第30話:求婚の場でも、水路の心配をしてしまった
丘の上から見下ろすと、去年まで泥色だった土地が、目の届く限り緑だった。
復田した畑に早苗の色。付け替えた川筋は素直に光り、分水路が六本、櫛の歯のように水を配っている。葦の海は渡り鳥の中継ぎ宿になり、オルム村の再建の槌音が、風に乗って届く。水は、配りさえ間違えなければ、こんなにも気前がいい。
一年前、私はここへ「三月で逃げ帰る」と笑われて来た。旅行鞄ひとつ、味方はゼロ。いまは目の下の緑がぜんぶ、帳面の黒字である。
その丘で、大水路の鍬入れ式があった。
王都からヴェルナー卿。流域の村々から村長たち。オルムの村長は真新しい帽子で、カセルの古老は精一杯の礼服で来た。式の初めに、谷から運ばれた石の碑が除幕された。彫られているのは、名前ではない。
『水ハ嘘ヲ吐カズ。故ニ人、水ニ誠ヲ以テ応フベシ』
あの旧水門の銘の写しである。名の伝わらない技師の碑文は、これしかないと皆の意見が揃った。除幕の綱を引いたのはドナル親方で、親方は今日のために、五代前の合印を碑の裏にこっそり彫り足していた。相棒の仕事に判を押すのは、石工の家の務めなのだそうだ。
最初の鍬は、閣下と私が並んで入れた。百年前に一度死んだ計画の、二度目の初日である。拍手の中、古老が誰にともなく威張った。
「わしは最初から、娘っ子はやると思っとったわい」
「賭けに負けた方の台詞ではありませんわね、それ」
*
式が果てた夕暮れ、閣下に袖を引かれた。
連れて行かれたのは、蛇行部の水位標だった。私の持ち場。夜ごと二人で目盛りを読んだ、あの場所である。
そこに——標が、二本立っていた。
見慣れた古い標の隣に、真新しい白い標がひとつ。石の肌にドナル親方の鑿の目が光り、目盛りの割り付けは私のものと寸分違わず……いいえ。
〈……割りが、半刻みずれてる〉
二本を並べて読めば、目盛りの間が半分に割れる。つまり、読みの精度が倍になる。なんて贅沢な設計。誰ですの、こんな口説き方を考えたのは。
「……セラ」
閣下が、私の前に立った。首の後ろを掴みかけて、思い直したように手を下ろし、まっすぐこちらを見た。
「言葉が要る場面だと、マルタに脅されてきた。だから、言う」
戦場の黒狼が、深く息を吸った。
「俺は水に負け続けた男だ。二十年、夜ごと水位を見ては、次に取られるものを数えていた。あんたが来てから、数えるものが変わった。守れた家。戻った畑。名前を呼び合う村。……増えていくものを数える夜は、生まれて初めてだった」
「閣下……」
「古い標はあんたのだ。新しいのは、俺のだ。観測は、二人で見れば倍——あんたの言葉だ。前に、残ってくれと言った。今日は違う」
閣下は、そこで初めて、少しだけ笑った。
「隣で、生きてくれ。……あんたの図面の完成まで、と言いたいが、あれは孫の代までかかる。だから、期限はなしだ」
目の奥が、熱くなった。熱くなったのだけれど。
視界の端で、新しい標の基部が気になってしまった。据えたばかりの根固めの石の目地。あそこ、増水のとき洗われたら——ああもう、こんなときまで。前世からの、業である。
「……セラ?」
「も、申し訳ありません閣下、お受けする前にひとつだけ——新しい標の根固め、雨季前に捨て石をもうひと回り」
「…………」
「い、いえ、あの、順番が! 違いますわね!? ええと、お返事が先で」
閣下は目を丸くして、それから、声を立てて笑った。この人のこんな笑い声を、私は初めて聞いた。思いのほか若い、いい声だった。
「……いいや。それでいい。それがあんただ。断罪の場で水路の心配をした女は、求婚の場でも水路の心配をするんだな」
「〜〜っ、ええ、いたしますとも! お受けいたしますわ、閣下。隣で、測らせてくださいまし。期限なしで」
「ジークだ」
「……ジーク様。ふつつかな技師ですが、末永くよろしくお願いいたします」
そのとき、土手下の葦が盛大にくしゃみをした。
ピノと、マルタさんと、ガレンと、ドナル親方と、ついでに古老が、折り重なって隠れていた。隊長どのは泣きながら飛びついてきて、マルタさんは「ようやく、お呼び間違いでなくなりました」と前掛けで目を押さえ、親方は「標の出来はどうだ」と胸を張り、古老は「わしは最初から」と言いかけて全員に止められた。ガレンは何も言わず、ただ空に向かって拳を突き上げていた。
閣下——ジーク様が、袖から包みを出した。揚げ菓子が、ちょうど二つ。
「……半分こ、ではありませんのね」
「ひとつずつだ。観測と同じで、菓子も二人なら倍だ」
甘いものを袖に隠す癖は、これからは隠さなくてよいのだと、そのうち申し上げようと思う。
帰り際、隊長どのが真顔で聞いてきた。
「セラさま、けっこんしても、水位見習いはクビにならない?」
「なりませんわ。大水路が始まるんですもの、読み手は何人いても足りなくてよ。——あなたもいずれ、弟子をお取りなさいな」
「おれが、師匠に!?」
*
夜、城の書斎で、二人で遺図の最終葉を広げた。
大水路の線は、谷から海まで走り——一本だけ、領の外へ延びる線があった。線は王国の境を越え、隣国との境を流れる大河の岸で、途切れている。余白に、あの几帳面な字でひと言。
『水に、国境は引けぬ。続きは、次に読む者へ』
「……宿題は、まだ続くようですわね」
「ああ。だが今夜のぶんは、もう帳簿を閉めろ」
「ええ。……ああ、それからジーク様。古いお約束をひとつ、今年こそ果たせそうですわ」
「約束?」
「今年の雨季は——眠れる雨季に、いたしますわね」
「……そうか」
嬉しいときの「そうか」である。聞き分けられる耳を、私はこの一年で手に入れた。
窓の外、春の夜の水位は穏やかだった。ただ、式の帰り際の古老の一言が、帳面の隅に引っかかっている。——今年は山の雪が、いやに薄いのう、と。
薄い雪は、少ない雪解け水。少ない雪解け水は、痩せた夏の川。水の宿題は、形を変えて必ず来る。今度は、多すぎる水ではなく。
水位、平常。空は星。次の観測も、二人でだ。
本日の収支——鍬入れ一件、碑一基(除幕済み)、水位標一本(贈答品)、揚げ菓子二つ、婚約者一名。過去帳の宿題、完済。
ただし新しい帳面に、繰り越しがふたつ。国境で途切れた線と、妙に薄い山の雪。……水の仕事に、期限はなしです。




