第27話:百年目の、決算
「これはこれは、セラフィーナ殿」
大司祭オズウェルドは、輿を下りても足音をさせなかった。雪のちらつく谷底で、その声だけが暖かかった。暖かい毒である。
輿の脇には、見覚えのある丸い背中が竦んでいた。コルネオ師である。目が合うと、師は勢いよく空を見た。空に用のある顔ではなかった。
「聖域を犯し、水神の御座を暴くとは。……嘆かわしい。ですが、わたくしは悲しんでいるのです、セラフィーナ殿。貴女ほどの才が、なぜ神と争う道ばかりお選びになる。水を治めた、王都を負かした、伯爵を退けた——結構結構。なれど人の勝ちには、必ず驕りの水が溜まる。いま膝を折り、見たものを忘れると誓うなら、すべてをとりなして差し上げましょう。神は寛大です。……悔い改めるなら、今のうちですぞ」
「あら。忘れるには、少々測りすぎましたわ」
私は、壁を背にして立った。閣下とドナル親方が左右に、ガレンが写しの束を抱えて後ろに。僧兵二十が、扇に開いて道を塞いだ。
「では伺いますわ、大司祭様。あの底樋——水を抜くための口を、石と漆喰で殺したのはどなた? 漆喰は百年、塗り直され続けておりましてよ」
「水神の御業を、人の穴口のように」
「御業。結構ですわ。では、これも御業かしら」
ガレンが、束の写しを掲げた。
「『水見帳』。百年ぶんの、ひび割れと水位の実測。教団は氾濫を神罰と呼びながら、ご自分たちは月に二度、一度も欠かさずこの壁を測っていらした。三十年前『目地、指一本開く』。二十年前『孕み、進む』——二十年前ですわ、大司祭様。あの氾濫で、この領の何人が水底に沈みましたかしら」
初めて、大司祭の目が笑いを消した。
「測って、知って、黙って、零れた水を神の怒りと呼んで、寄進をお集めになった。渇きの年には『雨乞い』の布施を、氾濫の年には『鎮め』の布施を。器がある限り、どちらに転んでも実入りになる。氾濫は天災でも神罰でもない。あなたがたが百年かけて造り、守り、売ってきた——商品ですわ」
「……ちなみに最後の頁の筆跡は、鑑定に及びませんの。聖女様の先触れの書状と、同じ手ですから」
「ひっ」
コルネオ師が、輿の陰で見事に跳ねた。大司祭の目がゆっくりとそちらへ動き、師は蛸色を通り越して、雪より白くなった。
「……ふ。ふふ。それがどうかしましたかな」
毒が、剥き出しになった。
「その帳面は教団のもの。聖域で盗まれた贓物です。盗人の写しなど、王都の誰が信じます? ここは聖域、あなたがたは犯した側。証人は雪と石ころばかり。——連れよ。抵抗すれば、それも神の御心よ」
僧兵が、一斉に動いた。
その先頭の二人が、次の瞬間、雪の上に転がっていた。
閣下が、抜きもしなかった。鞘ごと薙いで二人を掃い、残りの十八人の前に、ただ立った。
「……ここから先は、俺の領の水源だ」
戦場の黒狼は、声も荒らげなかった。
「水は誰のものでもないが、この谷の下で眠る民は、俺のものだ。二十年前の帳面のぶんも、まとめて相手をしてやる。——試したい者から、前へ」
誰も、前へ出なかった。若い僧兵たちの何人かは、そもそも得物の握り方が農具のそれだった。行き場がなくて法衣を着た手である。閣下もそれを見て取ったから、抜かなかったのだと思う。
*
膠着を破ったのは、蹄の音だった。
谷の入り口から、王命の旗。ヴェルナー卿と王命の兵、二十騎。
「——王命検分使、ヴェルナーである。バルテル卿の供述『預かっていただけ』の裏付けにつき、当該の谷を検分の対象に加える。全員、その場を動かぬように」
そして卿の馬の後ろから、外套の人影がひとつ、雪を踏んで進み出た。
鈴の音は、しなかった。聖女の装束でもなかった。ただの旅装の、痩せた娘だった。
「ミレーヌ……! 貴様、なぜここに」
「大司祭様。お捜し物を、お届けに上がりました」
彼女が卿に差し出したのは、革帯で括られた古い帳簿の束だった。
「大聖堂禁書庫、奥の壁の二重底より。——皆様が百年、『ない』ことにしてきた帳簿にございます。造営の出納、石工への手間賃、そして……封印の指図書まで」
「き、貴様、駒の分際でッ」
「はい。駒でございました」
娘は、静かに頭を下げた。稽古の角度ではない辞儀を。
「駒は盤を降りるとき、見てきた盤面を、ぜんぶ持って降りられますの」
*
ヴェルナー卿が帳簿を検め、顔色を変えた。
「……造営主は、旧王家。竣工の翌々年に危険が発覚、時の教団が『聖域封鎖』を献策——大司祭殿。これは、あなたの教団と王家の連名の」
「知らぬ! わしは知らぬ、あれはっ——あれを造らせたのは王家ぞ! 我らはただ、王家の恥を百年、預かって差し上げただけのこと! 感謝こそされ、なぜ……!」
言ってから、大司祭は自分の言葉の水音を聞いた。
預かって。バルテル伯爵と、同じ言葉だった。駒は、いちばん深いところまで行っても、やはり駒の言葉で終わるのである。
雪の中、王命の兵が輿の主を引き立てていく。コルネオ師は縄も掛けられないうちから両手を差し出して、何もかも話す構えだった。ああいう小物ぶりは、いっそ得難い才である。僧兵たちは武器を捨てて、ただの寒そうな若者の列に戻った。
〈ざまぁ、というもの。前世から数えても、目の前で見たのは初めてだわ〉
存外、静かなものだった。歓声もなく、雪が音を吸って、ただ百年ぶんの勘定が一枚、めくれただけ。
去り際、ミレーヌ様が一度だけ振り返った。
「……鐘は、もう鳴らせませんけれど」
「ええ。今日のは、鐘より響きましたわ」
*
「終わりましたわね」
「……いや」
閣下が、壁を見上げた。ひと谷ぶんの水を孕んだ、静かな壁を。
「神罰は失脚した。だが水は、まだそこに立っている」
雪は本降りになってきた。湖の水位、警告線まで指二本半——雪もまた、春には水になるのだ。
本日の収支——大司祭一名(王命により回収)、司祭一名(自主的に全面供述)、消えた帳簿ひと束(百年ぶりに発見)、駒二枚(うち一枚、自分の足で盤を降りました)。
残るは、器の中身。……次回、百年ものの水抜きに挑みます。




