第33話:乾いた祝言
花嫁の朝は、湯浴みから始まるものだと聞いていた。
辺境伯家の花嫁の朝は、マルタさんが手桶を睨むところから始まった。
「奥方様。湯殿は、末端でございます」
「存じております。私が決めた順番ですもの」
「飲み水、種と苗、畑、洗い物。……そのあとが湯殿でございますから、本日の湯は」
「無い、のですわね」
「絞り布が三枚ございます」
三枚。婚礼の朝に、絞り布が三枚。
私は笑ってしまい、それからマルタさんに叱られた。笑うと口の中が乾くので、渇きの年には笑いも節約しなければいけないのだそうだ。そんな節約は聞いたことがない。
髪は梳って油で整えた。顔は絞り布で拭いた。婚礼衣装は母の形見でも王都仕立てでもなく、リゼが下町の店で縫って送ってくれた木綿である。裾の内側に、あの子の手で小さく刺してあった。
『濡れても平気な生地にしました。どうせ現場に出るでしょうから』
私の元侍女は、私という人間をよく理解している。
*
式は、聖堂では挙げなかった。
挙げようにも、この領の水神教の聖堂は昨年から扉が閉じたままである。大司祭は流刑になり、勘定方は解体され、巡回司祭は橋普請の人足になった。祝福を売る商いは、去年ひとつ潰れたのだった。
では誰が立ち会うのか、と城でしばらく揉めた。
結論は、蛇行部だった。
二本の水位標の前に、村の者が集まった。ロディからも、カセルからも、再建中のオルムからも来た。立会人は古老とドナル親方。理由は簡単で、この二人が一番よく喋るからである。
古老が咳払いをして、覚えてきた口上を半分忘れ、途中から自分の言葉になった。
「わしはな、この娘っ子が三月で逃げ帰ると賭けた男じゃ」
「その話は本日いたしませんのよ」
「銀二枚、負けた。人生でいちばん気分のええ負けじゃった」
笑い声が土手を渡った。渇いた春の風でも、笑い声はよく通る。
親方は口上を用意していなかった。
「石屋は喋らん。標が二本、立っとる。それで足りる」
足りていた。
私の隣に、ジーク様が立った。黒い外套ではなく、婚礼のための礼装である。丈が少し短い。二十年ぶりに簞笥から出したのだと、あとでマルタさんが教えてくれた。
「セラ」
「はい」
「誓いの文句を、マルタに三つ渡された。全部覚えられなかった」
「……何個、覚えていらっしゃいますの」
「ひとつだ」
ジーク様は、私の手を取った。ひどく硬い手である。剣と、土嚢と、それから去年からは図面の角を押さえるのに使われている手だ。
「水は、二人で読む」
それだけだった。
三つのうちのひとつで、たぶん、いちばん短いものを選んだのだと思う。この人は感情の九割を「そうか」で済ませる男である。誓いを一行に絞ったのは、削ったのではなく、選んだのだ。
「……はい。二人で読みますわ。目盛りの下まで、ぜんぶ」
拍手より先に、ピノが土手を駆け上がってきた。手に、小さな花を一輪持っている。
「セラさま! これ!」
「まあ。どこで」
「第三分水路の、いちばん端。まだ濡れてるとこ、あそこだけだったの」
この春、領で最後まで濡れていた場所から摘んできた花である。
私は、それを髪に挿した。王都の花冠より、よほど格が高い。
*
祝宴は、水を一滴も使わない献立になった。
マルタさんの乾き飯。干した果実。塩漬けの魚。汁物は無し。酒だけは去年の仕込みが樽に残っていたので、大人たちは大いに助かったようである。
「奥方様。汁がございませんで」
「マルタさん。汁が無い婚礼の膳を、私は一生自慢いたしますわ」
「……まあ」
宴の途中、ジーク様が立ち上がった。村の者が静まる。
この人が人前でまとまった言葉を喋るのは、去年の求婚と、今日で二度目である。
「今日から、この領の水は、俺の妻が差配する」
ざわめきが起きた。私も少し驚いた。婚礼の席で言う話ではない。
「治水も、配水も、普請の順番も、全部だ。俺は人を出す。人の並べ方は、俺が決める。水の並べ方は、こいつが決める」
「……ジーク様」
「去年、俺は水に関しては一度もこいつに勝てなかった。負けた側が指図するのは、領のためにならん」
ドナル親方が最初に手を叩いた。次にガレン。それから、村の者が順に。
私は、拍手を聞きながら別のことを考えていた。
権限を渡された、ということは、言い訳の口がひとつ塞がれたということである。これから起きる渇きは、全部、私の帳面に載る。
〈……重たい祝儀だこと〉
悪い気分ではなかった。それが自分でも少し意外だった。
ジーク様が袖から包みを出した。揚げ菓子が、ちょうど二つ。
「甘いものは、隠さなくてよくなったのでしたわね」
「まだ慣れん」
「一生かけて慣れてくださいまし」
*
その揚げ菓子を半分ほど食べたあたりで、土手の下から馬蹄が聞こえた。
早馬である。婚礼の日に走ってくる馬に、いい報せが乗っていたためしがない。
文を開いたのはヴェルナー卿だった。卿は最後まで読んで、目の下の隈を指で押さえた。
「セラフィーナ殿。……お祝いの席で、まことに申し訳ないのですが」
「かまいませんわ。どうぞ」
「バルテル領は王領預かりとなりました。本日付で、王都より代官が着任いたします」
上流である。
去年、私たちが水利権を取り上げ、伯が爵位を返上し、そのまま空席になっていた場所。空席のままでは困る、と私も思っていた場所だった。
「どなたが」
「宰相府 水配方、アーベル殿。……私の、同僚です」
卿は、そこで初めて言葉を選ぶ顔をした。
「有能です。私よりも」
「水配方——王国じゅうの川の水を、どこへ何割ずつ流すか決める役所ですわね」
「ご存じでしたか」
「去年、東地区の改修で書式をお借りしましたの。あの役所の帳面は、よくできておりました」
「よくできております。人の顔が一度も出てこないところが、特に」
卿は自分の言葉に自分で頷いて、それから杯の底を見た。中身はとうに空だった。
「それは頼もしゅうございますわね」
「セラフィーナ殿。——私が言葉を選んでいることに、気づいておられますね」
気づいていた。
髪の花は、日暮れにはもう萎れていた。摘まれたときには、たしかに濡れていたのに。
私はそれを押して、観測帳の一枚目に挟んだ。渇きの記録の、最初の一枚である。
水位、平常より三本半低い。空は晴れ。祝いの夜にしては、星がよく見えすぎた。
本日の収支——婚礼一件、絞り布三枚、汁物なし、揚げ菓子二つ。
本日の受領——この領の水の差配、一式。
本日の繰り越し——上流の空席が、埋まりました。埋めたのは、王都です。




