第28話:最初のひとりじゃ、なかった
満杯の器の底の栓を、いきなり抜いてはいけない。
水の重みぜんぶが栓の穴に集まって、抜いた者ごと呑むからだ。だから順番を組む。まず上から少しずつ零して器を軽くし、軽くなってから、底の栓に手を掛ける。
「第一段。溢れ口の崩れ石を除けて、敷きを一段だけ切り下げます。零す量は、旧河道と旧水門が呑める量まで。一滴もそれ以上は零しませんわ」
下流には先触れを出し、旧河道筋の村々には水見の番を置いた。ピノ隊長は蛇行部の標に張り付き、朝晩の読みを早馬ならぬ早駆けの子どもたちで繋いでくる。読み違えれば、抜いた水がそのまま人災になる。百年前の後始末を、百年後の事故で汚すわけにはいかないのだ。
人足たちが、また上流へ集まってくれた。堤を築いた顔ぶれ、桶隊あがりの若い衆、それに——武器を捨てた僧兵の幾人かが、雪の中でおずおずと鶴嘴を握った。行き場のない若者に、教団は寝床で、ここは日当と二食である。
「セラ様。あいつら、使えますぜ」
ガレンが顎で示した先で、元僧兵たちは黙々と石を運んでいた。
「体の使い方が丁寧でさ。……坊さんの修行より、給金の出る修行のほうが、性に合うんでしょうよ」
ガレンの班が石を除け、ドナル親方が敷きの高さを指一本きざみで刻む。切り下げた敷きを、最初の水が滑らかに越えた瞬間、谷にどよめきが走った。零れた水は旧河道の太い筋を駆け下り、開け放った旧水門をくぐって、葦の海へ吸われていく。
百年前の保険が、百年後の水を受けている。設計した誰かの手の中で、私たちは働いているのだった。
*
湖が、日に日に痩せていった。
水位標の目盛りが、ひとつ、またひとつと水面の上に現れる。警告線は指五本ぶん頭上へ遠のき、立ち枯れの木々が骨から幹に戻り、沈んでいた谷の斜面が、百年ぶりに空気を吸った。
異変に気づいたのは、様子見に登ってきたピノだった。
「セラさま! 標の下に、なんかある! 扉みたいの!」
水の引いた水位標の基部に、平たい石が嵌まっていた。縁に鑿の目。ドナル親方が目地を検め、玄能を一度だけ当てると、石は乾いた音を立てて外れた。
中に、青銅の筒がひとつ。蓋は蝋で封じられ、封蝋には紋も花押もなく、ただ短い波の線がひと筋、彫られていた。
中身は、油紙に幾重にも包まれた——手記だった。
*
その晩、庵の囲炉裏で、私は手記を読んだ。閣下と親方とガレンが、火を挟んで聞いていた。
インクは褪せ、名乗りの頁は水が滲みて読めない。けれど、文字の組み方でわかった。図面の寸法の振り方で、勘定の桁の揃え方で、わかってしまった。
この人は、私と同じ場所から来た人だ。
『——王命により器を築いたが、地山が器に向かぬこと、竣工の翌年に知れた。抜くべしと具申し、容れられず、聖域の名の下に封じられた。責は器を築いた我にある。せめて、と乞うて旧河道に門を残した。零れた水の、逃げ道である。あれが役に立つ日が来ぬことを祈るが、水は祈りを聞かぬ。ゆえに、図を遺す』
『器を空にし、水を分けて流す道——大水路の図を、水門の軸室に封じた。図は水の番人に預けるに限る。石はガルドに任せた。彼の布積みは百年保つ。我が言葉は、水辺の子らに唱え歌として置いてきた。石より紙より、子守唄は長持ちするゆえ』
『思えば、故郷でも水に敗れてこの地に来た。二度目も敗れた。敗れた者にできるのは、次に来る者の荷を、少し軽くしておくことだけである』
『我が名は、要らぬ。この標の目盛りが読まれ続けるなら、それでよい。いつかまた、水を読む者がこの谷に立つ。その者へ。——水は嘘をつかない。だから、恐れるな』
最後の一行で、私は駄目になった。
子どもの頃から夢に見た白い標。親方の家に伝わった石積みの手。あの嵐の夜に開いた門。口癖の出典。ぜんぶ、この人の置き土産だった。
わかるのだ。図面の途中で死ぬことが、どれほど無念か。私も一度、そうやって死んだ。守り切れないまま現場を離れる者の、あの引き剥がされるような感じを、この人も知っていた。知っていて、恨み言のかわりに、荷を軽くする方を選んだ。
私はずっと、たった独りで百年前と戦っているつもりでいたのに。
「……最初の、ひとりじゃなかった」
涙は、拭かなかった。囲炉裏の火が爆ぜて、誰も何も言わなかった。ドナル親方だけが、洟を派手に鳴らした。
「ガルド。……ガルドってのは、うちの五代前の名だ。家伝の口上にだけ残ってる。『ガルドの布積み、百年保つ』——自慢話じゃなくて、請け負いの口上だったのか。……おい、聞いたか、じいさま。百年保ったぞ。注文どおりだ」
閣下が、静かに言った。
「唱え歌、と書いてあったな」
「ええ」
「母の子守唄だ。水辺の家の子は、みんな歌えた。……あの人は、この谷の技師に、二重に守られていたのか。石の門と、言葉と」
閣下は手記の波の封蝋を、指でそっとなぞった。二十年前に間に合わなかった保険と、二十年後に間に合った保険と。それから、囲炉裏の火に薪を一本足して、ぽつりと言った。
「……礼を言う相手が、百年遅いな」
「いいえ、閣下。目盛りを読み続ければ、それが礼ですって。ご本人がそう仰ってますわ」
*
三日後、旧水門の軸室の蓋石が開いた。
油紙の包みから現れたのは、幾十葉もの図面——谷から海まで、水を分けて配る大水路の全図。取水の堰、配りの枡、村ごとの樋の口径まで、桁の振り方も美しい、未完の設計図だった。私が三年かけて引くつもりだった線の、そのまた先まで引いてある。
立ち会ったヴェルナー卿が、図面を一枚ずつ検めて、長い息を吐いた。
「……セラフィーナ殿。王都は、これを放っておきません。良くも、悪くも」
湖の水位、警告線まで指九本。空は雪雲が切れて、谷の底まで冬の陽が差した。百年ぶりの日向である。
本日の収支——手記一冊、大水路の図面ひと揃い、五代前の名前ひとつ、先達ひとり(百年遅れの着任挨拶を頂きました)。
図面は王都へ写しが行きます。……紙の行く先には、政治が待っているものですが。




