第38話:殴らせない
噂が水路に手を出したのは、雨季の入りから十七日目だった。
「セラ様。第二の口の栓が、夜のうちに抜かれてやした」
「盗みですの」
「それが妙でして。抜いたやつは、水を自分の田に引いてねえんでさ。ただ、開けただけで」
開けただけ。誰の得にもならない。
得にならないことをするのは、たいてい、得より大事なものがあるときである。
「祈りですわね」
「……へ」
「水神様の水を、人が刻限で切っている。それが恐ろしくなった方がいらしたのですわ」
「ガレン。栓を抜いた方を捜さないでくださいまし」
「捜さねえんで」
「捜して縛れば、話が太ります。……わたくしが橋へ参りますわ」
*
橋の普請場は、昼の休みだった。
石の陰に人が座って乾き飯を食べている。その輪の真ん中に、痩せた男が立っていた。人足の身なりで、法衣ではない。それでも立ち方だけは、説教壇の立ち方だった。
「よろしいですかな。水神様は、貸してくださっていたのです」
コルネオである。
「百年、この谷は沈みました。沈んだのは、この土地が古くから背いておったからでございます。……そこへ都のお嬢様がおいでになって、水の道を曲げ、水神様の貯えを抜かれた。翌年、雨が来ぬ。神は、貸したものをお返しいただいているだけでございますぞ」
輪の中に、うなずく者がいた。うなずかない者も、否定はしなかった。
私は輪の外で馬を下りた。
「コルネオ殿」
「これは、責任者どの」
揉み手である。人足の身なりで揉み手をする。
「お説きになるのは構いませんわ。ただ、事実をふたつ足させてくださいまし。ひとつ、谷の湖を抜いた理由は、壁の——」
「奥方様は、去年もそうやって数字をお出しになった」
遮られた。遮り方が上手い。
「数字は、お強うございます。わしのような者には返せません。……ですが皆の衆、返せぬということと、間違っておるということは、違いますでな」
輪から、低い笑いが漏れた。
私は口を開きかけて、閉じた。ここで数字を出せば、この人の筋書きどおり、返せぬ者を数字で黙らせる領主ができあがる。
輪の端で、若い人足がひとり立ち上がった。オルムの生き残りである。去年の嵐の夜、婆さんを負ぶって丘へ走った村の若い衆だった。
「奥様は、うちの村を助けてくださった」
「存じておりますとも」
コルネオは、うなずいた。うなずいて、優しい声を出した。
「去年、あなた様は助かった。……では伺いますがな。今年、あなた様の畑の麦は、どうでございます」
若い人足は、答えなかった。答えられなかったのだと思う。
私が去年配ったのは、あの村の命である。今年あの村に配れていないのは、麦の水だった。命と麦を並べて秤に載せるのは卑怯だが、卑怯な秤ほどよく釣り合って見える。
若い人足は座った。座らせたのは、私の側の空白だった。
馬蹄が近づいた。
黒い馬。剣。ジーク様である。この現場は領の普請で、監督は領の役人だから、来るのは当たり前だった。当たり前の日に、当たり前でないものを聞いてしまっただけである。
コルネオは閣下を見た。見て、少しだけ声を大きくした。
「閣下。……閣下がいちばん、ご存じでございましょう。この土地が長く水に沈んできたことを」
「……」
「先の奥方様と、姫様が流れなさった夜も——」
空気が、動いた。
黒い外套が馬を離れ、二歩で輪を割った。人足が飛びのいた。閣下の手がコルネオの襟を掴み、痩せた体を石の上まで引き上げる。
拳が、上がった。
「ジーク様」
私はその腕を掴んだ。
掴んだところで止まる腕ではない。去年の嵐で土嚢を人の倍の速さで積んだ腕である。私の手など、乗っているだけだった。
「離せ」
「離しません」
「こいつは、今」
「存じております。全部、聞いておりました」
閣下の腕は動かなかった。動かないまま、震えていた。
「ジーク様。……殴ったら、あの方のお話が本当になります」
拳が、止まった。
「この方には、罰する先がもうございません。大聖堂は扉が閉じ、大司祭は流刑、勘定方は解体されました。この方を黙らせられるのは、この領の主だけですの」
「なら、黙らせて何が悪い」
「明日から、話が変わりますわ。水を曲げた報いの話ではなく、領主が人足の口を塞いだ話になります。……そちらのほうが、よく流れますのよ」
閣下は、しばらく動かなかった。
それから襟を離した。コルネオが石の上に尻から落ちた。落ちながら、この男は乱れた襟を直していた。直す余裕がある。それを見て、私は自分の判断が正しかったことと、正しさが少しも気持ちよくないことを、同時に知った。
閣下は、私を見なかった。
馬の口を取って、輪の外へ歩き出す。人足たちが道を空けた。空いた道の真ん中で、閣下は一度だけ止まった。
「セラ」
「はい」
「……あんたの言うことは、正しい」
それだけだった。
そうか、ではなかった。この人がそうかを使わなかったのは、預けてもいないし、労ってもいないからである。正しいと言われた。ただそれだけを言われた。
〈……いちばん痛いところを、この人はいつも短い言葉で刺してくるわ〉
馬蹄が遠ざかった。私は輪の中に残された。残されたまま、乾き飯を食べる人足たちに番水の当番表の話をした。話せることが、それしか無かったからである。
誰も笑わなかったし、誰も遮らなかった。当番表の刻限を、三人が指で数えていた。数えているうちは、まだこちらの紙が生きている。
帰り際、ガレンが馬を寄せてきた。
「セラ様。閣下は、あっしが追いやしょうか」
「およしなさい」
「ですが」
「ガレン。あの方は今、怒っていらっしゃるのではありませんの」
「へえ」
「止められたことに、まだ礼を言えないでおいでなのですわ。……あれは、時間のかかる種類の言葉ですから」
*
城へ戻ったのは日暮れだった。
門のところで、桶隊の子どもが二人待っていた。二人とも桶を抱えていない。桶隊が桶を持たずにいるのは、隊の用ではないという意味である。
「セラさま」
「どうなさったの」
「隊長が、いないの」
「……ピノが」
「朝、上の水源を見てくるって。ひとりで。夕方には戻るって言ったのに、戻らないの」
上の水源。領境より、さらに上である。
私はあの子に、上流の測り方を教えた。教えたのは春だった。教えたとき、ひとりで行ってはいけないとは言わなかった。言う必要があると思わなかったからである。
空を見た。夏の日暮れは長い。長いが、無限ではない。
蛇行部の目盛りは六本と半分。空は晴れ。風は、なかった。
本日の収支——抜かれた栓ひとつ、遮られた説明ひとつ、止めた拳ひとつ。
本日の支出——夫の「そうか」を、一度。
本日の未着——弟子が、一名。




