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婚約破棄された悪役令嬢は、水没する辺境領を治水で蘇らせる 〜「三月で逃げ帰る」と笑われましたが、濁流を手なずけて溺愛されています〜  作者: 蒼井リリス


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第37話:眠れる雨季でした、たしかに

 雨季の入りの日、領は去年と同じ配置についた。

 蛇行部の水門小屋に指揮所。ガレン班が伝令。丘の鐘はピノ。ジーク様の持ち場は、去年と同じく「全部」だそうである。

 土嚢は三千積んだ。角灯の油も足した。オルム村には、避難の順と道を書いた札を配り直した。


 そして、何も来なかった。


 一日目。曇。降雨なし。

 三日目。晴。降雨なし。

 七日目。夜半に降った。指の腹が濡れる程度で、朝には土が白かった。

 十日目。晴。

 十四日目。晴。


 十四日目の朝、私は指揮所の戸を開けて土嚢の山を見た。三千の袋が乾いたまま積んである。乾いた土嚢は、ただの重い袋である。


 畑を回った。

 番水は回っている。回っているが、麦の丈が去年の同じ日より短い。水をやった翌日は立ち、三日目には葉先が巻く。巻いた葉は、その日の水では戻らない。

 ドナル親方が畦に屈んで、土を掘り返した。


「嬢ちゃん。上は湿っとる。下が乾いとる」

「根の下でございますわね」

「そうよ。表だけ濡らして、根まで届いとらん。半刻ぽっちじゃ、こうなる」

「刻限を延ばせば、口の数が減りますわ」

「減るのう。どっちも正しいのが、いちばん困る」

「親方。根まで届く刻限を、麦の丈から逆に割り出せませんかしら」

「割り出せる。割り出したところで、水が足らんのは変わらんぞ」

「変わりませんわ。ですが、どれだけ足りないかがわかります」

「……嬢ちゃんは、足らんとわかるのが好きじゃのう」

「好きではございません。得意なだけですの」


 どちらも正しい。この夏、その言い回しを何度聞いただろう。


 その日、オルム村から人が来た。村長と、若い衆が三人。手土産に干した果実を持っていた。渇きの年の手土産としては重すぎる。


「奥様。今年は、誰も逃げずに済みました」


 村長が言った。


「去年は夜中に鐘で叩き起こされて、婆さんを負ぶって丘まで走りましたで。今年は寝ておりました。十四日、ずっと寝ておりました」

「……はい」

「奥様が去年おっしゃった。来年の雨季は眠れる雨季にすると。……果たしていただきました」


 若い衆が頭を下げた。三人とも、深く下げた。

 私は、下げられた頭を見ていた。


「村長。ひとつだけ申し上げます」

「へえ」

「これは、わたくしが果たしたのではございません」


 村長が顔を上げた。


「雨が来ないので、誰も溺れないだけですの。分水路は一本も働いておりません。旧水門も開けておりません。……今年の眠れる雨季は、水がわたくしどもを許したのではなく、水がまだ来ていないだけでございます」

「奥様。それでも、わしらは寝られましたで」

「はい」

「寝られたのは、寝ても大丈夫だと思えたからでさ。それは去年の普請のおかげでございます」


 この村の人たちは、ときどき、ひどく上手いことを言う。

 礼を受け取った。受け取って、帳面の隅に小さく書いた。約束、形の上で履行。形の上で、と書くのに、なぜか筆が重かった。


 *


 流言は、水よりも上流から来る。

 最初に耳へ入れてきたのは、マルタさんではなくガレンだった。


「セラ様。井戸端で、おかしな話が出ておりやす」

「聞かせてくださる」

「……去年、禁域の谷の湖を抜いた。あれが水神様の貯えで、抜いた翌年に雨が来ねえ、と」

「言い出した方の名は」

「橋の人足でさ。ですが、もう名前は要りやせん。喋ってるのは井戸端の女衆で」

「番水に、障りは」

「……昨日、第五の口の当番が半刻遅れやした。村の三軒が、祈祷に出ておりやして」


 祈祷に出ていた。

 水を配る刻限に、水を乞いに行っていたのである。責める気にはならなかった。責める気にならないのが、いちばん厄介だった。


 桶隊の子どもも言われている、とあとで聞いた。桶を叩いて刻限を触れて回ると、口を覆う仕草をされる。魔女の触れ役、と呼ばれた子がいる。去年、この子たちは水の恵みの方の遣いだった。呼び名は、水位より速く動く。


 私は井戸端へ行った。

 行けば止まるとは思っていない。行かなければ、何を言われているかがわからない。


 女衆は私を見ると口をつぐんだ。つぐんでから、粉屋の女将が前へ出た。去年、広場で真っ先に手を挙げた人である。


「奥方様。ひとつ、はっきりさせてくださいな」

「どうぞ」

「去年の冬、谷の湖を抜きなすったのは、ほんとうかね」

「本当ですわ」

「どのくらい」

「……この領の、雨季ふた回りぶんでございます」


 女衆の輪が、ひとつぶん広がった。


「そんなに」

「そんなに、ございました」

「それを抜いたら、そりゃあ」


 女将は、そこで言葉を切った。切ったのは、私を庇ったからだと思う。


「女将。あの湖は、抜かなければ壁が落ちておりました」

「聞いてるよ」

「壁が落ちれば、この谷は——」


 私は、そこで止まった。

 言おうとしたのは、この谷は全部死んでいました、である。去年の冬、私はその言葉で領民を説得した。あのときは正しかった。今も正しい。正しいのに、口の中で止まった。


 止まったのは、その先を私がまだ勘定していないからだった。

 抜いた水と、今年足りない水。ふたつの数字を並べたところで、私は紙を裏返した。裏返したまま、十日以上が経っている。

 並べていない数字を根拠に、私は今この人たちへ何を言おうとしたのか。


〈……先に、勘定しなさい〉


 私は女将に頭を下げた。


「今、答えを持っておりません。持ってから、もう一度参りますわ」

「奥方様が、答えを持たんことがあるのかね」

「ございますわ。持たないときに持ったふりをするのが、いちばん高くつきますの」


 女将はしばらく私を見ていた。それから桶を持ち上げて、井戸のほうへ戻った。戻り際に、小さく言った。


「……早く来ておくれよ」


 早く来ておくれ。

 去年の渇きのとき、この人は畑が三番なのはなぜだと私に食ってかかった。食ってかかって、答えを聞いて、納得して、それから隣の女房を説き伏せて回ってくれた。あのとき私が持っていたのは、麦は十日待てるという数字ひとつである。

 今日は、それを持っていなかった。持っていない私を、この人はまだ待ってくれている。待ってもらえる期限は、たぶん、そう長くない。


 *


 城へ帰ると、マルタさんが玄関の段で待っていた。

 手に絞り布を持っている。持ったまま、絞りもせずに立っていた。


「奥様」

「マルタさん」

「井戸端のお話を、聞きましてございます」


 マルタさんは、私と目を合わせなかった。この人が目を合わせないのは、初めてだった。


「奥様。あれは、嘘でございますよね」


 夏の日暮れは長い。長い日暮れのあいだ、私は返事をしなかった。

 蛇行部の目盛りは六本。空は晴れ。東からの風が、乾いた土の匂いだけを運んできた。

本日の収支——雨季の入りより十四日、降雨なし、出動なし、土嚢三千(未使用)。

本日の受領——オルム村より、礼をひとつ。

本日の未払い——女中頭への返事を、一件。

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