第32話:去年、空にした湖
城の大広間に、去年一年ぶんの図面を全部広げた。
卓が足りないので床に並べた。分水路、堤、旧水門、付け替えた川筋、東地区の改修図。一年でよくこれだけ引いたものだと、我ながら少し感心する。感心している場合ではないのだけれど。
「本日は、棚卸しをいたしますわ」
「たなおろし?」
「持ち物を、ぜんぶ数えることですの」
ピノに答えながら、私は炭で床に線を一本引いた。左に「流す」、右に「溜める」と書く。
「この一年で作ったものを、どちらかへ振り分けてまいります。ガレン、読み上げてくださる」
「へい。えー、第一分水路」
「流す」
「第二から第六まで」
「ぜんぶ流す」
「オルムの導流堤」
「流す」
「旧水門」
「……流す、ですわね」
左の欄が、みるみる埋まっていく。右の欄は、白いままである。
「セラ様。遊水地は」
「あれは溜めますけれど、増水のときだけですわ。夏まで水を抱えていられる造りではございません」
「じゃ、どっちに書きやす」
「……真ん中に、書いておいてくださいまし」
真ん中の欄ができた。遊水地がひとつと、村の溜め池が七つ。それだけだった。
ドナル親方が腕を組んで唸る。
「嬢ちゃん。右の欄が寂しいのう」
「ええ。寂しゅうございますわ」
「去年は、そのぶん左が働いたんじゃ。文句を言われる筋合いはねえ」
「文句ではございません。棚卸しですの」
私は右の欄を睨んだまま、暗算に入った。
村の溜め池が七つ。満水にして、田の何日ぶんになるか。ひとつあたりの水面と深さを思い出しながら、指で宙に桁を並べる。
七つ足しても、二十日は保たない。二十日。夏は、九十日ある。
背中のほうで、親方がガレンに何か言っていた。
「……しかし妙な話だのう。去年は、あの谷にひと谷ぶん溜まっとったんだぞ」
「へえ。禁域の、あの湖でやすね」
「あれを抜いたのが、つい冬のことじゃ。抜いちまったな、あの湖」
「そりゃ、抜かなきゃ壁が落ちてやしたし」
「そうよ。そうなんじゃがな」
二十日。あと七十日ぶん、どこかから。
「セラさま! まんなかの欄、ふえたよ」
「あら。何がですの」
「城の裏の、雨水ためる甕!」
「……隊長どの。それは、洗濯二日ぶんですわ」
広間に笑いが起きて、棚卸しはそこで一度お開きになった。
人が捌けたあと、私は帳面をもう一冊出した。去年の秋、バルテル伯に水を止められたときの配水の帳面である。
飲み水。種と苗。畑。洗い物。城の湯殿は最末端。人は水を三日、麦は十日。あのとき決めた順番は、そっくりそのまま今年も使える。使えるのだけれど。
あのときの渇きには、栓があった。上流で誰かが閉めた栓である。だから開ければ終わった。蛇行部の目盛りは十一まで空いて、開けた数日後には戻った。
今年は、閉めた者がいない。閉めた者がいなければ、開けに行く相手もいない。
順番だけは決まっていて、配るものが無い。帳面の上では去年より整っている。整っているのに、何ひとつ解けていなかった。
*
夕方、図面を抱えてジーク様の執務室へ行った。
「人が要りますわ」
「何人だ」
「百二十」
「……多いな」
ジーク様は卓の上の別の紙を、指の背でこちらへ滑らせた。徴募の帳面である。
「春の軍役だ。国境の警邏を戻す。去年、うちは一年ぶん手を抜いた」
「存じております。何人ですの」
「四十」
「村から出る男手は、今年もそう増えてはおりませんわね」
「増えていない。減ってもいないが、増えてはいない」
同じ村の、同じ男たちである。畑を空けられる腕の数は、去年と同じだけしかない。
思わず二人とも黙った。
「……ジーク様。同じ人を、二回は使えませんわ」
「ああ」
「どちらを、といういやな問いになりますけれど」
「今日は聞くな」
ジーク様は帳面を裏返して、椅子の背に体を預けた。
「去年は、水が来るとわかっていた。だから人が集まった」
「今年は、来ないとわかっているだけですわね」
「そうだ。来ないもののために、人は走らん」
その通りだった。押し寄せる水には誰でも走る。押し寄せない水のために鍬を握れと言われて、人はどう思うだろう。
〈……去年より、難しい戦だわ〉
「ジーク様。ひとつだけ、決めておきたいことがございます」
「言え」
「割れたときは、必ず数字を先に出しますわ。腹の立て合いには、いたしません」
「……そうか」
わかった、のときの「そうか」だった。いつかこの耳が要らなくなればいいと思う。この人が、全部を言葉で言うようになる日に。
*
翌朝、上流へ出た。
領境の手前、去年の測量で杭を打った断面まで馬で二刻。ヴェルナー卿がついてきた。王都へ報告を上げる前に、自分の目で見ておきたいのだそうだ。
「セラフィーナ殿。宰相府は、辺境の春の水位に興味を持ちません」
「でしょうね」
「王都は今、水に困っておりません。困った記憶なら、去年たっぷり作りましたが」
「記憶は、渇きを癒しませんわ」
断面に着いて、縄と杭で川幅を測った。
去年の同じ日の帳面には、三十二尺と書いてある。縄を伸ばし、ガレンが向こう岸で杭を押さえ、私が読む。
「……三十尺」
二尺。
人ひとりが横向きに立てるだけの幅が、川から消えていた。
しかも、ここは領境の手前である。去年の私は、堰の下から先——上流のほうへ、一度も足を伸ばしていない。バルテル伯の堰が無くなって、上の水は自由になったはずだった。自由になった水が、去年より細い。
〈上で、何かが起きている〉
卿が数字を書き写して、それから初めて顔を上げた。
「これは、私が王都へ持って帰るべき数字ですか」
「持って帰っていただけますの」
「持って帰ります。……ただし、届くかどうかは別です」
帰りの馬上で、ガレンが遠慮がちに聞いてきた。
「セラ様。去年の秋も、川は細うございましたよね」
「ええ。あのときは目盛りが十一まで空きましたわ」
「今年はまだ三本でさ。去年よりましなんじゃありやせんか」
「ガレン。去年の細さには、底がありました」
「底、でやすか」
「栓を開ければ戻る、という底です。今年の細さには、それがございません」
ガレンはしばらく考えてから、帽子を目深にかぶり直した。班頭がこの顔をするときは、たいてい、悪い報せを部下にどう伝えようか考えている。
私は答えを持っていなかったので、黙って馬を進めた。班頭に渡せる言葉が無いまま帰るのは、去年の嵐の前以来である。
水位、平常より三本低い。空は曇。雨の匂いは、しなかった。
本日の収支——棚卸し一件。「流す」の欄、十一件。「溜める」の欄、一件もなし。真ん中の欄、八件(うち一件は洗濯二日ぶん)。
本日の判明——夏は九十日、手持ちは二十日。
本日の支出——川幅、二尺。




