第36話:水を、時間で分ける
待つ、という手はいちばん安い。金も人もかからない。安い手には、たいてい利息がつく。
「待ちません」
広間で、私はそう申し上げた。
「王都は、この夏この領へ水を回してくださいません。代官殿がはっきりおっしゃいました。……はっきり言っていただけたのは、ありがたいことですわ」
「ありがたい、でやすか」
「ええ。待つ理由が、ひとつも残りませんもの」
ジーク様が卓の端で腕を組んだ。
「なら、どうする」
「ある水を、配りますわ」
「去年もやった」
「去年は、順番を決めました。今年は、そこに時間を足します」
私は炭を取って、床に水路を一本引いた。口を六つ、櫛の歯のように描く。
「番水と申します」
「ばんすい?」
「水を、時間で分けるのですわ。……今までは、六つの口をぜんぶ開けておりました。上の口から順に、余った水が下へ落ちてまいります。渇きの年にこれをいたしますと」
「下まで来ねえな」
「参りません。上の田は足りて、下の田は枯れます。同じ量の水で、村がひとつ死にますの」
「じゃあ、どうする」
「五つ閉めます。ひとつだけ開けますの。半刻ずつ」
「阿呆な」
古老だった。杖の先で床の炭の線を叩く。
「水は上から下へ流れるもんじゃ。順は天が決めとる。人が刻限で切るなど、聞いたことがないわい」
「聞いたことが無いのは、そのとおりですわ」
「聞いたことの無いことを、渇きの年にやるのか」
「渇きの年にしか、やりようがございませんの」
私は帳面を開いて、去年の秋の頁を見せた。
「順番は、去年決めましたわ。飲み水、種と苗、畑、洗い物。城の湯殿は末端。……あれは、皆で決めた順でございます」
「決めたのう」
「新しくはいたしません。この順の上に、刻限を足すだけですの。誰の順番も変わりません。変わるのは、いつ開けるかだけ」
古老は、しばらく杖を握っていた。
「……娘さん。人は、待たされると盗む」
「ええ」
「わしは四十年前に見た。夜中に樋を割った男を、村の者が殴り殺しかけた。あれは水の喧嘩じゃない。順番の喧嘩じゃ」
「ですから、刻限を村の全部から見えるようにいたします」
道具は三つ用意した。ひとつは城の鐘。半刻ごとに一打。丘の上から谷の端まで届く。
ふたつめは、ドナル親方の影棒である。石を一本立てて、足元に線を刻む。
「影が線をまたいだら、次の番じゃ」
「親方。曇りの日は」
「曇りの日は鐘を聞け。鐘が聞こえん日は、そりゃ嵐じゃ。嵐の日にゃ、水の心配は要らん」
三つめは、人だった。
「隊長どの」
「はい!」
「桶隊を、もう一度お集めなさい」
ピノの背が、いっぺんに伸びた気がした。
去年の渇きで、この子は空き桶を叩いて配水の刻限を触れて回った。あのときの隊員は背が伸びて、何人かは畑に出ている。それでも十四人集まった。桶は十四。叩けば、鳴る。
「口の見張りは、どうする」
ジーク様だった。
「刻限で切るなら、切ったことを守らせる者が要る。子どもには重い」
「兵をお借りできますの」
「十人出す」
「……春の軍役は四十でございましょう」
「三十で回す。国境の警邏は、月に三度を二度に減らす」
私は帳面から顔を上げた。この人は今、自分の持ち場を削って、私の持ち場に足した。
「ジーク様。それは」
「言うな」
「申し上げますわ。——助かります」
「……そうか」
この「そうか」は、少し照れていた。首の後ろを掴んだので、間違いない。
*
番水の初日は、うまくいかなかった。当たり前である。うまくいく初日は、たいてい何かを見落としている。
「セラ様! 第四の口、来やせん!」
「どのくらい」
「樋の底が濡れてるだけでさ」
私は水路の脇を歩いて、開けてきた口を順に見た。見て、自分の間抜けさを知った。
上の口を先に開けると、水は乾いた底と壁を濡らしながら進む。乾いた土は水を吸う。上から順に回せば、下へ着くころには吸われた分だけ痩せている。
「順を逆にいたします」
「逆、でやすか」
「いちばん下の口から先に開けますの。次に下から二番目。最後が、いちばん上」
二日目からは届いた。上の村は、最後まで待つことになる。待つ理由は、広場で説明した。
「上の口は、水路がすでに濡れておりますから、少ない水でも届きます。下の口は、乾いた道を通ってまいりますの。ですから下から。……最後になる方には、そのぶんを刻限で足しますわ。半刻に、ひと呼吸ぶん」
「ひと呼吸か」
「ええ。ずるい足し方でございましょう」
「……ずるいのう。じゃが、書いてあるならええ」
当番表は、村ごとに一枚ずつ書いて、広場と口の柱に貼った。末尾に判を捺した。去年、粉屋の女将に約束したときと同じ判である。
判というのは、押した者を縛るために押すものだ。刻限を破られたときに困るのは、破った村ではなく、表を書いた私になる。それでいい。それで釣り合う。
いちばん上の口は、カセル村である。古老の村だった。三日目の朝、私は当番表を持ってその口へ行った。
古老は、もう来ていた。鐘の鳴る半刻も前から栓の前に座っている。手を膝に置いて、栓には触っていない。
「古老。お早いですわね」
「早う来て、待っとる」
「刻限までは、まだ」
「知っとる。じゃから触っとらん」
白髭を撫でて、古老は谷のほうを見た。下の村の口から、細い水が畑へ入る音がする。
「娘さん。わしが破ったら、誰も守らん。四十年前に最初に樋へ手を出したのは、いちばん偉い顔をしとった男じゃった」
「……古老」
「わしは今年、いちばん偉い顔をしとる爺じゃからのう」
鐘が鳴った。
古老は膝に手をついて立ち上がり、栓を抜いた。カセルの田に水が入るのを、腰を伸ばして眺めている。桶隊の子どもたちは、桶を叩くのを忘れて見ていた。
その日、領の田に順番どおり水が入った。
足りてはいない。足りてはいないが、どこも死んでいない。渇きの年の勘定は、そういう書き方をする。
*
夜、書斎で当番表を延ばす作業をした。
卓の隅に、先代の遺図が巻いたまま置いてある。春に開いたきり、今年はまだ一度も広げていない。国境で途切れた線と、その下の一行。あれが何のことなのかを考える余裕が、この三月まったく無かった。
半刻ずつ回して、口は六つ。ひと回りに三日。この配り方で、手持ちの水が何日保つか。溜め池が七つ、遊水地がひとつ、井戸が二十四。数えて、割って、また数えた。
二十日が、二十六日になった。夏は九十日ある。
足りない分を、どこから持ってくるか。
私は去年の帳面を引っ張り出した。冬に禁域の谷でやった仕事の帳面である。壁が孕んでいた。警告線まで指三本だった。だから抜いた。抜いた水の量は帳面に書いてある。私が書いた。
領の雨季ふた回りぶん。
その数字を、今年の当番表の隣に並べてみた。並べて——
筆が、止まった。
窓の外は晴れている。星がよく見える。蛇行部の目盛りは五本。
私は並べた紙を裏返して、そのまま燭を消した。
本日の収支——番水初日、口六つ、桶十四。第四の口へ水が届かず一件(翌日、順を逆にして解決)。
本日の受領——カセルの古老の、半刻早いお座り。
本日の繰り越し——当番表の勘定を、今夜は最後までいたしませんでした。……明日、いたします。




