ」

「……セラさま」

「お怪我は」

「ない。足だけ、ちょっと」


 私は、しばらく言葉を選んだ。選んで、いちばん短いものにした。


「ひとりで行ってはいけません」

「……はい」

「日暮れまでに戻ると申しました。戻りませんでした」

「……はい」

「約束を破った人は、次から連れて行っていただけませんの。現場は、そういう場所ですわ」


 ピノは、泣かなかった。

 この子は水路のことになると度胸が据わる。据わったまま、両手で袋を抱え直した。


「セラさま。おこられるまえに、ひとつだけ言っていい」

「どうぞ」

「おれ、測ってきたの」


 *


 城の卓に、袋の中身を並べた。

 紙が七枚。木の枝を削った物差しが一本。それと、拾った石がひとつ。石はたぶん、ただの宝物である。


 七枚は、水位の記録だった。

 場所の名。時刻。目盛りの読み。同じ書式が七枚。私が教えた書式である。教えたのは春で、教えたときこの子は、日付の欄を三度書き間違えた。


「ピノ。時刻は、どうやって」

「かげ。棒立てて、線ひいて」

「親方の影棒ですのね」

「うん。まねした。線は、朝に一回ひいて、あとはずっと同じとこで測ったの」


 同じ場所。同じ時刻。同じ読み手。

 昨日アーベル殿に良い帳面と言われた条件を、この子は誰にも言われずに揃えていた。


「ガレン。これを写して、観測帳の綴りへ入れてくださいまし」

「へい。……子どもの紙をでやすか」

「いいえ」


 私は七枚を揃えて、いちばん上の余白に日付と名を書いた。


「観測方の記録ですわ。書いた者の名を入れます。——ピノ」

「え」

「あなたは今日から、桶隊の隊長であり、この領の観測方の見習いです。叱られるのも、名が残るのも、両方ついてまいりますの。よろしくて」


 ピノは、口を半分開けたまま私を見ていた。

 それから、急に真っ赤になって、袋の紐をぐるぐる巻き始めた。うれしいときにこの子が何かを巻くのは、去年からの癖である。

 巻き終わって、それから小さい声で言った。


「セラさま。おれ、どうして行ったか、聞かないの」

「聞きますわ。もう叱り終えましたから」

「……このまえ、桶たたいてたら。おばさんが、耳ふさいだの」


 手が止まった。私の手である。


「魔女の触れ役、って」

「ピノ」

「セラさまは、去年、水の恵みの方って呼ばれてたのに」


 呼び名は水位より速く動く、と私はこの間ひとりで考えた。考えて、帳面に書いて、それきりにした。この子はその間ずっと、桶を叩いて歩いていたのである。


「だから、上を見てきたの。ほんとうに水がないなら、なんでないか、わかれば」

「……わかれば」

「セラさまが、悪くないってわかるでしょ」


 私は答えなかった。

 答えなかったのは、うまい返しを思いつかなかったからではない。悪くない、と言ってもらえる立場に自分がいるのか、その勘定を私はまだ済ませていない。済ませていない勘定の上に、子どもを立たせるわけにいかなかった。


「ピノ。ひとつだけ約束をいたしましょう」

「なに」

「次は、わたくしと参ります。二人で行けば、記録は倍でございますわ」

「……うん」


 ピノは紐を巻く手を止めて、卓の紙を一枚だけ引き寄せた。いちばん下の、皺の寄った紙である。


「セラさま。それでね、報告があるの」

「どうぞ。観測方の見習いどの」

「上のほう、へんだった」

「へん、と申しますと」

「上のほう、へんだった」

「へん、と申しますと」

「水が細いのは、わかってたの。でも、細いだけじゃなくて」


 ピノは、削った物差しの先で卓を指した。指の先には何も無い。この子の頭の中には、稜線があった。


「山の斜面が、はげてた」


 卓が動く音がした。ドナル親方が椅子を引いた音だった。


「はげとる、とは」

「木が、ない。ずーっと上まで。灰色なの。切った跡がいっぱいあるの」

「切った跡か。……嬢ちゃん」

「親方」

「山の木が無いと、雪はどうなる」


 私は答えを持っていた。持っていたが、口に出すのに少し時間がかかった。


「根雪が、早く消えますわ」

「早く消えると」

「春にまとまって来るはずの水が、冬のうちに少しずつ流れて、消えます。——溜まらないのですわ。山そのものが」


 番水も、溜め池も、私が今年組んだ手はすべて、来た水をどう配るかの手である。来る水そのものが減っているのなら、配る技は上手くなるばかりで、量は増えない。


〈……上流の話じゃないわ。これは、上流の、そのまた上の話〉


 私は七枚を一枚ずつ見直した。

 六枚は、川沿いと谷筋の水位である。最後の一枚だけ、書式が違った。

 紙の隅に、下手な線で山の形が描いてある。稜線がひとつ。稜線の向こう側にも、線が続いていた。


「ピノ。この向こう側は」

「そこまでは行ってないの。見えただけ」

「見えた——」

「うん。ずっと向こうまで、はげてた」


 稜線の向こうは、この国ではない。

 窓の外が白み始めていた。蛇行部の目盛りは七本。空は晴れ。捜索に出た角灯の火が、谷の道を戻ってくるのが見えた。火はぜんぶで六つ、出したときと同じ数だった。

本日の収支——捜索一夜、角灯六、弟子の帰還一名(靴は片方)。

本日の受領——観測記録七枚。うち一枚は、書式の外。

本日の繰り越し——稜線の、向こう側。……あの線は、去年の春に一度見た覚えがあります。先代の遺図の、最後の一枚で。

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