第31話:雪が、来ない
図面を抱えて歩ける春が来るとは、去年の今ごろは思っていなかった。
大水路の第一区間。谷の出口から段丘の裾まで。杭を打つのはガレンの班、高低を読むのは私、番号を控えるのはピノ。王都からはヴェルナー卿が張りついていて、目の下の隈をさらに深くしながら、几帳面な字で帳面を埋めていた。
「セラフィーナ殿。宰相府はこの区間を、三年で通せと申しております」
「五年ですわ。三年で通せば、四年目に崩れます」
「……そう伝えます。ちなみに私は、最初から五年と申し上げておりました」
「存じております。卿はいつも正しいことを、通らない順番でおっしゃいますのね」
卿は答えず、隈をひとつ深くした。
百年前に一度死んだ計画が、二度目の初日を越えて、四十日目を歩いている。鍬入れ式の朝に丘から見下ろした緑は、今年も同じ場所にあった。
……同じ場所に、あるのだけれど。
〈川が、細い〉
踏査の初日から、目の端に引っかかっていた。
この時期のヴェルガの支流は雪解けの水で腹を膨らませる。去年は堤の内側いっぱいに濁った水が走り、分水路の口が飲みきれずに唸っていた。
今年は澄んでいる。澄んだ川は美しい。そして美しい春の川はたいてい、水が少ない。
*
昼の休みに、ピノが帳面を抱えて追いかけてきた。
去年は私の腰までしかなかった背が、いつのまにか肩に届いている。子どもの背丈は、水位より速く上がるらしい。
「セラさま。へんなの」
「何がですの」
「杭。きのうの杭のほう、乾いてるの」
言われて見に行った。
昨日打った杭はたしかに根元まで乾いていて、一昨日の杭も同じだった。三日前の杭には、湿った跡が指一本ぶんだけ残っている。
「セラさま。おれ、まちがえて高いとこに打った?」
「いいえ。あなたの打った場所は正しくてよ」
正しい場所に打った杭が乾くのなら、動いたのは杭ではない。
「じゃあ、水がさがったってこと?」
「そういうことになりますわね」
「……春なのに?」
弟子の問いは、たいてい急所を突く。私は答えを持っていなかったので、帳面の余白に日付と指一本の跡を書き足した。
書き足しながら、指の腹が少し震えているのに気づいた。
*
夕方、蛇行部へ寄った。私の持ち場である。
標が二本並んで立っている。去年の春に一本、この春にもう一本増えた。新しいほうは婚礼より先に届いた贈り物である。二本の目盛りは割り付けが半刻みずれていて、並べて読めば読みの精度が倍になる。設計した男は、それを口説き文句に使った。
「ジーク様。今日のぶんを読みますわ」
「ああ」
ジーク様は剣を提げたまま土手に腰を下ろした。城から半刻の道を、この人はまだ毎日歩いてくる。二十年の癖は、婚礼くらいでは抜けないらしい。
私は裾をからげて水際へ降り、指で目盛りをたどった。
——三本。
去年の同じ日と比べて、目盛りが三本ぶん余計に空へ出ている。濡れていない石の肌には苔もつかず、白いままの目盛りが並んでいた。読み手のいらない目盛りである。本来なら水の下にあるはずの。
「セラ」
「……三本、下がっております」
「増えたのではなくか」
「ええ。春の川が、去年より三本ぶん痩せております」
ジーク様が立ち上がって、隣へ降りてきた。黒い外套の裾が水を含まない。含むほどの水がないのである。
「雪解けはこれからではないのか」
「その、これから、が来ないのですわ」
言ってしまってから、自分の声の平らさに驚いた。
〈融雪のピークが、来ていない〉
山に積もった雪は春に一度だけ、まとまって川へ降りてくる。その塊が来ないということは、山の上に降りてくるべき塊がそもそも無かったということだ。
水は嘘をつかない。目盛りが三本空いているなら、川には三本ぶんの水が無い。それだけの話で、それ以上でも以下でもない。
「……そうか」
困っているときの「そうか」だった。この一年で、私の耳はずいぶん器用になった。
*
翌日はカセル村へ回った。
井戸の釣瓶は、縄の結び目が去年と違う位置で擦り切れていた。長く出さないと水に届かないのである。
「奥方様。今年は釣瓶が軽うございますね」
マルタさんが言った。軽いのは、汲める量が少ないからだ。
井戸端には白髭の古老がいた。相変わらず精一杯の顔で威張っている。
「娘さん。わしはな、前々から申し上げておったろう」
「……何を、でしょう」
「今年は山の雪が、いやに薄いのう、と」
鍬入れ式の帰り際に聞いた、あの一言だった。あのとき私は、婚約の返事と根固めの捨て石で頭がいっぱいだった。帳面の隅に書き留めただけで済ませてしまった。
書き留めただけで、済ませてしまった。
「古老。薄いというのは、どのくらい」
「四十年前を覚えとるか、と問われれば、わしは覚えとる」
「四十年前——渇きの年ですわね」
「おう。麦が実らんで、冬に三人死んだ。あの年も、春の雪が薄かった」
古老は皺の指を二本立てて、それを目の高さで揃えた。
「じゃがな、娘さん。あのときの雪は、これよりは厚かったわい」
四十年前。
この村には、渇きを覚えている者がいる。それ自体は救いである。覚えている者がいるということは、覚えている手が残っているということだ。
救いでないのは、その覚えている当人が「あのときより悪い」と言っていることだった。
「娘さん。去年はようやってくれた。じゃがのう」
古老は乾いた井戸のふちを、皺の手で撫でた。
「水が多すぎて死ぬのは一晩じゃ。水が来んで死ぬのは、半年かかる」
マルタさんが釣瓶の縄を握ったまま動かなくなった。桶隊あがりの子どもたちが、いつのまにか井戸端の後ろに集まっている。
半年。私の帳面には、半年ぶんの欄が無い。氾濫の帳面は、一晩で締まるからである。
*
その夜、書斎に去年の観測帳を全部引っ張り出した。
春の流量、夏の流量、雨季の総雨量。数字を並べ替えて、並べ替えて、どう並べ替えても同じ形になる。
私はこの一年、多すぎる水をどこへ逃がすかだけを考えてきた。分水路も旧水門も付け替えた川筋も、ぜんぶ「逃がす」ための道である。
逃がす道は六本ある。
溜める器は、いくつあっただろう。
答えは、ひとつも無い、であった。
水を治めるとは、これまでの私にとって、水を追い出すことだった。追い出した水は、追い出した先で、誰かの水になる。当たり前の話である。その当たり前を、私は一年かけて一度も裏返さなかった。
卓の隅に、婚礼の翌朝の帳面が開いたままになっていた。今年の雨季は眠れる雨季にいたします。そう、私はあの人に申し上げたばかりである。
眠れる雨季には、なりそうだった。——雨が来なければ。
窓の外、春の夜の水位は平常より三本低く、空には雲がひとつも無い。今夜も明日も、たぶんその次も。
本日の収支——踏査四十日目、杭三十七本、正しい進言一件(通らず)。
本日の支出——雪解け水、一年ぶん。
繰り越しがふたつある、と春に書きました。国境で途切れた線と、薄い山の雪。……先に取り立てに来たのは、雪のほうです。




