第35話:正しい数字が、二つ
上流の測量帳の写しは、六冊ある。
去年の秋、二冊ずつ三組に分けた。城の書庫と、ドナル親方の道具箱と、王都のリゼのところ。消せる場所に一冊しか無いから消えるのだ、とあのとき私は思った。
今朝は、そのうちの二組を鞍に括った。消されないためではなく、読ませるためである。
「嬢ちゃん。道具箱の分まで持ってくのか」
「二冊では、片方が間違いだと言い張られたら終わりですもの。四冊ございますと、言い張るほうが疲れますわ」
「……嫌な女になったのう」
「親方に鍛えていただきましたので」
*
アーベル殿は、卓の紙を片付けてから帳面を受け取った。片付ける手つきが速い。読む速さは、もっと速かった。
「上流断面、四十七地点」
「去年の秋と、今年の春の二度でございます。同じ杭、同じ縄、同じ読み手」
「読み手が同じというのは、良い帳面です」
誉められた。少しも安心できない誉められ方だった。
私は観測帳を開いた。
「川幅、去年の同じ日より二尺の減。蛇行部の目盛り、四本の露出。カセル村の井戸は、釣瓶の縄が二尺伸びております。支流三本のうち一本は、先月の半ばで流れが切れました」
「切れましたか」
「切れました。四十年前の渇きの年でも、切れたのは晩夏でございます」
アーベル殿は最後の頁まで見て、帳面を閉じた。
「正しい数字です」
「では」
「あなたの数字は正しい。——ですが、王国の数字も正しい」
そう言って、彼は自分の帳面を出した。
厚い。私の観測帳の三倍はある。開いた頁に、川の名が十七並んでいた。ヴェルガと、その支流と、東の川と、南の川。名の横に、この春の水位と、去年の同じ日の水位と、それから人の数が書いてある。
「東の穀倉三郡。作付は王国の四割。三郡の半分が枯れると、冬に麦を買えない者が七万人出ます」
「……七万」
「王都グランヴェル。井戸に頼る世帯が二万八千。井戸が下がれば川から回します。回さなければ、去年の水害で建て直したばかりの東地区から先に乾きます」
私が設計した町である。名が出てくると思っていなかったので、少し息が詰まった。
「アルドナート辺境伯領。田は王国の百分の一に届きません。人は五千と少し。——夫人。この表であなたの領を上へ動かせば、どこかの行が下がります」
「下がった行にも、名前がございますのね」
「あります。私はそれを見ながら順を付けます」
アーベル殿は頁をめくって、別の綴りを引き寄せた。見覚えのある書式だった。去年の秋、東地区の排水のために私が書いた応急指示書の写しである。
「これは、貴女の紙ですね」
「……お持ちでしたの」
「水配方に回ってまいりました。無償で、判も求めず、施工の順まで書いてある。私はこの紙を三度読みました」
「三度」
「良い紙です。だから申し上げます。良い仕事をした者から先に水が回るのなら、私の役所は要りません」
誉め言葉と拒絶が、同じ息の中に入っていた。器用な人である。器用というより、たぶん、そう喋るしかない場所に長く座っている人だった。
私は懐から、もう一枚の紙を出した。去年、上流の堰を割った紙である。
「王国古法、水条の第一。大河ヴェルガの流水は、王のものにして万民のもの。私領を過ぎるといえども、流れを私し、これを售る者は、王道への叛と見なす」
「存じております」
「万民、とございます。五千人も万民のうちでは」
「うちです」
アーベル殿は、初めて少しだけ間を置いた。
「ですからこの条は、こう読めます。流れは王のものである。ゆえに、王が配る」
……ああ。
〈武器の柄が、こっちを向いてる〉
去年、私はこの条で堰を割った。水は誰のものかと問い、誰のものでもないと答えさせた。誰のものでもない水は、いずれ誰かが配ることになる。配る者が現れた年に、この条は配る側の紙になる。
抜いた剣が、一年で持ち手を変えていた。
「では、順ではなく時期を。夏のうちの十日でよろしいのです。畑ではなく、種と苗のぶんだけ」
「その十日を、どの行から引きますか」
「……」
「意地悪で申しておりません。表に空きが無いのです。空きの無い表から十日を取れば、取られた行が同じ問いを持って、この部屋へ来ます」
正論だった。正論は、たいてい相手の側に立つ。
「アーベル殿。あなたは、正しさで順をお決めになっておりませんのね」
「決められません。正しい行が二十三あるからです。順は政で決まります」
「政」
「王都と、穀倉と、税を納める順です。……夫人。あなたの領は去年、王国の英雄になりました。英雄には、宮廷に貸しを持つ者がおりません」
帰り際、私は戸口で振り返った。
「もう一度だけ伺います。この夏、この領に水は回りますか」
「回りません」
「はっきりおっしゃるのですね」
「はっきり申し上げませんと、待たれてしまいますので」
その一言だけは親切だった。親切の形をしていないだけである。
*
帰り道は川沿いを選んだ。
領境の橋で普請が動いている。去年の沙汰で人足に落ちた者たちが、石を運び、土を搗いている。監督は領の役人で、鞭は使わない。使わなくても働く。渇きの年の飯は、普請場のほうが確かだった。
その列の中ほどから、聞き覚えのある声がした。
「——ですからな、皆の衆。去年、この谷の水は曲げられました」
揉み手の癖は、人足の身なりになっても抜けないらしい。
コルネオである。石を抱えたまま、隣の男に話しかけていた。隣の男は聞いていないふりをしていた。ふりをしながら、耳だけこちらへ向けていた。
「水神様の湖を、人の手で空にいたしました。あれは水神様の貯えでございましてな。貯えを抜いた翌年に、雨が来ぬ。……偶然でございましょうか」
馬は止めなかった。止めれば、話が「領主が口を塞ぎに来た」に変わる。
止めなかったが、背中に声だけは届いた。
「水を曲げた報いですぞ」
橋の袂まで来て、私は轡を引いた。
振り返ると、人足の列は何事も無かったように石を運んでいる。運びながら、何人かがこちらを見ていた。見ている顔は、去年、広場で私の判を信じてくれた顔と同じ種類の顔だった。同じ顔が、同じように黙って、別の話を聞いている。
〈……去年の敵は、水を止めた。この人は、話を配ってる〉
止め方を、私はまだ知らない。堰なら測れる。堰の下へ行って、帳面を開けばよかった。
話には断面が無い。縄を伸ばして幅を測ることも、目盛りを読むこともできない。
橋の下を、細い流れが行った。去年の秋、ここは膝まであった。今は足首も濡れない。
蛇行部の目盛りは四本と半分。空は晴れ。南から強い風が吹いて、雲をどこか遠くまで運んでいった。
本日の収支——測量帳四冊、観測帳二冊、正しい数字ひとそろい。
本日の判明——正しい数字は、二つございました。二つとも正しいとき、順は正しさで決まりません。
本日の繰り越し——去年わたくしが抜いた剣は、持ち手が変わっておりました。それと、背中で聞いた声がひとつ。




