第29話:百年遅れの、謝罪状
王都が沈黙している間、領では雪が解け始めていた。
水抜きは順調で、湖はもう「大きな溜め池」と呼べる背丈まで痩せている。空にした谷の斜面には、百年ぶりの日を浴びた草の芽が、気の早い緑を出し始めていた。土地というものは、日と水の配分さえ正せば、恨み言も言わずに芽を出す。人間より、よほど気前がいい。
それでも私は毎晩、少しだけ眠りが浅かった。
図面の写しは、王都へ行った。百年前、同じ図面を持って王都へ行った人は、聖域の名の下に封じられた。紙の行く先には、政治が待っている。百年で、王都の水位は変わっただろうか。
「変わっていなければ、また百年、待てばいいだけですわ」
「……待つ気か」
「あら。今度はこちらに、図面も、実測も、水見帳も、それから」
隣で目盛りを読む人を、ちらりと見上げる。
「剣を貸してくださる方も、おりますもの」
ヴェルナー卿が戻ったのは、根雪の消えた朝だった。
供は書記官と、王命の兵が十騎。卿は広間に入るなり、卓の上に書筒を二本、几帳面に並べた。目の下の隈が、初めて会った日より、さらにもう一段深くなっていた。
「先に申し上げておきます。宰相府には、図面を接収して谷を再封鎖せよという声も、ございました」
「……でしょうね」
「その声は、負けました。理由は三つ。検分の調書。教団自身の水見帳。それと——一度撤回した冤罪の先例です。王家は学びましたのですよ。隠した水は、必ずどこかで溢れると。……正直に申せば、四つ目もございます。あの『預かっていた』の一行以来、私が寝覚めの悪さに任せて調書を書きすぎました」
卿は一本目の書筒を開いた。
「国王陛下の名において、布告する。——百年前、旧き王家がヴェルガ上流に貯水の器を築き、その危うきを知りながら、教団と諮りてこれを聖域の名の下に隠蔽せしこと、事実と認む。以来百年、流域に起きたる氾濫の災いは、天災に非ず、神罰に非ず。王家と教団の隠蔽に起因する人災なり。王家はこれを流域のすべての民に、公式に謝罪する——」
広間は、水を打ったようだった。
マルタさんが両手で口を覆い、ガレンが天井を仰いだ。王家が、自分の恥を、自分の言葉で読み上げさせている。百年前に封じられた具申が、百年かけて、玉座まで遡ったのだ。
「——あわせて、百年前に器の危うきを具申し、容れられざりし治水の技師を、名は伝わらざるも『王国治水の祖』として記録に載せ、谷の水位標の傍らに碑を建てる。その遺せし大水路の計画を王国の事業として起こし、総責任者にセラフィーナ・ローウェルを任ずる」
名は、要らぬと書いた人。その人の碑が、あの白い標の隣に建つ。目盛りは、これからも読まれ続ける。約束は、果たされる側に回ったのだ。
この布告は、写しが流域の全部の村で読み上げられるという。カセルの古老が聞いたら、なんと言うだろう。三十年前の大水で身内を流された村は、あの村だけではないのだ。「神罰じゃった」と諦めてきた人たちが、明日からは「人災だった」と怒れる。怒れるというのは、諦めより、ずっと生きている。
*
二本目の書筒は、沙汰書だった。
卿は事務の声で、淡々と読んだ。大司祭オズウェルド、位階剥奪の上、北の孤島へ流刑。教団は王命の検問の下、勘定方を解体して出直し。バルテル卿、爵位返上。コルネオ元司祭、供述の功により減刑——流域の橋普請の人足を三年。あの御仁、案外まっとうな汗のかき方を覚えるかもしれない。
そして。
「王太子アルディス殿下は——東宮の位を、退かれます」
断罪の捏造への関与、東地区改修停止の決裁、教団よりの献金の調べ。三つ重なれば、玉座への階は流失する。あの夜、玉座の階の上から私を見下ろした人は、階ごと水に浚われたのだった。留飲より先に、妙な感慨が来た。濡れた椅子に座り直さなくて、本当によろしゅうございましたわね、殿下。
沙汰書の末尾に、小さな一項があった。
「元聖女ミレーヌ。教団の帳簿持ち出しと証言の功により罪一等を減じ、王都の療養院にて勤労。……本人からセラフィーナ殿へ、言伝を預かっております。『鐘の勘定、確かに払いました』と」
「……ええ。帳面に、受け取りと書いておきますわ」
同じ早馬が、リゼの手紙も運んできてくれた。
『布告は、王都の広場でも読み上げられました。東地区では、皆が新しい水路の縁に集まって聞いたそうです。読み手が「人災なり」と言ったとき、拍手も歓声もなく、ただ皆、堤の上の水位標に頭を下げたのだと。誰に教わったわけでもありませんのに。……お嬢様。王都の水位標には、いま花が供えてございます』
手紙は、三度読んだ。三度目は、少し滲んだ。
*
夕方、閣下と二人で、カセルの外れの丘へ登った。
小さな墓石が二つ、並んでいる。閣下の母君と、妹君の。
閣下は布告の写しを、墓前に広げて置いた。石で四隅を止め、長いこと、黙っていた。二十年、この人は「守れなかった」を独りで背負ってきた。八つの子どもに、百年の隠蔽が背負えるはずもなかったのに。けれど、あの夜の水は、神罰でも、この人の弱さでもなかった。書いてある。王家の紙に、公式に、書いてある。
「……遅くなった」
やがて閣下は、墓に向かってそれだけ言った。
「嘘は、ぜんぶ測り終えた。——あんたの子守唄は、正しかった」
風が丘を渡って、紙の端を鳴らした。返事のようだと思ったのは、私の欲目だろうか。
帰り道、閣下は私の半歩前を歩いた。その背中が、来たときより少しだけ、軽く見えた。
そういえばこのごろ、閣下は妙である。ドナル親方と何やらこそこそ談合しては、私が近づくと図面を裏返す。うちの領で、私に見せられない普請というのは、いったい何なのか。
「閣下。隠し事は、水位に出ますのよ」
「……そうか」
出た。誤魔化すときの「そうか」である。
丘の下では、雪解けの川が音を立てていた。水位、上がり始め——ただし今年は、誰も眠りを妨げない上がり方である。
本日の収支——謝罪状一通(百年遅れ・受理)、碑一基(建立予定)、東宮一名(水位低下)、言伝ひとつ(勘定済み)。
それとは別に、閣下に不審な図面一枚。……次回、正体を突き止めます。




