第34話:配分表に、名前がない
王都からの触書は、封を切る前から嫌な厚みがあった。
薄い文には命令だけが入っている。厚い文には、理由が入っている。理由の長い命令が、いい報せだったためしがない。
大広間に人を集めて、私は封を切った。
「王国渇水令。——本年、王国全域の融雪が平年を大きく下回るにつき、大河ヴェルガ本流ならびに支流の取水を、当分のあいだ王国の管理下に置く」
「セラ様。それは、取り上げるってことでやすか」
「順番を決める、ということですわ。どこがどれだけ引いてよいかを、王都が決めますの」
ガレンが眉を寄せた。ドナル親方は鼻を鳴らした。
「よその谷の水の順を、都の役人が決めるのか」
「今年は、決めますのね」
触書には配分表が付いていた。厚みの正体である。
私は指で行を追った。
「第一、王都グランヴェル。第二、東の穀倉三郡。第三、王領クレーヴ……」
細かい字の行が、二十いくつ続いた。追って、追って、いちばん下まで追った。
紙を裏返した。裏は白かった。
「セラ様。うちは、何番でやす」
私はもう一度おもてに戻した。目が滑ったのだと思ったからである。滑ってはいなかった。
「……載っておりませんわ」
ピノが、足を振るのをやめた。
「二十四番でも、末席でもございません。この表に、わたくしどもの領の欄そのものがございませんの」
ヴェルナー卿が、隈の下から指を離した。
「水配方の表は、取水の届出から起こします」
「届出」
「どこの誰が、どの川から、年に何度、どれだけ引くか。宰相府に届けのある土地だけが、あの表に行を持ちます」
「わたくしどもは、届けておりませんのね」
「百年、出す必要がございませんでしたので」
この領は、水を引く土地ではなかった。水を追い出す土地だった。
堤の届け、排水の届け、川筋を付け替える許しの届け。城の書庫の綴りは、どれもこれも逃がすための紙である。引くための紙は、一枚も無い。
〈欄が無い、というのがいちばん強い。反論する場所そのものが無いんだもの〉
「卿。この表に欄を足していただくには、どういたしますの」
「宰相府へ届けを出し、水配方が実地を検め、翌年の表から行が立ちます」
「翌年」
「翌年です。……セラフィーナ殿。私は貴女の味方ではありません。王法の味方です。その王法が、今年は貴女の側に立ちません」
去年、この人は同じ台詞で私を助けた。同じ台詞が、今年は助けにならない。台詞は変わっていない。立っている場所が変わったのである。
「馬を。上流の代官所へ参ります」
「奥方様、本日はもう」
「本日でなければいけませんの。締切という言葉は、この世でいちばん足が速うございますから」
ジーク様が席を立った。
「供をつける」
「二刻の道ですわ」
「二刻の道だから、つける」
押し問答をする時間のほうが惜しかったので、ありがたく二騎お借りした。この人は去年から、私が急ぐと必ず馬を増やす。増やされた馬の数で、心配の量を測る癖がついてしまった。
*
旧バルテル館に入るのは、去年の秋以来だった。
あのときは玄関に金の燭台が四つあった。今日は無い。壁の織物も、彫りの入った長椅子も無い。板張りの広間に卓が三つ並び、その上に帳面が積んである。窓を開け放してあるので、紙の端が風で鳴っていた。
卓の奥の男が顔を上げた。痩せている。四十の半ばだろうか。袖に墨がついていて、その墨を気にする様子がない。
「アルドナート辺境伯夫人でいらっしゃいますか」
「セラフィーナと申します」
「宰相府 水配方、アーベルと申します。——お早い」
「触書が届いて、二刻でございます」
「二刻。私は、三日と見ておりました」
誉められたのか測られたのか、わからない声だった。たぶん後者である。
「配分表に、わたくしどもの領がございませんの」
「ございません」
「書き落としでは」
「ございません。あの表は私が起こしました」
言い訳の余地を、一言も残さない喋り方をする。
「理由を伺っても」
「取水の届けが無いからです。夫人の領は、水を引いた記録を持ちません」
「去年まで、引く必要がございませんでしたので」
「ええ。ですから、ありません」
私は書式を求めた。アーベル殿は卓の脇の綴りから紙を一枚抜いて、こちらへ滑らせた。ためらいがない。
その場で目を通した。上から三つめの欄で、指が止まった。
「……過去五年の取水実績」
「必要な欄です」
「わたくしどもの過去五年は、水を出しておりました。入れてはおりません」
「では、その欄は空きます」
「空いた欄は、どう読まれますの」
「引く必要の無い土地、と読まれます」
欄が空くと、無いことになる。無いものは減らせない。減らせないものは、配分の議論に上がらない。
役所の紙は、たいてい、いちばん困っている者の形をしていない。
「ただし、本年ぶんの届けの締切は先月の末でした」
「……先月」
「触書が出るより前です。渇水令は、届けの出そろった表の上に敷きます。順序は逆になりません」
役所の順序である。正しい。正しくて、こちらは死ぬ。
〈締切が先で、知らせが後。お役所仕事の完成形だわ〉
「特例の申し立ては」
「できます。宰相府へ。裁可は、早くて秋です」
「秋には、麦が終わっております」
「存じております」
この人は聞いていないのではない。聞いた上で、書式の話しかしない。
私は広間を見回した。金の燭台が消えた場所に、飲み水の樽が二つ置いてある。柄杓に添えて木札が下がっていた。館の者の当番表である。いちばん下の行に、代官の名があった。いちばん下の行に、である。
「アーベル殿。ご自身も当番に入っておられますのね」
「館の水も、王国の水です」
この人は私腹を肥やさない。肥やさない人間が正しい配り方をするとは限らない、というのが、今日いちばんの厄介事だった。
「アーベル殿。わたくしどもの領は、今年、水が要ります」
「存じております」
「……ご存じで」
「測っておりますので」
紙の端が、風で鳴った。
この人は私の領の水位を知っている。知った上で、表に欄を作らなかった。
「夫人。ひとつだけ申し上げます」
アーベル殿は帳面を閉じて、初めてまっすぐこちらを見た。
「あなたの領は、去年まで水に沈んでいた土地です」
帰りの馬上で、その一言を何度か転がした。
沈んでいた土地。王都の帳面の上では、この谷は水が多すぎる場所なのである。百年ずっとそうだった。帳面は、去年の冬に私たちがやったことを、まだ知らない。
蛇行部に着いたのは日暮れだった。目盛りは四本、空へ出ている。空は晴れ。南のぬるい風が吹いて、雨の匂いはひとつもしなかった。
本日の収支——渇水令一通、配分表一枚、届出の書式一枚。
本日の判明——この領には、王国の表に欄がありません。欄の無い土地は、後回しにすらしていただけません。
本日の繰り越し——「あなたの領は、去年まで水に沈んでいた土地です」。……そのとおりです。ですから、今年ぶんの数字は、こちらで測ってお持ちいたします。




